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冬の寒さ対策の今昔



                 求めてきた「快適」な暮らし(2)

                  ☆冬の寒さ対策の今昔

 冬の寒さ、これは耐えられない。凍死の危険もある。そこで厚着をし、また家のまわりに雪囲いや風除けをつくり、家を閉め切って寒い外気が入ってこないようにし、火を熾して部屋や身体を温める。1960年以前はこうして寒さをしのいだ。

 まず着込んだ。ラクダのシャツ・もも引き、毛糸のセーター、綿入れなどの分厚い衣服を着用し、足袋は必ず履いた。
 ところが、寝るときはその逆で薄着だった。祖父母などはほぼ裸に近い身体の上にどてらなどの暑い着物をかけ、その上に布団をかけるだけだった。私もそれに近い。下着はなし、裸の身体に寝巻をまとうだけだった。裸の方が温かいと祖父母は言うのである。誰からだったか、昔の人はみんなそうしていた、体温で身体を温めようとしたのだという話を聞いたことがあるが、本当かどうかわからない。
 もちろん、衣服や布団だけで寒さがしのげるわけはない。それで、いろり、火鉢、こたつ、あんか、湯たんぽ、懐炉などで身体を温めた。寒さが厳しくなる夜、寝るときはこたつのわきに布団を敷き、こたつがなければあんかを布団に入れて、足を温めた(註1)。なお、いろりと火鉢は炊事用、湯沸し用としても用いられたのであるが、暖房としての役割も大きかった。冬になると茶の間の長火鉢の上にかけた鉄瓶の注ぎ口から白い湯気が一日中出ていたものだった。夜寝るときには炭火の上に灰をかけて燃え尽きないようにし、翌朝残り火に炭を注ぎ足してカンカンに火が熾きるようにしていた。
 燃料は薪、木炭だが、練炭や炭団(たどん)、豆炭も用いられた。これらは見たことがあると思うので姿かたちについての説明は省略するが、豆炭は石炭の粉、炭団(たどん)・練炭は木炭の粉を主原料にしてつくられたもので、ともに火力が強くしかも長時間使えるので、火鉢、こたつ、あんかに用いられた。なお練炭は七輪に入れて炊事用として用いられてもいた。
 ところで、一般にこたつは固定しており、あんかは移動可能なものとして理解されているが、移動式のこたつもあり、あんかにもさまざまな形状をしたものがあった。そして都市部はあんかと移動式こたつ、農家は固定式こたつとあんかを使用しているのが普通だった。これらのことについてはここでは省略するが、こたつについてだけちょっと述べておこう。

 私の生家にはこたつが寝室兼居間の二部屋にそれぞれあった。冬近くになると、その部屋の畳一枚をあげ、下の床板をむきだしにする。その床板の半畳分に真四角の枠があり、その上にある床板がそくっと取れるようになっている。それをはがすと30㌢くらいの深さの穴があって、そこに灰が入っている。真四角の火鉢が埋まっていると言った方がわかりやすいだろう。そしてそれは床よりも低くなっている。そこに物置にしまっておいたこたつのやぐらをもってきて載せる。畳のなくなったもう半畳の床には、これまた物置にしまってあった半畳の畳をもってきて敷く。かわりに使わなくなった一畳の畳が物置に行く。後は、灰の中に熾した炭を入れ、その上に金網をおき(中に入れた足が炭火に直接触ったりしないように)、最後に布団をやぐらにかけてこたつができあがりということになる(註2)。なお、こたつのある部屋以外の部屋で寝る場合はあんかを使った。
 こたつとはこんなものと思い込んでいたが、そうでないのもあることがわかったのは宮城県の農家でだった。冬になるといろりの上にやぐらをおいて布団をかけてこたつにするのである。しかも一面が土間に直接接しているこのいろりはかなり深く、まわりに板をしいてそこに足がおけるようになっている。つまり「掘りごたつ」の一種だ。いろりの大きさだからこたつはかなり大きいし、炭火もいっぱいおけるので、暖かい。しかしどうも私にはなじめなかった。しかも台所と土間のわきにあるものだから、そこでごろっと横になっているわけにもいかない。でも腰をかけて座れるのは魅力的だった。
 いうまでもないが、この程度の暖房では家の中はなかなか温まらない。しかも隙間だらけの家、ともかく寒い。
 学校も寒かった。教室にはストーブがあるが、燃料は亜炭(註3)、手がかじかむことまではなかったが、やはり寒かった。暖房のない廊下や体育館はましてや寒く、鬼ごっこや馬乗りをするなどして身体を温めるより他なかった。
 それでも厚着していれば、そして火にあたれば、建物のなかではともかく何とかなる。しかし外に行く時はそうはいかない。
 さらに厚着をし、蓑かマント、オーバー(ただしこれを着ている人は非常に少なかった)を着、大人の女性は角巻きを羽織り、さらに手袋、足袋・靴下、笠・帽子、長靴・雪沓で寒さを防いだ。このことについて前にも述べた(註4)ので省略するが、前にあまり触れなかった頭と顔の防寒・防雪について少し述べておきたい。

