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ハーモニカ、ギター、民謡酒場


               文化格差の縮小―楽器、書籍、映画を例にして―(2)

                  ☆ハーモニカ、ギター、民謡酒場

 戦前、家にある楽器と言えばハーモニカだった。これだけは一般家庭でも何とか買える程度の値段だった。それで、子どもも含めてたいていの人は吹けた。
 他に楽器と言えば小学校の各教室にあるオルガンだけ、それも生徒はひいてはならない触ってもいけないもの、音楽の時間に先生が伴奏してくれる時に聞くだけのものだった。
 なお、旧山形市内の端に新しくできた私の小学校にはグランドピアノが一台講堂にあったが、これも朝礼や儀式のときに歌う歌(君が代や紀元節等の歌)や校歌の伴奏で聞くだけだった。それから大小のラッパと太鼓があった。運動場や道路で全校生徒が軍隊並みに行進をするとき、何人かの上級生が先頭に立って当時の軍楽隊と同じようにそれを吹き鳴らして軍歌などを演奏して歩くのである(「ラッパ鼓隊」と言ったような気がする、シンバルなど他にも楽器があったような気がするが、思い出せない)。小太鼓の響きがいい上にかっこよく、自分が上級生になったらぜひそれをやりたいと思っていたのだが、敗戦でその希望はどこかに行ってしまった。
 ただし、村々の小さな小学校にはオルガンしかなかった。それとハーモニカ以外に村にある楽器と言えば神社や地域の祭りに使う笛太鼓などの和楽器だけというのが普通だった。琴、尺八、三味線もあったが、琴はお金持ちの女性が、三味線や尺八は民謡の伴奏やお座敷の芸で、あるいは虚無僧や門付けが用いるものなので、みんな知ってはいたけれども一般の家庭にはなかった。

 1955年、今井正監督による『ここに泉あり』という映画が上映された。終戦直後に生まれた地方交響楽団が苦労しながら育っていくというものだが、そのなかに資金稼ぎのために数人編成でチームを組んで各地を演奏して回るというところがある。その一環として山村の小さな小学校で演奏したとき、子どもたちが生まれて初めて聴く洋楽器の演奏に感激し、バイオリンなどの楽器に目を見張り、最後に子どもたちみんなが感謝の意をこめて『赤とんぼ』の歌を歌いながら、山を歩いて下っていく楽団員を見送る、こんなシーンがあったが、私などはそこですごく感動すると同時にこうした文化格差をなくすために都市部ばかりでなく農村部でもっともっと演奏会などをやってもらいたいと思ったものだった。
 そうなのである、農山村では洋楽器などハーモニカとオルガン以外見たことも触ったこともなかったのである。
 もちろん町場でもあまり変わりなかった。ちんどん屋やサーカスのジンタでクラリネットや洋太鼓を見る程度、音楽会などはほとんど開かれなかったし、開かれたとしても金持ちしか聴きに行くことができなかった。

 私の生家でも楽器と言えばハーモニカ、それに仏壇の奥にしまってある尺八(後でわかったのだが、専門家に言わせると200年くらい前のものでかなり由緒のあるものらしい)だけだった。この程度だったところに、1946年、前回の記事で述べたようにギターをM叔父が買ってきたのである。珍しかった。叔父が教本を見ながらポロンポロン爪弾くのをわきで聞いていた。
 ある時、何を思ったか父が叔父のギターを弾き始めた。何と『影を慕いて』の伴奏がきちんと弾ける。一度しか聞けなかったたが、驚いた。若いころに覚えたらしいのだが、どこでどうやって覚えたのかは聞かなかった。
 これを書きながらまた思い出したのだが、終戦間際に空襲対策で家の中をすっかり空っぽにするのを手伝っていた時、押し入れの奥から弦の切れたマンドリンが出てきた。なぜこんなのがあったのか、聞いたかどうかすら覚えていない。
 いずれも、生家が町と村の境にあり、相対的に経済的に恵まれている人たちの住む町の文化との直接的な接触があったからなのだろう。

