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その昔の夏の暑さ対策



               求めてきた「快適」な暮らし(3)

               ☆その昔の夏の暑さ対策

 数年前の夏、小学4年の孫から電話があった。昔はどのような暑さ対策をしたのか調べて来るように学校で言われたので教えてくれというのである。省エネ問題を勉強していたのだろう。そこで次のようにメールで返事をした。

「昔は扇風機やクーラー、冷蔵庫がないので、次のような暑さ対策をした。
 *ウチワやセンスで風を起こして、顔や身体を涼しくした。
 *窓や雨戸を全部開け、家の中の風通しをよくした。
 *夜もそうした。だけどそうすると蚊が入ってくる。それで、蚊帳(カヤ)をつって寝た。
 *おばあちゃんのところでは、敷きぶとんの上にゴザ(ウスベリ)を敷いて、涼しくして寝た。夏に寝るため
  に使うこういう特別のゴザがあった。
 *庭や道路に水をまいた(水が蒸発するとき、熱をうばうので、涼しくなる)。
 *井戸の水(夏は冷たく、冬は暖かい)で、身体や顔をふいたり、水遊びをして身体を冷やした。
 *家の近くに小川のあるところでは、子どもはそこに入って遊び、身体を冷やした。
 *真昼は外がすごく暑くなるので、外に出ないようにした。おじいちゃんの家は農家だったので、お昼ごは
  んの後一番暑くなる時間はみんなで昼寝をし、午前中と午後三時過ぎから夜暗くなるまでの涼しいとき
  に外に出て働いた。
 *風通しのいい大きな木の下にゴザをしいて昼寝をすることもあった。
 *井戸にスイカやウリを吊るして冷やして食べたり、お昼ご飯に井戸水を入れて食べたり、漬け物を井戸
  水につけて冷やしたりして、食欲を出させ、暑さに負けない身体にした。
 *子どもたちは、ナスづけのなかみをとり、皮だけにしてそのなかに井戸水を入れてその水を飲み、遊び
  ながら食べたりした。汗で塩分がなくなるのを防ぐと同時に、身体を冷やすことにもなった。」

 私の生家では、夏になると、開閉できるところはすべて開けた。東西に長く建てられている(註1)のだが、まず南側にある表の玄関口はもちろん、長い縁側の雨戸・障子はすべて開けられる。西側は壁なので開けられないが、東側の裏口の大きな板戸が開けられている。さらに、中座敷の北側に約一畳ある板の間の雨戸(板戸)を開けた。ここは普段押し入れに使っているのだが、夏になるとそこを空にし、襖(ふすま)を外して雨戸を開け、一畳分の縁側としたのである。だから北から南に風が通り抜け、本当に涼しくなる。
 こうやって開けっ放しにすると外から家の中が丸見えになるが、家の南側には塀があるので見えなかった。しかし、北の縁側からは隣の庭と屋敷が目の前に見えた。隣の家も戸を開けっ放し、家の中は丸見えだった。でも、どこの家でもそんなものだったから、おたがいに平気だった。
 その北の縁側は一番涼しい。だから、幼い子どもの昼寝は、そこに子ども用の小さな布団を敷いて、させたものだった。私もそうだった。まだ昼寝しているときだったから私が2、3歳のころではなかろうか、夏の暑い日、やはりそこで昼寝をしていた。目を覚ましたらだれもいない。父母は田畑に行っているのでいないのが当然だが、いつも面倒を見てくれる祖母もいない。びっくりしたのか、さびしくなったのかわからない、ともかくふとんの上に座って泣いていた(ここははっきり覚えている)。その泣き声を聞きつけた隣の小母さんが「あらあら、だれも えねのが(いないのか)」と言いながら私の寝ているふとんのところにきて、しゃくりあげている私をだっこして自分の家に連れていった。その後どうしたのかよく覚えていない。とにかく何かをもらって(お菓子ではなかったかと思う)泣き止んだこと、家の外に出ていた祖母がもどってきて私をだっこして家に戻ったこと、そのときの外の暑さと隣の狭い庭の木々の緑、家の縁側の涼しさは覚えている。なぜこんなことを記憶しているのか、今でも不思議である。

