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活字文化の変遷



              文化格差の縮小―楽器、書籍、映画を例にして―(4)

                   ☆活字文化の変遷

 戦後、どこの家でも新聞を購読するようになった。できるようになったと言った方がいいのだろう。戦後民主化のおかげで経済的に購読が可能となったのである(註1)。
 ただし、農村部では地方紙しか購読できなかった。当時の交通手段からしていわゆる全国紙(註2)が届かなかったからである。地方紙でも夕刊はなく、朝刊が午後に配達されるところもあり、山村や開拓地などでは翌日新聞が届くのが当たり前というところもあった。郵便で2~3日遅れで配達されるなどという地域さえあった。
 なお、主要国鉄路線の走る地方都市では全国紙の版の早いものが列車で届いたので何とか購読することができた。私の山形の生家でも全国紙をとっていたが、もちろん夕刊はなく、戦時中・戦後の一時期などは列車不足から地方紙に切り替えさせられた。
 こうした情報取得時間の地域格差は、さきに述べたラジオの普及によってある程度解消された。全国民が知る必要があろう重要な情報の受信については時間的な格差がなくなったのである。また、テレビによる情報受信については、全国ほぼ同じ速度で普及したために、地域的な差異はなかった(チャンネルの数が地方では少なく、その点での情報量の格差はあったが)。
 やがて、交通手段、印刷技術、通信技術が発達するなどで、新聞の翌日配達はもちろん、午後遅く配達されるなどということもなくなってきた。全国紙も九州から北海道まで配達できるようになった。この点での格差はなくなったといえよう。

 と思っていたのだが、必ずしもそうでないことが網走で勤めたときにわかった。99年、引っ越してすぐに網走農協に『日本農業新聞』の購読を申し込んだ。前にも述べたが農業新聞とは全国の農協組織が協同して発行している日刊紙である。さすがである、すぐに毎日配達されてきた。ところが、日曜日だけは届かない。どうしてなのだろう。不思議に思って同じく購読している同僚のNMさんに聞いてみた。すると彼は不思議そうな顔をする。農業新聞は日曜休刊、どうしてそれを知らないのかと。驚いて今度はこちらが聞いた、仙台では毎日届いている、網走は特別なのかと。次は彼が驚く番である、都府県では毎日発刊しているのかと。そうなのである、北海道版は日曜が休刊だったのである。全国紙のような資本力があれば別だが、あの広い北海道、しかも農村部、そこの農家に毎日届けるのは無理なのだろう。
 このようにやはり格差はある。それ以外にも、夕刊は農村部では配達されないとか、版が早くて情報の一部が翌日回しになるとかの格差はある。それでも以前とは比較にならない。格差はやはり縮まった。

 本は高価だった。出版される本の数はきわめて少なかった。紙が高価である上に活版印刷(このことについては後で述べる)で人手がたくさんかかったからである。だから本はなかなか買えなかった(註3)。
 農家はましてやだった。戦前の農家は本を買って読む暇も金もなかった。本を買いに町に行くのが当時の交通事情からして経済的時間的に大変だということもあった。本が買えないのだったら図書館に行けばいい。しかし、町村には図書館などなかった。学校にも図書室がない。本を読みたいと思っても村ではなかなか読めなかった。
 それでも農業雑誌『家の光』だけはほとんどの農家が購読した。農協(戦前、戦後の一時期はその前身の産業組合)が家に配達してくれたし、内容は生産・生活面で役に立つもの、また全国の農村地域のさまざまな情報や楽しい読み物が載せられていたからである。文字に餓えていた家族は、子どもから年寄りまで、隅から隅まで読んだものだった(註4)。
 こうした本を読めない状況は戦後さらに激しくなった。紙をはじめとする物不足で本の刊行など本当に難しかったからである。ある程度もの不足が回復しても、まず必要なのは食料・衣服、本などなかなか買えなかった。ようやく復興して本の刊行数が増えてきた1950年ころもそうであり、そのために貸本屋が大流行した。店舗で漫画を貸すところもあれば、雑誌や単行本を配達して貸してくれるところもあった。しかし農村部では貸本屋もできず、格差はなかなか縮小されなかった。

 なお、私どもの学術書、専門書などに関して言えば、出版部数が少ないのできわめて高価だった。なかなか買えず、高価なものは図書室で読むより他なかった。その図書の予算も限られており、必要な本を十分に買うことなどできなかった。
 どうしても個人で必要な場合は古本屋をめぐるということになる。東京神田の古書店街が有名だったが、仙台でも東北大学の北門の前に10軒くらい並んでいた。もちろん専門書ばかりでなくさまざまな本を売買していたが。
 こんな状況だから、論文を書いてもそれを出版することなどなかなかできなかった。

