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住まいの洋風化、閉鎖化



                求めてきた「快適」な暮らし(6)

                ☆住まいの洋風化、閉鎖化

 腰をかけて用を足す便器(洋式便器)を始めて見たのは、敗戦直後に米軍が接収した私たちの小学校のグランドでだった。校舎にある私たちの使っていた便所は和式だったので、それを改築する間、テントを張ってそのなかに洋式便器を並べ、用を足していたのである。それを見たときに驚いた。あんな格好でうんちができるのだろうか。ふんばれないではないか。うんちといっしょにおしっこをしたくなるが、それはどうするのか。便器にお尻をつけるのも汚い。後にグランドは塀で囲まれたけれども最初は有刺鉄線のみ、テントの下には壁も間仕切りもなく、それで私たちも外から見ることができたのだが、みんなに見られてそれでも平気なのだろうか。アメリカ人って何て野蛮なんだろう。こんなことを考えたものだった。
 それから15年も過ぎてだが、1960年ころ、風呂と洋式便器=便所が同じ部屋にある米軍住宅を見て、これまたかなりの抵抗感をもって見たものだった(註1)。
 こんな便所、便器には日本人は耐えられないだろう、だからあくまで和式便所で行くだろうと思っていた。ところが、ホテルが洋式便所になり、風呂も同じ場所におくようになってきた。まさに洋風になってきた。
 さらに、一般家庭でも洋式になってきた。その走りが、当時東京などの大都市に造成された公団住宅団地だったとのことである。そして大便所と小便所という日本の伝統的な区別はなくなり、洋式便器一つで間に合わせるようになった。
 ただし、一般の家庭では風呂と便所は別室、ここだけは日本の伝統を引き継いでいる。前に述べたような日本人の感覚が残っているのだろう(註1)。
 私の場合だが、どうしても洋式になじめず、和式の水洗便所で通してきた。駅やデパートなどで用を足すときは和洋ともにあれば必ず和式にしている。ところが、最近の子どもたちのなかには和式の便所ではできないものもいるなどという話を聞く。日本人はますます自然の姿、伝統から離れていくなどと嘆きたくなる(そんなに深刻に考えることもないのだろうが)。
 といいながら、わが家のトイレも今から10年前に家を改築するときとうとう洋式になってしまった。何しろ狭い家、大小兼用の洋式トイレだとトイレの面積は和式の場合より半分で済み、その分で一階と二階に二つつくれるからという建築屋さんの意見からである。わずかでも面積を切り詰めたい、それで便所を切り詰める、何とまあ、わが家もつましいことだろう。