 この北の縁側は夏以外は押し入れになると先に述べたが、ここには祖父母と私の寝る布団を入れていた。小学校に入ると、朝その布団を畳んでその押し入れに入れるのが私の仕事になった。祖父母は朝早く起きて仕事をしており、起きるのは自分が一番遅いし、子どもが手伝うのは当たり前の時代だったからである。
 押し入れの戸を開けると、雨戸の細い細い隙間から朝日が射し込んでいる。何十年も使っているうちに隙間ができてしまったのだろう。そこに布団を入れる。布団から出る本当に細かい無数のほこりが舞い上がるのが隙間から差し込む朝日に光って見える。とってもきれいなので、畳むのをやめてそれをゆっくり見る。火の粉が舞い上がるようにも見えるし、無数の星が動いているようにも見える。もしかするとこのほこりの一つ一つが星なのではないだろうか、そしてこの地球と同じように何億人と人が住んでいるのかもしれない、もしかすると私はそこからこの地球に派遣されてきたのではなかろうかなどなど、いろいろと空想する。ちょっと時間が立つとほこりの舞い上がる勢いがおさまってくる。そこで息を吹きかけ、また動きを激しくする。はっと気が付く、もうすぐ朝ごはん、そして学校だ、早く布団を畳まないと遅れる、あわててまた布団を畳み始める。こんな朝を迎えたものだった。

 夏になると、祖母が押し入れの奥からか竹製の枕を出してくる。細い竹ひごで隙間の多い網目に編んだ長四角の筒で、それを横にして頭を乗せるのである。暑いときに祖母がこれを使って昼寝していた。これは涼しい。下から風がくるし、布製の枕のように汗で濡れるなどということもない。しかし、固くて頭が痛くなるし、子どもにはちょっと高すぎるので、私はいたずらで使った程度である。
 祖父が昼寝などのときに使っていたのは、瀬戸物でつくった枕である。中が空洞になっている長四角の筒状の陶磁器(大きさは今述べた竹製の枕とほぼ同じ)である。ひんやりして気持ちがいい。しかし、固くて痛い。どうしてこんなもので寝れるのか、よくわからなかった。たまに祖父が庭の柿の木の下にござを敷き、この枕で昼寝していたのを思い出す。
 夜寝るときは普通のそば殻か稲の籾殻を入れた布製の枕だが、祖母だけはいつも箱枕を使っていた。映画の時代劇などで見たことのある方もあろうが、長四角の木製の箱の上に細長い丸い布製の枕が乗っているもので、寝るときにはその布製の枕を紙でくるっと包んで使う。これではわかりにくいと思うが、インターネットにはその写真も載っているので見てもらいたい。何でこんな枕を使うのか、子どものころはそんなものだと思って疑問にも思わなかったが、かなり年月も経ってもう使わなくなった頃、ふとその疑問を思い出し、祖母に聞いたことがあった。結った髷が崩れないように、鬢付け油で布団が汚れたりしないようにするためにつくられたもので、その枕には頭ではなく、首を乗せるのだということだった。なるほどうまくつくったものと感心したが、それにしても寝にくい枕である。こんな枕でしか寝られなかった女性は本当に大変だったろう。
 寝巻だが、夏は浴衣、おなかを冷やさないように気をつける程度で、ほぼ裸と言ってよい。ただし、掛け布団は必ず出しておく。山形の早朝は寒いからだ。盆地性気候のために寒暖の差が激しく、日が照ればすさまじく熱くなるのだが、その直前の朝方は掛け布団をかけなければならないほど涼しくなるのである。

 日中、赤ん坊は絵本の金太郎がしているような腹巻とおしめだけ、男の子はランニングシャツと半ズボン(衣服不足の戦中戦後はパンツだけが多かった)、女の子は記憶にない、大人の男は家の中では腰のところまでくる薄い肌襦袢とふんどし、女は肌襦袢と腰巻(今のようにブラジャーなどしていない)だった。ただし、大人が農作業に行くときは完全武装である(註2)。笠はもちろん野良着、手甲・脚絆をつける。女はそれにもんぺを穿き、庄内のように「はんこたんな」で顔を覆うところもある。いくら真昼の暑い時間を避けたとしても、直射日光除け、汗止め、埃・泥除けなどのために、また虫刺されや茎葉による傷やかぶれを避けるためにこれは不可欠だった。しかしこれでは日射病になってしまう。だから必ず飲み水を入れた一升瓶をはけごに入れて田畑に持っていったものだった。