 後輩の研究仲間AN君からこんな話を聞いたことがある。彼の生まれは群馬の山の中の開拓地、そこは軽井沢の裏側にあるのですぐ近くに別荘地があった。そこには教科書などにも載っている高名なKR画伯の別荘もあった。夏になると、その娘でこれまた有名な女優のKKたちが避暑に来て、ピアノを優雅に弾いている。その姿が遠く窓から見える。開拓農家のみじめな暮らしとのあまりの格差、それを見ていた一人の若者が絶望して自殺してしまった。1950年代のことである。そんな、と今の人たちは思うかもしれない。しかし私にはその若者の気持ちがよくわかる。当時は絶望的に思えたほどの格差だったのだ。あきらめるより他なかった。だけど彼はあきらめきれず、死の道を選んでしまったのである。
 こうした絶望的な格差、外国にはこれがさらに激しいところがあるが、そこから這い上がろうとした若者の悲劇を描いたアメリカ映画『陽の当たる場所』(この映画の原作の小説の名前は『アメリカの悲劇』、映画の名前もそうだが、内容にぴったりである)、フランス・イタリア合作映画『太陽がいっぱい』、その主人公の若者の気持ちが痛いほど胸を打つ。「陽」、「太陽」、それに当たろうとしてもがく青年を演じたモンゴメリー・クリフト、アラン・ドロンの名演、ともにこれは苦しくてもう見たくない映画になっている。
 それはそれとして、わが国における人々の間のこうした貧富の格差、農村と都市の格差は戦後の民主化のなかで徐々に少なくなってきた。

 テレビが普及する中で、洋楽器はどんなものか、都市農村を問わず、みんながわかるようになった。
 また、子どもたちは学校の音楽の授業で縦笛(リコーダーというのだそうだが)を全員習うようになり、音楽教育も非常に充実してきた。ブラスバンド部などもあり、さまざまな楽器に触れられるようになった。
 さらにピアノ教室ができて子どもたちがピアノを習いに行くようにもなった。家庭でピアノを買う、かつては大金持ちしかできなかったのに、普通の家庭でもちょっと無理すればできる、世の中本当に変わったものだ。
 70年代、ギターは若者の必携品となった。農村の青年たちもギターを弾いてフォークソングなどを歌う時代になった。戦中戦前とは大違いだ。いい時代になったものだ。
 私もギターを買った。しかしなにしろ不器用、その上忙しくて時間なし、そのうち中学生になった娘があっという間に覚えてしまった。なんという違いだろうなどと考えているうち、結局弾くことができずにそのままになってしまった。

 こうして西洋楽器を用いた音楽が盛んになる一方で、三味線、尺八を用いた民謡のブームも訪れた。
 1960年代後半からではなかったろうか、テレビ、ラジオからたくさんの民謡番組が流されるようになり、各地で民謡コンクールが催されるようになった。
 また、民謡酒場が各地にできた。それぞれの地域の民謡の名手が舞台で歌い、それを聞きながら酒を飲むのである。仙台にも一つ民謡酒場ができた。かつての映画館を改造して民謡酒場にしたものだった。客席から椅子を取り外し、客の座る小座敷をいくつかつくってテーブルをおき、スクリーンのあったところを舞台にしたもので、かなり広かった。一時期はその広い客席がほぼ満席だった。料理や酒の料金はほかの飲み屋とほとんど変わりなく、しかも民謡が聞けるということからなのだろう。私たちも忘年会などで利用したものである。
 なぜこんな民謡ブームが起きたのか、よくわからない。日本文化は欧米に比べて遅れており、民謡など伝統的なものはましてや古くて遅れたもの、洋楽こそ音楽・芸術であるというような戦後の風潮、これに対する反動があったのだろうか。戦後始まったのど自慢で歌われる全国各地の民謡に多くの人、とくに農村部から都市に流出させられた人々が郷愁を感じ、心惹かれたからなのだろうか。
 しかし、1980年ころにはこのブームは終わってしまった。私たちも民謡酒場にはいかなくなり、そのうち仙台の酒場はなくなり、全国的にも消えてしまった。放送番組も激減した。これまたなぜなのかわからない。
 それでもこのブームは全国各地の多様な民謡の存在を国民に知らせ、とくに民謡の宝庫としての東北の評価を高め、とりわけ津軽三味線、津軽民謡については世界的にも評価される契機をつくった。この点では高く評価できよう。

 1980年のことである。農村調査の予備調査で青森県黒石市に行ったとき、夕方仕事が終わって宿泊先の小さな旅館に行った。前からの知り合いの農家の方も来ていっしょに飲みながら夕食をとっていた。宴たけなわになったころ、若い仲居さんが私の後ろの方に座った。そして三味線を弾きだした。背中から心臓に向けて矢が射られたようだった。全身が震えた。涙まで出てきた。津軽三味線、好きで聞いてはいたが、生でしかもこんな近くで聞くのは初めてだつた。仲居さんをほめると、修行中でまだまだと照れていたが、弾ける人は市内にたくさんいるとのことだった。
 本調査のときには、調査員全員で市内にある民謡酒場に行き、津軽三味線と津軽民謡を堪能した。この黒石の民謡酒場が今も続いているかどうかわからない。しかし、弘前市内には津軽三味線を聞かせてくれる民謡酒場が今もある。私は弘前に行ったら必ずそこに行くことにしている。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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