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私の戦後映画史と地域格差



              文化格差の縮小―楽器、書籍、映画を例にして―(5)

                   ☆私の戦後映画史と地域格差

 戦時下の抑圧と不安から解放された人々は、戦後、映画館に殺到した(註1)。
 山形市でいえば、当時市内にあった6軒の映画館(そのうちのもっとも立派な1軒が一時米軍に接収されて米兵専用の映画館になったがやがて返還)ではエノケン、エンタツ・アチャコなどが主演する喜劇映画、美空ひばりなどを主役にした歌謡映画、これまで見ることのできなかった恋愛映画、アメリカなどの外国映画が上映され、いつでも満員という状況だった。みんな娯楽に飢えていた。そして娯楽はこれしかない時代だった。
 私たち子どもにしても同じで映画を見たかった。戦前のように学校で禁止されなくなったので見ようと思えば見られた。しかし入場料金が高く、めったに見られない。小遣いを貯めて行こうとしても当時はインフレの時代、貯まった頃には料金はそれ以上になっていて見ることができなかった。
 入場料金といえば、1948(昭和23)年だったと思うのだが、3円以上にすると入場税がかかることになった。すると料金をかなり値上げしなければならなくなり、観客が減ってしまう。そこで考えた映画館があった。税金を払わなくともいいように大人2円99銭にしたのである。この苦肉の策にみんなで大笑いしたものだったが、それでも子どもはなかなか見に行けなかった。
 こうした状況の中で、誰が主催したのかわからないが、あちこちの村や町の学校の体育館や神社の境内などで夜に映画会が開かれた。私のところの小学校でも開かれ、中学生になったころ一度見に行ったことがある。料金を取られたのかどうか覚えていない。しかし遅かった、行ってみたらあの広い講堂がもう満杯、後ろで立ち見をしているたくさんの大人の背中で映像はまったく見えず、音が聞こえるだけ、その口惜しさ、恨みのせいだろうか、今でもその映画の名前を覚えている。『野良犬』(黒澤明監督)だった。
 また、小中学校が映画鑑賞ということで名画を見に連れて行ってくれた。授業は休みとなり、先生に引率され、みんな並んでぞろぞろと映画館まで歩いた。
 最初に見せられたアメリカの映画で今でも覚えているのはイタリアのファッシスト・ムッソリーニが処刑されて逆さ吊りされている場面である。気持ちが悪いからそこだけが記憶に残っているのだろう。連合軍の勝利への道をニュース映画で綴ったものだったろうと思うが、映画の題名は覚えていない。占領軍の命令で見せられたのではなかろうか。
 もう一つ、これも占領軍の命令だろうと思うのだが、広島に原爆を落とすためにアメリカ軍がいかに努力し、成功させたかをドラマ化した映画を見せられた。広島に飛行機で原爆を落とす場面、それを乾杯してお祝いをする最後の場面を覚えているが、当時私たちは原爆がどんなものかまったく知らず、大型の爆弾らしい程度の知識しかなかったので、何ということなく見た。今考えると腹が立つが、先生方はどんな思いで私たちに見せたのだろうか。
 それから次のような映画を見せられたのを覚えている。
 シベリア物語』(ソビエト映画)、生まれて初めて見る「総天然色」の映画だったが、学校としてはその色を見せたかったのだろう。
 『自転車泥棒』(イタリア映画)、小学校のときだったか中学校だったか覚えていないが、何でこんな暗い映画を学校で見に連れて行ったのかわからなかった。ともかく、貧困・社会問題を考えさせ、父と子の愛情、最後の場面の子どもの表情等が胸を打つ名作だった。
 『子鹿物語』(アメリカ映画)、農家の子どもの立場からいろいろ考えさせられた。『バンビ』(アメリカ・ディズニー映画)、カラーできれいだったが、アニメそれ自体については戦時中にやはり先生引率で日本のアニメを見ている(註1)ので、それほど驚かなかった。
 『ハムレット』(イギリス映画)、ハムレット役のローレンス・オリヴィエの名演、オフィーリアを演じるジーン・シモンズの顔が忘れられない。しかしそれよりも私たち子どもにとっては初めて見るフェンシングがおもしろく、その真似をして右手に棒きれを持ち、左手を腰において(洋風)チャンバラごっこをしたものだった(註2)。
 なお、私の場合はそれ以外にもいくつか見ることができた。前に述べたM叔父が結婚前に私をときどき映画に連れて行ってくれたからである。初めて連れて行ってもらった映画は『沓掛時次郎』(林長次郎=後の長谷川一夫主演、当時は知らなかったが、これは戦前につくられた映画らしい)だった。それから『地獄の顔』(1947年、水島道太郎主演、木暮実千代がきれいだった、ディックミネの歌う『夜霧のブルース』がよかった)、『酔いどれ天使』(1948年、三船俊郎主演、必見の黒澤明の名作)、『エデンの海』(1949年、後に再映画化されているが、女学生が水着姿で裸馬に乗って走る姿が印象的だった)などが記憶に残っている。洋画では、フレッド・アステアの踊るタップダンスが印象的な映画を見に連れていってもらったが、題名は覚えていない。戦後の解放感あふれた映画『山の彼方に』も忘れられない。前にも述べたが、これは父から見て来いと言われたものである(註3)。
 一人でもこっそり映画を見に行った。前に述べたが、朝鮮特需で値上がりした屑鉄を拾って得た小遣いをもっていたからである(註4)。それでどんな映画を見たか覚えていないが、『赤い靴』(イギリス映画)だけははっきり覚えている。
 高校に入ると映画鑑賞などはなくなったが(家内の場合は高校でも映画教室があったという、町に映画館がなかったからなのだろう)、話題になっていた映画を見に行った。たとえば黒澤明の『羅生門』だ。ベネチア国際映画祭のグランプリをとった、日本の映画が初めて国際的に認められたというのでどうしても見たくなったからである。受賞後なので英語の字幕つき、これはおもしろかった。『雨に唄えば』(アメリカ映画)も印象に残っている。
 こういう話をすると、高校時代の同級生で農村部から列車通学していた連中は、お前は不良だからそれだけ見たのだ、おれたちは映画などほとんど見なかったという。また、小中学校時代に映画鑑賞はあったが、そんなに回数はなかったとも言う。そうかもしれない、村々には映画館はなく、山形市内まで時間と汽車賃をかけて見に来るのが大変だからだ。また通学列車の時間の関係から高校時代も見られなかった。こうした点からいうと、都市と農村の文化格差があったということができよう。私の場合、農家ではあったが、市内に住んでいたと言うことで映画文化を享受することが相対的にできたのである(彼らのいうように私がいわゆる優等生ではなく「不良」だったということもたしかにあるのだが)。
 とは言っても、東京からみると大きな格差があった。新作の映画、外国からの新着の映画が山形で上映されるのは、東京の封切りよりも必ず2~3ヶ月遅れるのである。
 それでも私は市内に住んでいたために郡部から見ると相対的に恵まれていたといってよい。とは言っても、そんなに見られるわけではない。小遣いもろくにない。だから、見たくとも見られない映画がたくさんあった。