 80年ころではなかったろうか、日本は「ウサギ小屋と変わらない家に住む労働中毒者の国」だと欧州の人から言われたことがある。
 まさにその通り、これは今も変わっていないが、だれも好き好んでそうしているわけではない。労働中毒についてはまた後に述べることにして、ウサギ小屋についていえばこれはとくに大都市の異常な急膨張との関わりでもたらされたものであることはいうまでもない。
 それはそれとして、日本の住宅をウサギ小屋と称した人はどのような家を見てウサギ小屋と言ったのだろうか。大阪などで見られる両隣の家との間に隙間もないようにびっちり建てられた建売住宅を称して言ったのか、公団住宅などの住宅団地の家を指して言ったのかよくわからないが、いずれにしてもたしかに狭い。
 しかし、建売住宅がどんなに狭くとも家を持つことはうれしかった。
 また、公団住宅の場合には、2LDK、それに水洗トイレ、風呂、ベランダがつく、いかに狭くともこれは魅力的だった。とりわけダイニングキッチン、何と心地よいカタカナ語の響き、そして椅子・テーブルでの食事は映画でしか見たことのないあこがれのアメリカの豊かな生活の象徴、だから公団住宅への入居申し込みは殺到したらしい。それで、民間の賃貸や建売の住宅もそのまねをしてダイニングキッチンを取り入れるようになった。そしてその入居者は、朝陽の射しこむLDKで、椅子に腰かけてトースターからポンと出てくるパンにバターを塗って、コップに入った白い牛乳を飲み、ハムエッグをおかずに食べるという「近代的」「アメリカ的」朝食を毎日毎日とった。その内実はアメリカ小麦のパン、アメリカ大豆でつくつたマーガリン、脱脂粉乳入りのミルクだったのだが、彼らにとっては、この単純なパン食を毎日とることは畳敷きにちゃぶ台でご飯・味噌汁などという敗戦国の遅れた生活からの脱却だった(それ以外にも、遠距離通勤、共稼ぎなどで和朝食をつくる時間がないという理由もあったのだが)。
 その後も住宅の洋風化が進んだ。住建大手メーカーのテレビCMが日常の香りのする家具をおいていない広々とした洋間を見せて、彼らの規格通りの洋風化を勧めたのもその一因となった。
 といっても、土足で家に入るという洋式にはなっていない。靴を脱いで家の中に入るという和式はほとんど変わっていない。また、数は別にして必ずと言っていいほど畳敷きの部屋がある。履物を脱いで外から汚れたものを家の中に持ち込まない、そして畳の部屋をつくってくつろぐ、この点では日本の伝統的な生活様式はまだ生きているといえよう。ただしその畳表は岡山や熊本産ではなく中国産、使ってある材木はほとんど外国産、これが和風と言えるかどうか、食卓の輸入農産物と並んで、何かおかしく感じる。

 ところで、畳を敷いていない板張りのLDKは洋風とわが国では言われているが、日本の農家には昔からLDKつまり居間・食堂・台所を兼ねた板張りの部屋があり、何も珍しいことではなかった。
 昔の農家の大きな出入り口のところには広い土間があり、それと間仕切りなしに接している大きな部屋にいろりがあり、それと接して広い「板の間」(床が板張りの部屋)があり、その部屋の端に調理台・流し台、戸棚などがあり、そこで料理をしたのである。食事時になると、この板の間に座卓を出し、料理や茶碗を調理台、戸棚から運んできて並べ、家族みんなそのまわりに座って食事をする。あるいは各人のお膳をだし、そこに座って食べる。食事が終わると、座卓もしくはお膳の上のものを台所に片付け、また座卓を片付け、囲炉裏の周りなどでゆっくりお茶を飲んだり、雑談をしたりする。
 だから、板の間はまさに和風リビングダイニングキッチンだった。履物を脱いで、座って食べるという点では和風だったからである。
 私の生家もほぼ同じつくりだったが、家族10人が食事をするところの床板の上にだけ「ござ」が敷いてあった。なお、お客さんは畳の敷いてある隣の茶の間で食事をし、そのときだけ祖父もしくは父がいっしょにそこで食べたものだった。また祭りや法事のときなど客人の多いときは奥座敷の広いところでの食事となる。もちろん父と祖父以外の家族はやはりいつもの板の間での食事である。

 私の生家では、今述べた「板の間」以外の部屋にはすべて畳が敷いてあった。
 しかし、こうした畳敷きの部屋がなく、部屋のほとんどが板の間、もしくはござが敷いてあるだけの家があった。こうした家には二種類あった。
 一つは養蚕農家である。前にも述べたが、約半年家の中で蚕を飼育するのでその飼育期間中だけ畳を外し、板の間にしておくのである(註2)。
 もう一つは貧しい農家である。畳など買えず、むしろかござを敷いていた(註3)。畳がないということは貧乏の象徴であった。戦後はさすがにそんなことはなくなったが(註4)。
 ところが今の新築住宅には畳のない部屋が多くなった。和室を造らない家すらある。これは昔の板の間の復活である。昔の貧乏人は板の間から脱却したかった。ところが今は板の間が近代的と思われている。大手住建会社のテレビの宣伝では広々とした洋間(家具の一部しか出していないから広く見えるのだが)を出して宣伝する。畳の間はあるのかどうかわからないが、CMには出てこない。何かおかしく感じる。