 1960年代から出版事情が好転し、多くの本が刊行されるようになってきたが、70年代からは外国から安い紙パルプ材が大量に輸入されるようになり、またオフセット印刷(註5)が主流となるなどの印刷技術の革新が進んでたくさんの本が安価に刊行されるようになってきた。とくに数多くの週刊誌、月刊誌が新しく発刊され、それも以前と比べると相対的に安価に手に入るようになった。
 それに対応して本屋さんも増えた(かわりに貸本屋さんはなくなったが)。かつては都市の中心部にしかなかったが、住宅街のなかにも小さな本屋さんがあちこちできた。小さな町でも本屋さんができ、駅前などにもできた。車社会になるなかで、農村部でもその本屋さんに簡単に買いに行けるようになった。そして農家もさまざまな雑誌、単行本を買って読むようになった。また、農村部の町村に図書館がつくられたり、地域の公民館や学校に図書室が設けられたりして、読書の環境も整備されてきた。こうして少しずつ格差は縮小していった。

 ところで、こうした小さな本屋さんの最大の収入源は週刊誌、月刊誌だった。とくにさまざまな種類の週刊誌が爆発的に売れたので、それで店が維持できたという話をある店主から聞いたこともある。
 70年ころの研究室の3時のお茶の時間、院生と若手教員の雑談を聞くともなしに聞いていると、ともかくよくいろんな世間話を知っている。ときどき「あれ、その話題は週刊○○に書いてあったものでしょう」、「何だ、同じものを読んでいたか」などと笑いあう。若い人たちの情報源は新聞、テレビなどよりも週刊誌になっていた。
 東京から特急ひばりに乗る。乗客の半分以上が週刊誌を買って読んでいる。退屈しのぎにちょうどいいのだろう。仙台まで4時間半、大体読み終わる。すると、座席にそのままおいて降りる。読み終わった新聞を網棚の上においていくのはこれまでもあったが、週刊誌をおいていく時代になったのである。
 私の子どものころ、本を捨てるなどということは考えられなかった。雑誌でもそうである、捨てずにとっておき、ときどき読み返す。なにしろ本が少なく活字に餓えていた時代、同じものを何度も読んだものだった。それをポイと捨てる、何か抵抗感があった。もちろん、古いニュースになって役に立たなくなるのだからとっておいてもしかたがないのだが。
 私は捨てることを前提にする週刊誌を買う気はしなかった。文庫本、これは週刊誌などと違って時間がたっても読む価値は下がらないので捨てる必要はなし、安価で持ち運びも簡単、それでこれを買って車内で読むことにしていた。
 仙台駅に到着する、降りるとき椅子を見るとたくさんの週刊誌がおいてある。表紙に私の読みたいような記事の見出しが書いてあったりすると、それを拾って持って帰る(私ばかりではなかつた)。仙台が終点なので拾う時間は十分にある。そして翌日研究室でお昼の弁当を食べるときに読む。これで知識を得て院生や若い研究者の話題に対抗する。こんなことをときどきやっていたのだが、新幹線ができてから、座席においていく人が本当に少なくなった。これは、乗車時間が短くなって全部読み終えないうちに仙台に到着するので捨てずに家に持ち帰るようになったからなのだろう。そう思っていたのだが、今考えてみたら、ちょうど東北新幹線の走るようになったころ週刊誌のブームが終わりつつある時期だった、それもその一因だったのだろう。
 世の中はものの使い捨て時代に入っていたが、本については読み捨ての時代になってきたのである。それと同時に古本屋がどんどん姿を消して行った。

 同じころ、漫画がブームとなっていた。学生が研究室で勉強していると思ったら漫画を読んでいる、こんなのが普通だった。学生のいる研究室には漫画雑誌がうず高く積んであった(私たち教員には見えないように隠していたが)。
 一方ではテレビ、他方では漫画、そしてまともに本を読まない、こんな子どもたち、若者たち、これで日本の将来はどうなるのかなどとマスコミが当時騒いだものだったが、そのころ問題とされた世代が今の日本の中堅世代となっている、だから日本がおかしくなってきたのだろうか、最近の世の中を見るとこんな冗談も言いたくなる。

 1990年代に入ったころからだろうと思う、熟練の職工が活字を組む作業がコンピュータ上で簡単にできるようになるなど、出版印刷技術は飛躍的に進歩した。短時間で安価に本が刊行できるようになった。それで本はあふれるほど出版されるようになった。
 このことは文化水準の向上として喜ぶべきことなのだが、ちょっとおかしな現象が出てきた。仙台の街のどまんなかにあった古い書店がなくなったのである。また、住宅街などにあった小さな本屋さんも姿を消して行った。農村部の本屋さんもである。
 街から本屋がなくなる、これが都市と言えるのだろうか、都市は文化の発信地などと言われていたのだがそうではなくなったのか。と思っていたら、何と郊外の国道沿いに巨大な本屋ができていた。仙台の中心部に以前からあった書店が引っ越してきたのも二つくらいあったが、これまで聞いたことがあまりない名前の店もある。全国チェーンのようである。そこに行けばあらゆる種類の本がほぼそろっている。駐車場は広い。これでは中小書店はかなわない。
 さらに、週刊誌、月刊誌がスーパー、コンビニで売られるようになり、これは小さな本屋さんに大打撃だった。最大の収入源が奪われたのである。結局潰れるより他ない。
 仙台の盛り場の一番町、ここに本屋がなくなってしまった。と思って網走に行き、7年経って帰ってきたら、全国チェーンの大きな本屋ができていた。本屋だけではなかった、飲食店、洋品店、薬屋等々、昔からあった小さな店の大半はなくなり、全国チェーンとおぼしき店に変わっていた。他の都市へ行ってもほぼ同じ店が並び、どこへ行っても同じ景観、何とも味気なくなったものだ。

