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手縫い・手編み、ミシン・編み機、そして今




               便利で豊かな社会―その裏表―(2)

             ☆手縫い・手編み、ミシン・編み機、そして今

 縫い物、編み物、これは女の仕事だった。だから嫁入り前に必ず覚えておくものとして家で教えられた。さらに花嫁修業の一つとして学校卒業後に裁縫を習いにも行った。それは何かあった時のために手に職をつけるということからでもあった。女の働き場所がなかった時代、裁縫で金を稼ぐということも考えておかなければならなかったのである。
 ただし、農家の女子が学校卒業後に裁縫を習いにいくなどということはあまりなかった。そんな経済的余裕のない農家が大半だったし、教える人も少なかった。だから最低限の裁縫の知識で嫁に行った。
 なお、私たち男の子も家で針仕事のイロハを覚えさせられた。農家の女性は忙しかったから最低限のことは自分でやれということなのか、軍隊に入るとボタンつけや靴下のつくろいなどは自分でしなければならなかったので覚えておけということなのか、よくわからない。私も子どものころに覚えさせられ、ボタンがとれたときなどは自分でつけたものだった。ただし何しろ不器用、裏から表のボタンの穴に針がうまく通らず、最後に針に糸をくるくると巻いてしばって終わらすのがうまくできず、できばえはきわめて悪かった。こんなことはさせられたが、やはり縫い物、編み物は女の仕事だった。
 小学校5、6年になると裁縫の授業があり、これは女の子だけ、作法室(と言ったような気がするが、畳敷きの共通教室があった)で受けていた。ところで、学校での女子の裁縫の時間、男は何をしていたか記憶にない。それも当然、これは先輩の時代のことだからである。私の5、6年のときは戦後の混乱期、衣類不足期、教育の変革期で、雑巾縫いを男女ともにさせられたことだけは記憶しているが、裁縫の時間などあったかどうかも記憶にない。

 縫い物、編み物は必要に応じてやるわけたが、農家の場合はとくに農閑期の冬がその季節だった。
 子どもの頃、老眼になっていた祖母に針の穴に糸を通すのをよく頼まれたが、小さい穴に太い糸を通すときは苦労した。母や祖母がやっているのを真似して糸の先端をなめて湿らせ、それを親指と人差し指で抑えてくるくると廻し、そうやって糸の先っちょを細く固くして穴に入れたものだった。
 母がこたつに入って針箱をわきにおき、針仕事をしているとき、その隣でおしゃべりをする、このゆったりした時間が子どもの頃大好きだった。冬の農閑期以外こんな時間はなかなかもてないからである。
 母はまた、毛糸のセーターなど古くなったものをほどいて、また新しく編んでいた。こうやってほどいた毛糸あるいは新しく買ってきた毛糸は直径30㌢くらいの輪に束ねられている。糸は糸巻きに巻かれているが、毛糸はなぜかしらないが巻かれてはおらず、いま述べたようにドーナツ風に束ねられていた。その毛糸を編む前に子どもの仕事がある。その毛糸束の輪の両端を母が私の両手にひっかけ、ぐんと広げさせられる。母はその毛糸の端を引っ張って手元でくるくる巻き、手鞠のような毛糸の玉をつくっていく。そうやって巻いた毛糸玉から毛糸をひいて編んでいくわけだが、だからこの毛糸玉つくりは編み物をする前の不可欠の作業だった。
 この手伝いをしているとき自分は何もできない。両手が縛られているのと同じだからだ。それで遊んでいるときにその手伝いを頼まれるといやなのだが、普通は喜んでやる。面白い上に、母といろいろとおしゃべりでき、また母と自分が毛糸でつながっているような感じがして、母を独占しているような気がして何となくうれしいからだ。ときどきその毛糸が絡(から)まるときがある。いったん休憩となり、母が絡まったところを探して少しずつほどく。また糸巻きが始まる。右、左、右、左と毛糸が手から外れていき、少しずつ毛糸が少なくなってくる。そのうちあげている両手が疲れてくる。しかし下におろすわけにはいかない。それで早く終わるように、また疲れを忘れるために、手を左右に動かして毛糸がほどけやすいようにする。これも最初はいいが、かえって疲れてしまう。ようやく終わる。ほっとする。これ以上手伝いを頼まれないようにさっと立って部屋から逃げ出す。
 編み物は冬場の仕事だが、縫い物はそれ以外の時期も不可欠だ。切れたり、ほどけたり、穴が空いたり、ボタンが落ちたり等々で繕い物があるからだ。農作業のない時間、昼休みか夜寝る前が繕い物の時間となる。
 針をもって縫っている母の手が突然止まる。顔がカクンと下に落ちる。居眠りである。早朝から夕方遅くまでの農作業、そして炊事、掃除、洗濯、くたくたに疲れており、眠いのは当たり前だ。ハッと気が付いてまた縫い物を始める。しかしまた少ししてこっくりこっくりが始まる。睡魔との闘いだ。だけど明日私が学校に着ていくためにはどうしても直しておかなければならない。母は姿勢を正してまた縫い始める。