 雪の降るときに傘をさす、仙台でそれを見たときには驚いた。たまに、しかもわずかしか降らないからなのだろう。かなり湿った雪なので頭や衣服が濡れてしまうからかもしれない。しかし雪国ではそうはいかない。雪は毎日、しかも大量に降る、傘などさしていられない。雨と違ってびしょびしょに濡れることはないし、湿った雪ではないので手で雪を払うこともできる。それで、笠・帽子、襟巻き、角巻きをかぶれば防雪は何とかなる。防寒もそれで可能だ。
 問題は耳である。北国の人はわかるだろうが、この冷たさはたまらない。耳たぶが痛くなる。霜焼けすらできる。そこで大人は手ぬぐいで頬っかむりをして耳を保護する。また大人の女性は角巻を頭のところまであげて耳を外気からまもる。就学前の幼い子どもたちは、耳を覆うように両脇を長く伸ばしてあごのところで結ぶようにした毛糸の帽子をかぶる。しかし、小学校に入るとそういうわけにはいかない。頬っかむりや角巻は大人のするもの、かっこ悪いし、毛糸の帽子は幼児用だったからだ。女の子は髪の毛で覆えるからまだいいが、男は坊主頭とくる。そこで流行ったのが耳あて(耳かけと言ったような気もする)だった。ヘッドホンを思い出してもらえればいい。あの耳にあてる丸いのがウサギの毛でできている。ただこの二つをつなぐのはゴムであり、それを頭にかける。この耳かけは女の子も使った。しかし、これも結構高価、みんな買えるわけではなく、手袋をした手で耳をこすりながら冷たさを我慢するしかなかった。
 もう一つの問題は、口と鼻の寒さだ。マスクをすればいいが、当時は防寒のためのマスクを買えるほどお金はないし、衣料も不足している。がまんするより他ない。
 しかし、防寒帽(と言ったような気がする)は口と鼻も覆ってくれる。帽子としての本来の役割のほかに耳と口、鼻の冷たさも防いでくれる非常に便利なものだった。ひさしのついた黒い帽子の左右と後ろに耳と後頭部をくるっと覆う布つまり耳あてがついており、さらに口と鼻を覆う布がそれについていて、必要な時にそれを口に当てボタンで停める。うまく表現できないのでわかりにくいかもしれないが、今の目出し帽を考えてもらえればいい。ただし、きちんとした帽子の形をしていること、口と鼻を覆う布は必要のないときに外しておけることが違う。これは非常に便利で、大人用ももちろんあるが、これも高価、品不足、みんな持っているわけではなかった。
 そのうち戦争が激しくなり、防空頭巾を全員持って歩かなければならなくなった。いうまでもなくこれは空襲に備えるためのもの、いつもは肩にかけてぶら下げて歩くのだが、冬になるとみんなそれをかぶって防寒用にした。これは暖かかった。何しろ綿入れ、しかも頭から肩のところまで全部隠れるので頭、耳、首すべて暖かく、頭の前の方に頭巾が少し出ているので鼻や口も暖かだった。だから戦後もそれを使った。二年くらいしたらもう見られなくなったが。
 その防空頭巾が復活した、そう思ったのは1980年ころではなかったろうか、東海地震が予測されるとして静岡の小中学生が持ち歩くようになった防災頭巾をテレビで見たときだった。もちろん若干形は違うし、かつてのように各家庭の手作りで色とりどりたったのとは違うが、これはまさしく防空頭巾だった。なつかしかった。同時に思った、この復活をとくに雪国で図るべきではないかと。防災・防寒両方で役に立つからだ。ただ問題もある。かぶると視野が若干狭まり、左右がよく見えない、まわりの音があまり聞こえないという欠陥があるのである。かつてはそれでよかったが、車社会では危険である。車社会に対応した形に若干変形して復活させることを考えていいのではなかろうか。