 かつては、冬あるいは儀式の時以外、みんな素足だった。下駄もしくは草履・地下足袋だったからだ。子どもたちがズックを履くときもあったが、靴下など履かなかった。衣料不足の時代、足袋や靴下を履くなどもったいないからである。ましてや夏など、足袋や靴下を履いたら足が暑くてどうしようもないので、そんなものは履かない方がいい。だから足が蒸れるなどということはなかった。
 問題は足が汚れることだ。下駄で歩くと素足だから、しかも当時はどこも未舗装、土埃がつき、よくよく見れば足は白く汚れている。しかしちょっと見てもわからない。けれど、板の間、廊下を歩くとすぐわかる。足跡が白くはっきり残るからだ。
 だから、上り口には必ず雑巾がおいてあり、それで足の裏表を拭いてから上がるようにと、子どもたちはきつく言われる。遊びで足がひどく汚れているからなおのことだ。
 しかし、ついつい忘れてしまう。家に戻ってくるときは家の中で遊ぶためかご飯を食べるため、その目的しか頭にないため、下駄は脱ぎっ放し、足は拭かず、下駄はあちこち向き、廊下にべたべた足跡がつく。それを見つけた祖母はきつく怒る。しかたがないのでまたもとに戻って下駄を直し、足を拭き、廊下を雑巾で拭いて目的地に行く。こんなことの繰り返しだった。
 なお、雨の日は足が濡れ、泥で汚れる。気持ちが悪い。だから、言われなくとも雑巾で足を拭く。ただ足の上の方に跳ね上がった泥(前々回の掲載記事で述べたが、私たちはそれを「すっぱね」と呼んだ)がぽつぽつとついていることがある。ズボンにつく場合もある。これにはちょっと気が付かない。大人から注意されてあわてて雑巾で拭く。
 このように、雨の時も素足だったが、これも暑さ対策になったのかもしれない。

 暑い真昼は農作業はしない、子どもたちも夏休みとなる。
 その休みの前の暑い日、学校は窓を全開にして風を入れ、真昼には外で体操をしない、服装は自由(というより戦中戦後は衣服不足、着られるものを着て行くより他ない時代)でそんなに気にしないころだからみんな薄着する、これしか暑さを避ける方法はない。
 それでも、朝礼の時間、全校生徒がグランドに整列させられて校長の話や勅語を聞かされることがある。真昼ほどではないが、暑い。強烈な日差しが坊主頭にあたる。気持ちが悪くなる。めまいがしてくる。倒れる子どももいる。家内などは朝礼のときによく倒れたという。衛生室に運ばれ、額を濡れた手拭いで冷やして寝せられる。今なら熱射病にさせたと学校が非難されるところだが、戦時中は問題にもならなかった。
 そして夏休みを待つ。もちろん夏休みになったからといって暑さには変わりない。しかし、ともかく夏休みはうれしかった。たくさんの宿題が課せられるのはいやだったが。
 夏休みの終わった後も暑い日が続くが、朝晩は涼しくなっているし、かなり楽である。いずれにせよ暑さは我慢するしかなかった。

 夏の楽しみの一つは氷水(こおりすい)である。田畑の帰りやどこかに出かけたときに氷水屋さんに行って食べる。この氷水(=かき氷)については本稿の一番最初に述べた(註3)のでできれば読んでもらいたいが、今でも氷水が好きなのはそのときのおいしさからなのだろう。水で冷やされたラムネ、サイダー、これを店で買い、シュワッと音を立ててコップにつく水泡を見ながら、げっぷで涙を流しながら飲む、これも楽しみだった。といっても、めったに飲めなかったが。
 もう一つ、好きだったのはアイスクリームだった。ただし、それは今のアイス(ソフト)クリームとはちょっと違う。現在のアイスクリームとシャーベットとの中間と言っていいだろう、ねっとりしておらず、さらさらしており、味は淡白、色は黄色である。それを売り子さんがピンポン玉よりも少し大きな球を半分に割ったような丸い匙ですくって、ソフトクリームのカップよりも一回り小さな入れものに入れてくれる。
 と言ってもわかりにくいかもしれない。それを見たい方、味わいたい方は、弘前城、奥入瀬渓谷、秋田県皆瀬村(現・湯沢市)の名勝小安峡の入り口にいるアイスクリーム売りのおばさんから買ってもらいたい。
 20年以上も前ではなかろうか、しばらくぶりで小安峡で買って食べてみた。ちょっと違ったが、ほぼ昔の味だった。なつかしかった。道具もほぼ昔と同じだった。バケツとドラム缶の中間くらいの大きさの金属製の容器があり、その中にまた一回り小さい容器があり、その中間に氷が入っており、中の小さい方の容器にアイスクリームが入っている。ときどき小さい容器をぐるぐると回す。アイスクリームの状態を維持するためである。小安峡のおばさんはそのアイスクリームの容器を地べたにおいていたが、弘前城ではリヤカーに乗せていた。私たちの子どもの頃はこの弘前タイプで、夏になるとリヤカーを引いて売りに来たものだった。今のアイスクリーム、ソフトクリームなどのようにべとべとしないし、さっぱりした味なので、夏にはぴったりだった。
 残念ながら、戦時中はこんな氷菓や飲み物で涼をとるなどということはできなくなった。戦後2、3年してからではなかったろうか、ようやくサイダーや氷水が飲めるようになってきた。しかし、今述べたアイスクリームに関しては、山形の生家の近くに売りに来たのは戦前だけで、戦後は来なくなってしまった。
 かわって来たのはアイスキャンデー売りだった。自転車の後ろにキャンデーの入った四角い箱をつけ、アイスキャンデーと書いた小旗をそこに差してひらひらさせながら、チリンチリンと鈴を鳴らして売りに来る。水に着色料とサッカリンを入れて凍らせるだけ、きわめて簡単、安価、まさに水商売、失業している人たちなどがこのアイスキャンデー製造屋から仕入れて売り歩いたのである。
 ところで、今サッカリンと言ったが、われわれにはなつかしい言葉、しかし若い人たちにはわからないかもしれないので、ちょっとだけ説明しておく。サッカリンはトルエンから合成された人工甘味料で、きわめて安価であるために砂糖が不足していた戦後急速に普及し、家庭でも広汎に使われたものである。またアメリカではダイエットにいいとして使われた。しかし、1960年代に安全性の問題から使用が制限されるようになった。ただし、アメリカや中国では問題ないとして現在は大量に使用されているとのことである。
  話を戻そう、アイスキャンデー売りは一時期夏の風物詩になったのだが、70年代にはもうなかったのではなかろうか、かわってソフトクリームを売る店が増加した。これはたしかにおいしいが、甘ったるくて夏の暑いときなど食べたいとは思わず、やはり氷水、アイスキャンデーを食べたくなり、また昔のアイスクリームを食べたいとも思ったものだった。
 なお、さっき言った青森の、秋田のアイスクリーム売りのおばさん、かなり高齢だったが、何とか後継者を養成してもらえないだろうか。もう一度食べてみたいし、若い世代にもこの味を味わえるようにしてもらいたいからだ。

