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消えた麻、綿、桑、羊

 

                便利で豊かな社会―その裏表―(1)

                  ☆消えた麻、綿、桑、羊

 『真田十勇士』で活躍する忍術使いの猿飛佐助、霧隠才蔵は戦前の子どもたちのあこがれだった。口に巻物をくわえ、手で印を結んでドロンと姿を消す忍術使い、あの巻物が欲しいと願いながらまねをしてよく遊んだものだったが、たまたまある本で忍術使いは訓練してなるものだということを知った。その訓練の仕方についていろいろ書いてあったが、高く飛び上がる術の訓練についてだけは覚えている。実際にやろうとしたからだ。それはこうである。
 麻の種を庭に播け、芽が出たら、それを毎日何回も飛べ、麻の成長は早くてすぐに大きくなるのでそのうち飛び越せなくなる、そしたらもう一度新しく植えてまた同じように小さいうちから飛べ、これを何度も繰り返しているうちに少しずつ高く飛べるようになり、やがて背の高さ以上に伸びた麻をも飛び越せるように、つまり忍術使いのように飛べるようになるというのである。ちょうどいい具合に裏の小屋の前に麻が2~3本植えてある。まだ背が低い。それを飛び越す練習をしよう。そう決心して練習を始めた。しかし、忘れっぽくあきっぽい私、半月くらいやったろうか、後は忘れてしまった。とうとう忍術使いにはなれなかった。
 どこの農家でも麻を何本か植えていた。子どもの背の高さの2~3倍にも伸びた麻を刈り倒してその皮をむき、干したのを覚えているが、それを何に使ったのかは記憶にない。きっと麻縄にしたのではないかと思う。わら縄よりも強くて丈夫なので、それなりの役割があったからである。
 これは戦前のこと、戦後も麻を植えたかどうか記憶がさだかでない。ということはやめたのだろう。いずれにせよ自家用で、栽培などといえないようなものだったのだが、明治の初めころまではかなり栽培して販売していたらしい。それを知ったのは中学のころだった。
 山形の村山地方は江戸時代に紅花、麻、綿、桑、菜種など工芸作物の大産地だったのである。もちろん米も生産した。山形市を中心とする町村の存在する村山盆地は数多くの扇状地で形成されており、その扇状地の扇の骨をなす川の上流(扇頂)部と下流(扇端)部は水田、川の水が伏流する中流(扇央)部は畑として利用し、そこに工芸作物を栽培していたのである。

 紅花、今は山形の県花となるなど有名だが、私の小さいころは見たことがなかった。ただ、名前は知っていた。祖母が笑いながら次のような話をしてくれたことがあったからである。紅花は口紅として昔使われていた、それをつけて両唇を合わせて発音すると紅が落ちてしまう、それで塗った人は唇を合わせないようにする、だから「くちべに」と言えずに「くちへに」と言っていたものだと。また、初市で売られる旗飴(註1)はこの紅花栽培と関連しているとの話からも知ってはいた。わらべ歌の『はないちもんめ』は紅花一匁のことで、この歌のようにそれで人が売買できたほどその昔は貴重のものだった、こんな話を誰からだったか聞いたこともある。ともかくかつて紅花は貴重品であり、そんなことから適地の山形内陸で栽培され、最上川を下って酒田から北前船で京・大阪に運ばれ、染料、着色料として用いられたのである。
 麻、これは栽培しやすく、繊維は丈夫で長持ち、庶民の衣類の原料だったが、高温多湿の夏などには衣服として最適だったという。また、丈夫で長持ちと言うことから縄や袋などの生産資材としても重要視された。
 綿は、そもそもは中国からの輸入品できわめて貴重なもの、江戸時代になって日本でも栽培されるようになり、とくに畿内はその大産地だったのだが、村山地方でも栽培されたとのことである。綿は麻に比べると柔らかくて肌触り、着心地がよいのだが、大量の肥料が必要とされるなど栽培が難しく、そんなに大面積つくれなかったようである。
 桑、これはいうまでもないが、扇状地中腹部には最適の作物で、養蚕も盛んに行われた。
 もちろんそれ以外にも麦、菜種等々多様な畑作物が栽培されていた。