 1960年代ころから、家庭の暖房源としての薪、木炭、石炭、炭団、練炭、豆炭が姿を消すようになり、石油、電気、ガスに変わった。そしていろり、火鉢は姿を消し、石油(ガス・電気)ストーブ、電気ごたつ、電気あんか、電気毛布が主流になり、さらにエアコンによって暖房がなされるようになってきた。前に述べたように、「薪と炭、灰のない暮らし」になってしまった(註5)。それで本当によかったのか、そしてそれがどういう問題を引き起こしているかはここでは省略するが、ともかく家の中では前よりもずっと暖かく過ごせるようになった。スイッチを入れれば簡単にストーブやエアコンがつき、すぐ暖かくなるので、かつてのように朝早く起きて火をつけ、その火が熾きて部屋が暖かくなるまで寒い思いをするなどということもなくなった。こたつやあんかに熾した炭火を入れるなどという面倒もなくなった。しかもすべての暖房器具が温度を調節できるので、暑いときは温度を下げ、寒いときは上げられる。とにかく便利に、また暖かくなった。学校も職場も同じだ。
 衣料もかつてと違って豊かに安くいい素材のものが手に入れられるようになり、衣料不足で寒い思いをしなければならないなどということもなくなってきた。使いにくい上に高価だった「かいろ」は使い捨てかいろができて、簡単に安く手に入れられるようになった。冬用の履物も長靴だけでなくさまざまな暖かくて機能的なものができた。靴下、皮や毛糸の手袋も簡単に手に入れられる(足袋は見られなくなったが)。外出も昔と違って本当に楽になった。

 ところで、部屋はいろりや火鉢よりもずっとずっと温かいストーブ、エアコンで温められるし、寝るときは電気あんかがあるから、こたつは要らなくなった。しかし私は今でもこたつを使っている。いくら温かくなったとしても布団に入らなければやはり寒く、手足も冷たいからである。それで移動式の電気こたつを使っていたが、改築のとき掘りごたつをつくってもらった。熱源は電気である。こたつに入りながらご飯を食べ、テレビを見、眠くなったら足を入れたまま畳の上にごろっと横になれる、こんないいものはないからだ。
 網走に引っ越した時は移動式の電気ごたつを仙台から持って行った。借家は床暖房だったが、こたつに布団をかけると床暖房の熱でなかが暖かくなるので電気は使わずに利用した。
 それを見た網走の人は笑った、「やっぱり東北の人だなあ」と。北海道の人はこたつは使わない。使わなくともすむほど家の中を暑くしているからだ。
 真冬の朝、私の家の前にあるゴミ置き場に隣の若い奥さんがゴミ袋を提げてくる、それを見て家内が驚く、零下10度以下になっているのに薄い服を着ているだけ、しかも両腕を出していると。家のなかはすさまじく暑く、ごみ置き場は家から一分もかからないから、寒いと思ったときはもう家に入れるので、薄着ですむのである。
 それで思い出したのは、1969年の冬、北海道に初めて調査に行ったときのことである。マイナス10度以下という寒いところに行くのだからと、普通の下着の上にラクダのシャツともも引きを重ね着して出発した。こうして農協に調査に行ったら、途中で気分が悪くなった。石炭ストーブががんがん燃えていて部屋の中がすさまじく暑かったからである。背広の上着を脱がせてもらってもどうしようもなく、汗はびしゃびしゃ、下着を脱ぐわけにもいかず、ようやく調査を終わらせて零下5度の外に出たときはほっとした。本当に気持ちがよかった。そのときから冬北海道に行くときは仙台にいるときよりも薄着をしていくことにした。
 春から網走に住むことになった99年、1月に家内と二人で網走に行ってみることにした。冬の北海道が初めての家内は言う、千歳空港に行ったら暑い、女満別空港に着いたらまた暑い、迎えに来てくれた車のなかが暑い、ホテルのなかはもっと暑い、服を一枚脱いで夜の歓迎会に行ったがその飲み屋も暑いと。仙台に帰ってきて友だちから「寒かったでしょう」と聞かれた。それに「いや暑かったよ」と答えると、誰も信用せず、負け惜しみを言っているのだろうという顔をして笑うという。
 ともかく北海道の部屋の中はどこへ行っても暑い。だから冬でもビールがうまい。夏は乾燥しているので、これまたビールがうまい。私の晩酌は日本酒1合だったのだが、網走に行って一年過ぎたら缶ビール1本に変わってしまった(私の愛用の銘柄の日本酒がなかなか手に入らなかったこともあったが)。なお、アイスクリームも北海道はうまい。牛乳の大産地であることもあるが、やはり乾燥と冬の暑さから来るのだろう。