 戦前はみんな手縫い、手編みだった。ミシンは仕立屋さんか金持ちの家にしかなかった。
 戦後2~3年したころではなかったろうか、このミシンが嫁入り道具のなかに入るようになった。前にも述べたが(註1)、結婚式のときには昔からの箪笥や衣類に加えて足踏み式のミシンが嫁の持参品として誇らしげに婚家の縁側に並べられた。
 やがてどこの農家にもミシンがあるようになった。都会でもそうで、どこの家でも縁側か居間の片隅に鎮座するようになった。
 このことは、それだけ戦争の打撃から復興したこと、豊かになって衣生活も向上したこと、女性の家事労働が軽減したことを示すものとして評価できよう。
 しかし、それだけではなかった。高価な既製服を買うより自分でミシンをかけて服をつくって安くあげよう、あるいは古い服をほどいてミシンで新しく縫い直そう、たとえば大人の古くなったワイシャツをほどいて子どもの普段着のシャツをつくろう等々からも導入されたものであった。
 もう一つ、ミシンが内職に使用でき、副収入を得やすかったこと、これもミシン普及の原因になったことも見落としてはならないであろう。
 当時都会では結婚後は外で働なかった。そもそも女性の就職口が今のようになかった。ましてや既婚の女性、子供をかかえた女性の仕事がなかった。こうしたなかで収入を得ようとすれば内職しかない。すさまじい低賃金ではあったけれどもミシンを使う内職の仕事がけっこうあった。その背景には当時日本が繊維製品の輸出国だったことがあった。資本主義の成立期の国や途上国では必ず軽工業とくに繊維関連産業がまず産業の中心となるのだが、戦後の日本もそうであり、その一部を家庭のミシンと低賃金の内職が担ったのである。
 こうしてどの家庭にもミシンが見られるようになった頃、1960年代だったと思うのだが、ミシン会社のセールスマンが中高生の女の子のいる家を訪ねて歩くようになった。女性の必需品、嫁入り道具のミシンを子どもに持たせるために今から毎月積み立てをしないか、そうすると何年か後に非常に有利な価格で手に入れることができると説得するのである。ほとんどの家庭がそれに応じたようである。
 もう一方で、零細な縫製工場が町の中に、やがては農山村の各地につくられ、そこでもミシンが大活躍した。
 こうしたなかで、ミシン産業は大きく成長し、当時の花形だった。山形市にもハッピーミシンという工場ができ、都市対抗野球に県代表として出られるチームをもつほどだった。今でも大手のミシン会社の名前、蛇の目、リッカー、ブラザー、シンガーなどを覚えているが、ホテル経営に乗り出すなど鼻息が荒かった。今の若い人たちにその名前を言ってももうわからないだろうが。
 このミシンばかりでなく、軍需産業が平和産業に転換することによって、生産・生活資材ともに豊かに供給できるようになり、それが生活を豊かにすると同時に、戦後の経済成長をもたらしたのである。