 戦後の農作業や生活様式の変化のなかで、土間やいろりが不用となり、台所も大きく変わってきた。そこで、かつてのLDKはLDとKに仕切られ、LDに畳が敷かれるようになった。
 なかには次のように変えた農家もあった。広い土間と板の間を戸障子で締め切り、かつての板の間は畳敷きの座敷にし、さらに土間にコンクリートを敷いて調理・流し台と食卓、いすをそこにおき、そこで履物をはいて料理と食事をしたのである。農作業中のお昼時などはこれが便利である。一々座敷に上がるという手間が省けるからである。こういう造りが見られるようになったのは60年代後半ころからではなかったろうか。これなどはまさに洋風のLDKといえよう。
 農家の住宅は広いからこうしたことができる。
 しかし狭い住宅でのDKとなると疑問を感じる。ダイニングキッチンに椅子・テーブルは狭い部屋をますます狭くするからである。畳敷きにちゃぶ台であれば、ちゃぶ台を折りたたむ、あるいは立てかけることで空間をつくり、畳の上に横になったり、布団を敷いて寝たりすることもできるが、椅子、テーブルをおいてはそれだけでしか利用できない。また、畳に座卓なら詰めればかなりの人数が座れるが、洋卓だと座れる人数は椅子の数に限定される、これも不便だ。
 ついでに言えば、ソファやベッドも狭い部屋をますます狭くすることになる。これが部屋においてあれば、それだけでしか使えない。たとえばベッドの面積は寝るときのためにしか使えない。つまり寝るときの8時間しか使えず、後の16時間は遊んでいることになる。
 畳に布団であれば、寝るとき以外は寝床の面積はいかようにでも使える。布団を押し入れにしまえば、そこで食事をすることも、子どもがおもちゃで遊ぶこともできる。また、布団をあげることで湿気が畳からも布団からも抜ける。畳に布団は狭い家を合理的に利用し、湿度の多い風土に対応した優れものだったのではなかろうか。それなのになぜ「洋風」にあこがれるのだろうか。
 もちろん、机と椅子を全否定するわけではない。とりわけベッドの場合には介護を必要とする方や足腰の不自由になった高齢者には必要不可欠の場合もある。また、今は少子化社会、さらに隣近所や友人とお互いに行き来することのない孤立した社会になっているので、家が狭くしか利用できなくともかまわないのかもしれないのだが。

 かつての農家には隣近所や親戚の人、友人等がしょっちゅう訪ねてきたものだった。縁側で、囲炉裏端で、あるいは茶の間で、お茶を飲みながら用事を果たし、あるいは世間話をしたものだった。こうした密接な人間関係は、前にも述べたようにお互いの助け合いなしには生きていけなかったことに基礎をおいていた(註5)。
 また、冠婚葬祭のときには家に多くの人が集まった。だから座敷はふすまや障子で仕切られているだけ、それを外せば広く使うことができるようにしていた。私たちが農家に泊めてもらって調査ができたのはこうした家の構造だったからだった。
 このように農家はきわめて開放的だった。ついでにいうと、留守の時や夜中に鍵をかけることもなかった。ただし、町との境にある私の生家では夜だけは鍵をかけて寝た。泥棒が入るからである(戦後のことだが実際に入られたことがある)。しかし村ではめったに泥棒は入らなかった。相互監視の目が行き届いていたし、車のない時代、町から出張してきて泥棒するなどできなかったからである。
 しかしこのことはプライバシーがないことでもある。ここに問題はあったが、今の都市の家のように、お互いに自立している洋風がいいということで、「隣りは何をする人ぞ」で近隣とはまったくの不干渉、家の中でも各部屋は壁で仕切られ、子ども部屋のドアに鍵までつけているとなると(これは極端な例だろうが)、本当にこんなに閉鎖的でいいのかと疑問になる。