 麻、綿花、繭は、そのままで売られたのか、それとも糸にして、あるいは織物にして売られたのか、私はよくわからない。
 民話『鶴の恩返し』ではつうが機(はた)を織る場面が出てくるが、あの貧乏なよひょうの家にでさえ機織機(はたおりき)があったのだから、その昔の農家のなかには機を織って売るものもいたのではなかろうか。
 養蚕をいとなんでいた母の実家では木製の機織機で絹織物を織っていた。こうしたことから考えて、冬場の農家の副業として一部の繭を織物にして売ったのではないかと思う。
 祖母が機織機の前に座り、横糸を杼(ひ)で右から左へ目にもとまらぬ速さで縦糸の間を通し、そのときにシュルシュルと音を立てる、次に筬(おさ)を手で前の方にトントンと動かして通った横糸を締め付け、それから足でバタンと踏み板を踏んで縦糸の上下を入れ替え、そこの間に今度は左から右に杼を飛ばして横糸を通す。これを何度も何度も繰り返して布を織っていく(うまく説明できないが)。このシュルシュル、トントン、バタンのリズムを心地よく聞きながら、よくもまあ順序を間違えずに、しかもあきずにやるものだと見ていたものだった。
 なお、その時に使う繭糸は繭をお湯の入った大きな釜に入れ、何個かの繭から細い糸を手で引っ張って紡いでいた。私の生家でも母の実家からもらってきた繭(真綿をとるのを主な目的だったが)から祖母が糸をとり、糸車を回して糸を紡いでいるのをよく見たものだった(真綿をとるのが主な目的でもらってきたようだが、その一部を糸にしていた)。
 しかし、私の生まれたころは自分の家で紡いで織るなどという家内手工業は本当に少なくなっていた。明治期から製糸・機織りは紡績機、自動織機で工場がやるようになっていたからである。

 明治期には山形の紅花が姿を消さざるを得なくなった。中国産の紅花が盛んに輸入されるようになり、さらに化学染料が普及するようになったからである。
 この紅花に代わるものとしてハッカを導入した。しかし、このハッカは麻とともに北海道で栽培されるようになり(註2)、ともに村山地方から姿を消すようになった。なにしろ麻は放っておいても育つほとんど手間のかからない作物、ハッカは宿根作物で一度植えると数年間は収穫できるというので、北海道の大規模畑作には適していたからである。
 また、綿は外国からの安い紡績原料綿の輸入で、明治中期に激減した。それでも関東以南ではかなりの生産がなされたが、村山ではほぼ消滅したようである。
 こうしてなくなった紅花、ハッカ、麻、綿に代わったのが桑の栽培だった(もちろん養蚕は以前から営まれていたが)。生糸が輸出品として伸びつつあり、政府も資本主義確立のてことして養蚕を推奨したからである。そして村山地方は養蚕地帯として確立することとなった。

 ベトナム戦争に駆り出されたアメリカ兵は大麻・マリファナを吸引して恐怖心と良心をなくしてからでないと戦場に向かえないそうだ、こんな話が広まった1970年ころ、日本でも大麻吸引が大きな社会問題になってきた。
 この大麻とはどんなものなのだろう、わからなかった。何の時だったかその写真を見た。何だ、私の生家で植えていたのとほぼ同じではないか。驚いた。そうなのである、日本で栽培していた麻は大麻だったのである。
 それではどうして日本では大麻の害が問題とならなかったのだろうか。調べてみたら、日本で栽培されている大麻は幻覚成分の含有量がきわめて少ない品種で、問題はなかったとのことだった。とは言ってもやはりごく少量だが含まれている。だからだろう、たまに麻栽培農家の奥さんが収穫作業中に陶酔状態になることがあったという。そんな話をかつて産地だった北海道の北見で聞かされたとき、その昔山形など都府県でもそんなことがあったのだろうな、そのときみんなどう思っただろうか、狐狸に化かされたと考えたのだろうかななどとふと考えたものだった。

 麻と言えば、マニラ麻という名前を昔よく聞いたものだった。繊維が非常に強く、丈夫で耐久性があるとして、太いロープなどがフィリピン産のそれでつくられていた。漁業、運送業をはじめ各種産業で用いられたが、生家でもそれを牛車の荷物を縛るのに用いていた。
 このように麻にも普通に見られる麻つまり大麻とマニラ麻があるのは知っていたが、それ以外にもあるのを知ったのは福島県の昭和村に行ったとき(80年代後半だったと思う)だった。ここは会津の本当の山奥、そこで「からむし織」でむらおこしをしようとしていた。最初「からむし」と聞いたときどんな虫かと思ったが、「苧麻(ちよま)」とのこと、昔から栽培していてその繊維で衣服等を織って使っていた、それを復活させようとしていたのである。都会から来た若い女性が村がつくった工房でお年寄りから織り方を学んでいた。そこでつくったものの一つの名刺入れをお土産にいただいたが、今でも大事にしている(註4)。
 なお、この苧麻は青苧(あおそ)ともいうのだそうである。それでこの「青苧」を辞書でひいたら「青麻(あおそ)」とも書くという。そのときふと思い出したのが仙台市北部の岩切に青麻(あおそ)神社というのがあったことである。この青麻とは何なのかがわからなかったのだが、この苧麻・からむしのことだったのではなかろうか。さらにこの青麻神社は全国各地にあり、岩切にある神社が総本社なのだそうである。なぜここが総本家なのかわからないが、いずれにせよこのような神社が各地にあるということはかつてこのからむしが全国各地で栽培されていたことを示すものなのだろう。これは私の勝手な解釈なのだが。また山形の置賜でも江戸時代はからむし織が特産だったとのことであり、明治以降も山村に細々と残ったようである。
 それから、わが国では「亜麻」もかつて大量につくっていた。これは北海道に行ってから聞いたのだが、外国からの移入種であるこの亜麻は、光沢と通気性があり、肌触りがいいことから、大麻を上回って栽培されたとのことだった。
 なお、今述べた大麻、マニラ麻、苧麻、亜麻は、同じく麻と書いても、それぞれアサ科、バシヨウ科、イラクサ科、アマ科に属していて、その姿かたちはかなり違うとのことである。それでも麻としたのは、ともに背が高く、その茎の皮から繊維を取るという点で共通しているからなのだろう。