 出版不況と言われながらも書籍はあふれるほど出版される。こんなに紙パルプを外国から輸入し、森林を伐採していいのか疑問にさえなる(その反対に、日本の森林は活用されていない、これまた問題なのたが)。
 そしてその大半は捨てられる。それでちり紙交換車が一世を風靡したが、今はその声もあまり聞こえない。資源ゴミとして出されればまだいいが、何とももったいない。
 最近、古いCD、DVDとともに古本・古雑誌を買い取って販売する大型店ができた。昔の古本屋の新たな形での復活だが、もったいない精神からいうとこれは喜ばしいことである。
 なお、最近電子書籍なるものができた。これは紙を節約するという面ではいいかもしれない。その他さまざまな利便性がある。これが将来は今の書籍にかわるのだろうか。しかし、やはり私にはぱらぱらと頁をめくりながら見られる紙の本がいい。

 いろいろと問題はあるが、本がこれだけ出版されるようになったことは、多様な情報や知識、文学作品や研究成果を文字を通じて供給でき、人間の知的欲求にこたえられるようになったということで高く評価できよう。また、自費出版等で自分の書いたものを公表しやすくなったことも高く評価できる。
 活字にかかわる文化の地域格差は以前から比べるとかなりなくなった。インターネットで本を購入することができるようにもなったし、車さえあれば大規模な書店に行って購入することができ、都市からの遠隔地でも、農村でも以前よりは容易に手に入れることができるようになった。このことも評価できる。
 しかし、インターネットを利用できない、車に乗ることのできなくなった人はその利便性を享受することができない。高齢化の進んだ農村部、こうした面でも都市との格差が開きつつある。森林伐採にかかわる問題も未解決だ。こうした問題を解決しつつ文字文化の一層の発展に取り組んでいく必要があろう。

 ちょっとだけ脱線させてもらいたい。かつては活版印刷だったとさきほど述べたが、私たちにはなじみの深いこの活版印刷を若い人たちは知っているのだろうか。私たちの世代は、活版印刷はグーテンベルクの発明したもので、羅針盤、火薬とともに「ルネサンスの三大発明」と言われていると学校で覚えさせられたものだが、今はどうなのだろうか。活版印刷の時代ではなくなったので、もしかすると今の若い人たちはわからないかもしれない。そこで老婆心(老爺心?)を発揮して説明しておくが、活版印刷とは、細長い金属の四角柱の頂面にハンコのように一つの文字を左右反対に浮き彫りした「活字」を必要なものだけ組み合わせて文章にし、それに直接インクをつけて何度も印刷するものである。わかりにくいかもしれないし、不正確かもしれないが、お許し願いたい。
 当然のことながら活字はたくさん必要となる。平仮名、片仮名、漢字、数字等々すさまじい数である。このたくさんの活字のなかから必要な活字を拾って原稿の通りに組み合わせる、これは大変な作業である。だからそれを専門に行う職人さんが必要となる。こういう方を文選工(ぶんせんこう)と言ったが、年季の入った文選工となるとまさに名人芸だった。
 私の中学時代の同級生で卒業して東京に行ってこの文選工になったものがいた。かなりのベテランになったころ、これまで述べた事情で仕事が徐々に減ってきた。私が最後に会ったのは90年ころだったが、特別な事情でこうした活字が用いられる場合があり、彼の腕が見込まれてそういう仕事をやっているとのことだった。当時彼は50代半ば、その後の印刷技術の進歩のなかでどうなっただろうか。技術の進歩は職人技をなくしていく、やむを得ないことなのかもしれないが、ちょっぴりさびしい。

(註)
1.11年3月29日掲載・本稿第一部「☆地域格差の縮小」(3段落)参照
2.本当は東京紙と呼ぶべきだと私は思うのだが、ここでは通称を用いる。
3.11年2月4日掲載・本稿第一部「☆のらくろ・活動写真」(1~4段落)参照
4.11年2月25日掲載・本稿第一部「☆抑圧からの開放感」(3段落)、
  11年3月3日掲載・本稿第一部「☆集団就職列車」(4段落)参照
5.当時研究室によく来ていた印刷屋さんから聞いたのだが、それがどういうものかうまく説明できない。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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