 もちろん、かつてはそんな冷菓をしょっちゅう買えるわけではなかった。みんな貧しかったし、氷は高価だったし、冷蔵庫などもなかったからだ。暑かったら、のどが乾いたら水を飲めだった。しかし水道水は温くて飲めたものではなかった。やはり井戸水だった。その点だけは農山村は恵まれていた。
 暑くて食欲も出ない日の昼食は、井戸水で何回も洗って冷やしたご飯にまた井戸水を入れた「水ご飯」にし、冷やした漬物をおかずにして食べたものだった。
 なお、さきほどナス漬について書いたが、昔のナスの皮は今と違って非常に固かった。子どもたちは、このナス漬の何日かたって塩っ辛くなって少ししぼんだようになってしまったもののへたのところを噛み切り、そこから中身だけを取り出す。皮が硬いので簡単に中身ははがれ、皮だけ袋となって残る。その皮袋を井戸水の出口のところにおき、ポンプを押して水を出し、皮袋の中に入れる。その水を飲む。ちょっとしょっぱいがうまい。袋が小さいから水はすぐなくなる。それでまた水を汲んで入れる。これを繰り返す、そのうち塩味がなくなる。そうすると皮袋を食べる。塩味がかなり抜けているので、それはそれでおいしい。こんなことをして遊びながら暑さをしのいだりしたものだった(註4)。

(註)
1.その理由については下記の掲載記事を参照されたい。
  11年3月13日掲載・本稿第一部「☆『失われゆく民家風景』」(4段落)
2.11年1月21日掲載・本稿第一部「☆機能的かつ貧困の象徴だった野良着姿」参照
3.10年12月3日掲載・本稿第一部「☆幼いころの農の情景」(4段落) 参照
4.このことについては下記の掲載記事でも、簡単にだが、述べている。
  11年10月3日掲載・本稿第三部「☆野菜・果実の形、色、味の変化」(4段落)

(追記)
 先日九州の長崎に行ったら、観光名所などに「チリンチリンアイス」という小旗を掲げたリヤカーがいくつか並んでおり、そこから観光客などが小型のカップ入りのアイスクリームを買って食べていた。さきほど述べた戦前のアイスクリームとそっくりなので、早速買って食べてみた。やはりそうだった(若干の味の差はあったが)。青森、秋田ばかりでなく長崎でも生き延びていた。もしかするとどこか他の地域でも残っているかもしれない。ぜひともこれからも残してもらいたいものだ。なお、チリンチリンという名前は昔鈴を鳴らして売り歩いたからついたものではなかろうか。私の子どものころの山形ではどうだったか、記憶にない。  (14.05.26記)


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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