 1980年代になってからではなかったろうか、電動ミシンが発売されるようになった。そして今までのように直線縫いだけでなく、いろいろな縫い方ができるようになった。
 また、電動毛糸編み器も出現した。これもいろいろな編み方ができた。
 ともに小型でしかも非常に便利だった。家内もたしかそのころそれらに切り替えている。
 同じくそのころからではなかろうか、ミシン会社の名前が広告などであまり見られなくなってきた。また、農山村にあった縫製工場の撤退が相次ぐようになった。途上国にミシン工場ができ、繊維製品は途上国からの輸入となったからである。
 そしてきわめて安く、また豊富に衣服が輸入されるようになってきた。自分で布を買ってきてつくるよりも買った方がずっと安い。しかも多種多様の大小さまざまの既製服が店に並ぶようになり、自分や子どもの体形にあうものもそろっている。それでミシンを使わなくなってきた。ミシンではもちろん縫い針でも、破れた衣服をつくろうなどということもなくなった。破れたり汚れたりすれば捨てるようになってきた。使い捨てしかできないような製品になっているということもあるが。
 女性が列車内や待合室で編み棒をもって毛糸を編んでいる、こんな姿は見られなくなった。手編みの毛糸のセーター、手袋なども見られなくなった。好きな人のためにマフラーを編んでプレゼントする、こんな話も聞かなくなった。子どものころお母さんの毛糸巻きを手伝ったなどという記憶は今の若い世代にはないのではなかろうか。
 各家庭にあったミシンや編み機は見られなくなった。ミシンや編み機が小型になったので押し入れにでもおいておくようになったためだったなら問題はないが、どうなのだろうか。
 針と糸、編み棒は家庭にあるのだろうか。母親が子どもの服のつくろいをしてくれている、そのわきで子どもがそれをじっと見ながらおしゃべりをする、恋人のマフラーを編んでやる、こうした人と人との温かいつながりがなくなっていいのだろうか。
  「着てはもらえぬ セーターを
   寒さこらえて 編んでます」
 こんな情景は『北の宿から』(註2)の歌で思い浮かべるだけになってしまうのだろうか。
 縫製工場の消滅の中で、日本にあった縫製の優れた技術を若い女性に引き継ぐことができなくなったとかつての工場主が嘆いているのをテレビで見たことがある。そしてその技術は中国や東南アジアに行ってしまった。日本の女性のもっていた技術は消えてなくなるのだろうか。

 日本の女性は不器用になったのだろうか。服もつくれない、毛糸も編めない、つくろいもできない、こんな風になってしまったのだろうか。もちろん女性は裁縫をすべきものだなどというつもりはもちろんない。男性も家庭で裁縫することがあっていい。しかし話に聞くと裁縫などする意思のない家庭が多くなったという。技術進歩の中で既製服が大量生産できるようになり、それを買った方が安上がりだからだ。
 技術進歩は人間を不器用にするのだろうか。もちろん技術進歩だけではなく、途上国の低賃金が日本人を不器用にさせているのだが。
 家庭にあった技術を、その進歩を基礎に資本が大量生産に利用し、さらにその技術を途上国にもっていって低賃金で大量生産をし、その生産物を使い捨てにさせることで大量生産を維持し、利益をあげていく。そして日本人を不器用にさせ、使い捨てで資源を浪費させ、ごみを大量に排出して環境を悪化させる。