 麻、亜麻、綿は、明治以降いろいろ産地を変えながら、また栽培面積を減少させながら、戦後まで生産されてきた。
 また、桑=養蚕は米と並ぶ重要な部門として位置付けられ、いろいろ波はありながらも、その生産を増加させてきた(註3)。
 いうまでもないが、これらの作物は衣料の原料である。そして衣料は人間の生存に不可欠のものである。ということは、農業は人間生活の基礎となる食料と同時に衣料を生産するものであり、その面でも日本の農業は大きな役割を果たしてきたことを示している。
 もう一つ、動物繊維である羊毛の供給ということでも日本農業は衣の生産に役割を果たした。
 もちろん毛糸は明治以降に普及したものであり、当初は羊毛のほとんどが輸入だった。しかし、大正末期ころから緬(綿)羊の飼育が増え始め、とくに戦後は衣料不足と羊毛輸入の減少に対応すべく、また農家の有畜経営化の推進の一つとして、羊飼育の導入に国も農家も力を注ぎ、100万頭近く農家に飼育されるまでに至った。そして、生活改良普及事業では毛糸の紡ぎ方を農家の奥さん方に教え、自家用もしくは販売用として役にたてたりしたところもあった。
 私の生家でも役牛、山羊、鶏に加えて戦後は羊を飼育するようになった。春先になると、近所の農家の人といっしょにいやがる羊を押さえつけ、バリカンで毛を刈り取る、裸になった虎刈りの羊が何とも貧相でおかしかった。また、寒くなっただろうなと同情したものだった。
 私が仙台に来てからの話になるが、県庁の近くに緬羊農業協同組合連合会の入る緬羊会館という建物があり、1950年代後半からその二階でジンギスカン料理を始めた。生まれて初めて食べるジンギスカン、ちょっと臭かったが、何しろ肉や脂ものに飢えていたころ、がつがつと食べたものだった。
 このように、緬羊会館なるものがあったこと、ジンギスカン料理の店が全国各地にみられるようになってきたことからも、羊の飼育が増加したこと、国産の毛糸の供給が増えたことがわかるだろう。

 しかし、1960年以降、麻、亜麻、綿の面積は急減し、65年からは農水省の統計からその名前が消えるまでになってしまった。羊の飼育もほぼ同じ時期から急減する。養蚕についてはこれまでも述べてきたが、20世紀末に壊滅に近い状態になってしまった(註5)。
 その原因として化学繊維が低価格で供給されるようになったことがあげられている。たしかにそうである。しかし、私たち日本人の衣服がすべて化学繊維に代替されてしまったわけではない。そして麻、亜麻、綿、絹、羊毛の需要はある。絹の場合などは、前にも述べたように、日本は世界の四分の一を消費する世界第一の生糸・絹消費国なのである。にもかかわらず、生産はほぼ壊滅状態にさせられている。それは絹糸・絹織物の安価な輸入によってであった。つまり輸入の自由化がわが国の繊維作物を駆逐する最大の原因だったのである。羊の飼育も羊毛輸入の自由化に伴う国産羊毛価格の下落等でほぼ同じ時期から急減し、現在は1万頭いるかいないかの状況になっている。ついでにいうとジンギスカンの肉も今は輸入物になってしまった。北海道名物のジンギスカン料理、これもほとんどオーストラリア産の羊肉である。
 かくして衣にかかわる生産はわが国の農業から駆逐されてしまった。農業は食だけを生産するものにさせられてしまった(それも今輸入で縮小させられつつあるのだが)。そして耕地は減少している。
 それでも、衣服は国民に豊富にしかも安く供給されている。デパート、量販店、ブティック等々に、あふれるほど並んでいる。だから消費者は何も感じない。何かおかしいなどと考えるものはほとんどいない。食料生産が輸入によって縮小させられていることについて疑問を持つ方はいるが、衣料原料生産が農業からなくなっていることに何も感じていない。
 そして服が古くなるとすぐ捨てる。まだ使えるものでも流行遅れだといってやはり捨てる。そのうちのいくらかは途上国に持っていかれて使われているそうだが、大半はゴミとなる。
 かつての日本人は、衣料原料の生産から製品の衣服の生産に至るまでの過程を知っていたから、その価値を知っているものだから、衣服は本当に大事に使い、つくろいながら長く使い、さらには孫子の代まで伝えてきた。
 しかし今は生産の過程が国内にない。みんな知らないし、見ていない。それも一因となって衣服は捨てるものとなっているのではなかろうか。
 日本人は消費することは知っていてもつくるということを忘れてしまっている、そんな感じがするのだが、それでいいのだろうか。何千年、何百年の歴史をもつ麻、綿、絹、そして近代の毛糸、この生産から消費にかかわる文化がわが国からなくなっていいのだろうか。こんなことを考えるのは、単なる年寄りの懐古趣味、「時代遅れの男」の愚痴でしかないのかもしれないのだが。