 1954年に大学入学で仙台にきたときはうれしかった。前にも述べたように、小遣いをきちんともらえるようになり(もちろん限られているが)、また仙台には二番館があったからである(註5)。二番館、三番館はきわめて安く、われわれのような貧乏学生でも見ることができた。それで高校のときお金がなくて見られなかった映画をたくさん見ることができた。
 私が仙台で一番最初に見たのは『ナイヤガラ』(アメリカ映画)だった。大学が始まったばかりでまだ暇だったことから、同じ下宿に入った高校時代の同級生AH君といっしょに初めて街にでかけてみた。そのとき、駅前の映画館・第一劇場(もちろん今はない)の料金が安い(30円)のでびっくり、これなら少ない小遣いでも見られると飛び込んだのである。だから特に見たい映画でもなかったが、当時肉体派女優として有名だったマリリン・モンロウの映画は見たことがなかったし、他にもそういう安い料金の映画館があるのも知らなかったので、ともかくそれでも見ようということになったのである。この映画は忘れられない。そのことを記憶しているのは私だけではなかった。後に皮膚科の医者となったAH君もそのときのことを鮮明に記憶していた。初めて仙台で見た映画だったから記憶しているということもあるが、映画も強烈な印象だった。ミステリーとしても面白いし、スリルもあったし、モンローの歌もよかった。こうした映画を安く見られる大都市(といっても当時は人口30万にもなっていなかったが)がうらやましかった。
 なお、新作、新着の映画も、東京より若干遅れるが、山形よりは早く上映されていた。ここでも農村部との格差も感じさせられた。