 網走の女性研究者WMさんに聞いてみた。友だちの中に縫い物編み物をしている人はどれくらいいるかと。
 やる人、まったくやらない人二つに大きく分かれる。やる人もまた二つに分かれ、子どもたちの洋服などをつくるのが趣味の人、手作りブームでいろいろ作ってはフリーマーケットで結構高額な金額で販売して満足している人がいる。こういう答えだった。
 そして彼女は言う、まったく裁縫をしない人、この半数を占める人は、子どものズボンの膝が破れた時点で捨てるのだろうか。ミシンはコンピューター内蔵で、誰でも簡単に使える機械となっている(これは不器用でも縫い物がやれるようになっているということだ)のに、縫い物をやらない。手間と時間を考えたら買った方が安いからしかたがないのだろうかと。
 私も同じ意見だが、もう一つ付け加えたい。生きるためというより趣味で縫い物編み物をする、いい世の中になったものだ。しかし本当にそれだけでいいのだろうかと。
 さらにもう一つ、年末とか年度末のゴミ回収の日、衣類のいっぱい入ったごみ袋を見ることがある。きっと古くなった衣類なのだろう。しかし衣類のない時代に育った私、ついつい考えてしまう、雑巾でもなんでもいい、何かに使えないのか、捨てていいのかと。

 ついでといっては何だが、もう一つ付け加えさせてもらいたい。
 娘のお産が近づく。娘はまたその母親・姑は、古くなった浴衣や丹前下などをほどいて、それで足りなければ晒(さらし)を買ってきて、おしめ(おむつ)をつくり始める。
 いよいよ赤ん坊が生まれる。早速おしめの出動だ。汚れたおしめが毎日大量に出る。早く洗って乾かし、また使えるようにしなければならない。
 だからおしめの洗濯は大変だった。私が洗濯機を買ったのはそれが理由だった。娘が生まれたとき、家内は勤めていた。私も洗濯するとしてもやはり大変である。それで当時は高価だったけど購入したのである。これでかなり楽になったとはいえ、やはり大変だった。
 洗い終わったおしめを物干し竿に干す。たくさんなものだから、竿が最低でも二本は必要、そこにずらっと並べる。いろんな布でつくったものだからおしめの色、模様はさまざま、だから物干し竿はまさに満艦飾である。
 赤ん坊のいる家ではみんなそうだった。ところが今はそんな物干し竿は見られなくなった。
 私の孫の出産の時、家内は娘や息子の時に使ったおしめを押し入れから出してきて使った。しかし、それを使ったのはその一時期だけだった。娘は東京に戻ったら使い捨ての紙おむつを使うようになり、それから仙台に来てもそれを使うようになったからである。
 これはたしかに便利だった。まず洗濯の必要がない。梅雨や真冬はおしめが乾かないと心配したものだが、そんなこともなくなった。また、紙おむつの吸収力が強く、あまり濡れないのでおむつかぶれなどもない。
 しかし、とまた考えてしまう。
 こんなにたくさんポイポイと紙おむつを捨てていいのだろうかと。また浴衣などの古着、これが再利用されずに捨てられていいのだろうかとも考えてしまう。そうでなくてさえごみ処理問題が問題になっているときにである。
 さらに、生まれてくる赤ん坊のことを考えながら古着をほどき、おしめを縫う、こうした母娘の楽しみ(大変ではあるが)、これがなくなった。便利になったことはいいのだが、何かさびしい。
 娘が赤ん坊のころ、山形の生家で家内がおしめを干していたら、たまたま訪ねてきた母方の伯母がそれを見て、「あヽ、万国旗が飾ってあるね」とにこにこしながら言ったという。そうなのである。あのにぎやかな物干し竿を見ると、あの家に赤ちゃんが生まれたのだなとわかり、それを見て何となくほほえましくなったものである。今はそうした光景はまったく見なくなった。これもまたさびしい。
 こんなことを考えるのは、私が年寄りになったせいなのだろうが。

(註)
1.11年3月29日掲載・本稿第一部「☆地域格差の縮小」(6段落)参照
2.歌:都はるみ 作詞:阿久悠、作曲:小林亜星 1975年
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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