 年代をまたさかのぼるが、1960年ころの話である。
 都市から遠い村の調査に行き、農家を訪ねて道路を歩いていると、小学校の子どもに会うことがある。すると子どもたちは、「お早うございます」とか「今日は」とか言って頭を下げて挨拶をする。当然こちらも挨拶を返す。自分の学校の先生や知り合いの人と道端などで会ったら挨拶するようにと私どもも教えられたことはあったが、見も知らない人にまで挨拶する、学校の教育がいいのだろうか、親のしつけがいいのか、礼儀正しいものだと感心する。
 そしたら同行した先輩が教えてくれた。それはちょっと違う、私たちが背広を着ているから挨拶するのだと。村の中で背広を着ているのは、学校の先生か役所のお偉い人たち、それで子どもたちは頭を下げるのだという。そうすれば間違いない、先生に挨拶しなかったなどと怒られることはないからだ。
 そうなのである、戦前はもちろん戦後の一時期も、農家は背広を着るなどということはなかった(町場でも背広を着ている人は少なかったのだが)。洋服すらも着なかった。そんな金はないからである。子どもは洋服を着るようになっていたが、大人はまだみんな着物だった。しかも普段着はつくろってつくろった藍色を基軸にした着物だった。男の羽織袴や女のよそ行きの着物はあったが、それは冠婚葬祭などのときに着るもの、普段の外出は前に述べたような野良着だった(註6)。だから、百姓と言えば野良着に蓑笠つけてぞうりか草鞋を履いているものと町場の人間は考えていた。一方村人は、さきほどの子どもたちのように、背広を着ているのは特別な人間と考えていた。
 しかし、農地改革をはじめとする戦後改革の成果が少しずつ表れ始めた1960年代、農家も背広を持てるようになってきた。女性もワンピースなど洋服を着るようになった。よそ行きの着物もそろえられるようになった。子どもたちの服もかつてのようなボロではなく、町場のサラリーマン家庭と変わりなくなってきた。
 農作業着も大きく変わった。洋服を基調とするようになり、働きやすく、しかもこぎれいな、明るい色に変わってきた。女性の農作業着などはおしゃれにもなってきた。
 こうして衣服という面では都市と農村の格差はなくなってきた。
 問題は、こうした豊かな衣服の原料が今述べたように日本の農家がつくったものではなくほとんど外国産だということである。そればかりではない。縫製まで外国でなされるようになってきた。あの豊かな衣服のほとんどは完全な外国産品になってしまったのである。
 食、住ばかりでなく衣まで、衣食住つまり生活の基本部分が外国依存になっている、何かこの国はおかしい、ついついこんなふうにも考えてしまう。

(註)
1.11年1月27日掲載・本稿第一部「☆二回あった正月」(4段落)参照
2.11年2月8日掲載・本稿第一部「☆土地の取り上げ、自給自足」(4段落)参照
3.11年7月13日掲載・本稿第二部「☆北限(?)の養蚕」、
  11年7月15日掲載・本稿第二部「☆桑園の整理と果樹園の造成」、
  11年7月18日掲載・本稿第二部「☆養蚕の技術革新と大規模桑園の造成」参照
4.昭和村の「会津のからむし生産用具及びその製品」が国指定重要有形民俗文化財に最近指定されたとのことである。
5.12年1月16日掲載・本稿第三部「☆つくるもののない苦しみ」(1段落)、
  12年2月29日掲載・本稿第三部「☆小かごに摘んだはまぼろしか」(1~5段落)参照
6.11年1月20日掲載・本稿第一部「☆つぎはぎだらけの衣服」、
  11年1月21日掲載・本稿第一部「☆機能的かつ貧困の象徴だった野良着姿」参照


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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