 50年代後半、その映画館がさらに増えた。仙台では東一番丁、駅前など町の中心街に集中していた映画館が周辺部にもできた。仙台の人にしかわからないだろうが、私の記憶しているだけでも長町、北仙台、大学病院前、原ノ町、錦町、宮町など当時盛り場でなかったところにも新しく誕生している。倍近くに増えたのではなかろうか。山形でも増え、他の中小都市でもそれは同じだった。また農村部の中心に位置している町にもできた。
 世の中が落ち着き、映画を見るゆとりが出てきたことがそうさせたのだろう。また、当時は映画くらいしかまともな娯楽がなかったということもあるかもしれない。もちろんパチンコもあり、ちょっとした町でも中心部や駅前に小さなパチンコ屋ができ、汽車やバスを待つ時間つぶしなどで流行ってはいたが、やはり映画は最高の娯楽だった。出版事情もよくなり、さまざまな月刊誌・週刊誌が新しく刊行され、読まれるようになったが、その誌面は映画スターが中心、それに流行歌手で、やはり映画が娯楽の中心だったのである。
 もう一つ、映画産業も完全復活、映画会社がプロ野球の球団をもてるくらいに成長し、外国映画の輸入も増え、大量に映画が供給されるようになったことも映画館が増えた理由になったのだろう。
 こうしたなかで2本立て、3本立て上映も普通になってきた。一回の料金で2本も3本も映画が見られる、何か得をしたような気がしたが、3本立てとなるとさすがに終わり頃にはかなり疲れたものだった。
 得をしたと言えば予告編もそうだった。戦後いつのころからか予告編をやるようになったのだが、一部ではあっても映画をただで見られるので何となく得した感じになったものだった。
 もう一つ、これは戦前からあったものだが、本番の映画の前に10分くらいの「ニュース映画」が必ず上映され、これもうれしかった。2~3週間前、それどころか1ヶ月も前のニュースの場合もあり、新聞、ラジオなどですでに報じられていて知っていることなのだが、映像で見るとやはり感じが違う、迫力がある。さらに全国各地のまためったに見られない外国の風物なども目で見ることができる。だからこれは楽しみだったし、何かもうけたような気がしたものである。
 ところが、こうしたニュース映像は家庭で見られるようになってきた。

(註)
1.活動写真と呼ばれていた時代つまり戦前の映画については下記の記事で述べている。
  11年2月4日掲載・本稿第一部「☆のらくろ・活動写真」(5段落)
  11年2月16掲載・本稿第一部「☆愛国心と報道―真実と事実―」(4段落)
  また、戦後の映画については下記の記事でも述べているので、参照していただきたい。
  11年2月22日掲載・本稿第一部「☆復刊少年倶楽部と野球少年」(4段落)、
  11年2月25日掲載・本稿第一部「☆抑圧からの開放感」(3段落目)、
  11年9月14日掲載・本稿第二部「☆都市近郊農家の長男のかつての悩み」(2段落)
2.上記註1の11年2月22日掲載記事参照
3.上記註1の11年2月25日掲載記事参照
4.11年3月2日掲載・本稿第一部「☆蝋紙、朝鮮特需、鉄くず拾い」(2段落)
5.上記註1の11年9月14日掲載記事参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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