 もちろん、外は本当に寒い。10分も黙って立っていたら震え上がるような寒さだ。このままいれば凍死するだろうとさえ思う。それでも道民はみんな薄着だ。外に出るときに分厚いコートを着れば短時間であれば零下10度であってもそれほど寒くはないからだ。しかも今は車社会、家から車へ、車から職場へ歩くときに寒いだけ、外の寒さを味わう時間は少ないからだ(車のなかが温かくなるまで時間がかかるが)。だから薄着でも何とかなる。
 それにしても、と思うことがある。若い女性のなかにはあの真冬に生脚でいる人がいる、身体がおかしくならないかと心配になる。
 薄着なのは、道民が寒さに強いからかとも思えるのだが、そうではなさそうだ。都府県に来ると、私たちはそんなに感じないのに、寒い、寒いと騒ぐからだ。
 道民だけではない。最近は都府県の人間も寒さに弱くなっているのではなかろうか。男はズボン下などをはかなくなり、女性は薄いナイロン靴下で短いスカートを履くようになり、それに対応して暖房の温度を上げる。北海道並みになってきている感じだ。
 網走で私のゼミにいた学生に小豆島の出身者がいた。当然小豆島の冬は温暖である。網走は極寒の地、そこから正月に帰る。ところがその彼が、家の中が寒い、寒いと騒ぐ。お母さんは怒る、もっとたくさん服を着たらいいでしょうと。

 そうなのである。もっと厚着をしよう。かっこ悪いというなら、厚着でもかっこのよい冬用のファッションを考えよう。衣料不足でもないのに薄着をするのがおかしいのだ。そして部屋の中が暑くなるほど暖房の温度をあげるなどということはやめよう。
 いうまでもないが、暖房をやめようなどというつもりは一切ない。そもそも人類は火を使うことを知って、つまり暖房することを知って初めて寒い地域に住めるようになったものだからだ。人間がましてや北国の人間が暖房するのは当然のことである。
 しかし問題は、燃料源として何を用いるのか、それをどれだけ使うのかだ。
 石油・石炭に、ましてや原発に、このまま依存していっていいのだろうか。だからといって、かつての薪炭に戻るのは現在の住宅構造からして困難である。かつてのような煙抜きはもうないし、気密性が高くなっているので、薪炭を用いたら一酸化炭素中毒になってしまう。そしてこのように変わったこと、また住宅の建築資材に断熱材が用いられるようになったことが室温を高く保てるようになったことも見落とせない。こうしたことを総合して、これからどう暖房していくかを国民あげて考えていくことが必要となっているのではなかろうか。

(註)
1.11年1月13日掲載・本稿第一部「☆(失われゆく民家風景』」(2段落)参照
2.4月半ばになれば、今言ったことと逆のことをやり、こたつやぐらと半畳は物置にしまわれ、こたつのあったところにはもとの1畳の畳が敷かれてもとの座敷に戻ることになる。
3.11年4月18日掲載・本稿第二部「☆宮城・山形の亜炭、秋田の油田」(1~2段落)参照
4.11年1月20日掲載・本稿第一部「☆つぎはぎだらけの衣服」(2段落)、
  11年1月21日掲載・  同 上 「☆機能的かつ貧困の象徴だった野良着姿」(1~3段落)参照
5.11年5月27日掲載・本稿第二部「☆農村と山村の結合の解体」(1~3段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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