 閉鎖的といえば、最近の家は高断熱、高気密になって、外と中はほぼ完全に遮断され、まさに閉鎖的となっている。
 かつてのような隙間だらけの家(註6)からの脱却、保温、冬の燃料費の節減などの面からすると、非常によくなった。
 しかし、こうした建物を構成している水密・気密性、耐久性に富むアルミサッシのガラス戸は戸障子をつくっていた建具職人さんの技術の衰退を意味するもので、ちょっとさびしい。
 また、一酸化炭素中毒の危険性が高まることから伝統的な火鉢などの薪炭を利用した暖房ができなくなること、湿気がこもるために換気扇や空調が必要となること、そしてますます電気や石油に依存しなければならなくなることも問題となる。
 北海道でこんな話を聞いたことがある、北海道にはそもそもゴキブリがいない、ところが最近は札幌のマンションなどでゴキブリが出没するようになっていると。転勤族が都府県から引っ越ししてくるさいその荷物などにまぎれてゴキブリの成虫や卵も引っ越してくる。しかしかつては冬の寒さですべて死ぬので生息はしなかった。ところが今はかつてと違って耐寒性のある住宅となり、しかもがんがん暖房するのでゴキブリが冬も生存できるようになり、繁殖もするようになっているというのである。住の変化は生態系まで変えるようだ。
 こっちがよくなると、あっちがだめになる、快適な社会もいろいろあるものである。

 農家の住宅の構造も変わってきた。広さや開放性などかつての農家の住宅の伝統も受け継ぎながら、近年の生活の変化に対応できるようにしたり、建築技術の進展や都市部の住宅の良さを取り入れたりして、非常に住みやすくなっている(註7)。
 問題はこうした住宅に住む人が、とくに若者がいなくなっていることだ。

 大都市やその近辺に、今まで述べたような構造の住宅の団地が、集合住宅ができるたびに考える。ここの新住民の出身地はまた過疎になったなと。そこに家を求めた人はもう出身地に戻らないからだ。そしてこの新しい住宅のかわりに農村部の小さな町や村の家々がなくなっていく。
 もう一つ考えることは、後30年か40年すればこのうちの何割かが空き家になるのだろうということだ。子どもたちが成人するとこの団地から出て行ってしまって帰ってこず、家を建てた大人はやがて高齢化する。農村部で高齢化が問題となっているが、都市部の団地でも同じ問題が起きるのである。現に、私の家の近くの古い住宅団地では高齢化が進み、子どもの数も激減して、小学校が廃校寸前になっている。そのうち空き家が増えてくるだろう。ところがもう一方で、その近くにまた新たな団地が形成され、入居者が募集されている。いずれまた何十年かするとここも過疎化が進むことになろうが、何でこんな無駄なことをやるのかと思ってしまう。
 いずれにせよこれからこうした団地の過疎化、幽霊団地化が進んでいくことになるだろう。大都市の住宅地が農山村の後追いをしている、このまま行ったら日本はどうなるのか、ちょっと不安になる。
 過疎・過密をなくし、都市部でも農村部でもみんな広い家に住めるような社会にならないものだろうか。

(註)
1.11年1月17日掲載・本稿第一部「☆外便所、外風呂」(2段落)参照
2.11年1月13日掲載・本稿第一部「☆『失われゆく民家風景』」(3段落)参照
3.戦後の開拓農家は別で、一定期間は住まいとはいえないような本当にひどい住宅に暮らさざるを得なかった。このことについてはここでは省略する。
4.戦後の農家の住宅新改築に関しては下記の記事で述べている。
  11年11月2日掲載・本稿第三部「☆住の機能性と景観」
5.11年1月5、6、7、10、11日掲載・本稿第一部「むら社会(1)~(6)」参照
6.前掲11年1月13日掲載記事(2段落)参照
7.1980年代ころの農家の住宅の変化とその問題点については、その極端な例としてではあるが、下記の記事の中で述べている。
  11年11月21日掲載・本稿第三部「☆大口負債と農地売却」(2段落)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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