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良質・安価・豊富な供給の裏表



                 便利で豊かな社会―その裏表―(7)

                 ☆良質・安価・豊富な供給の裏表

 定年後、たまにだが、家内に付き合って郊外の大型量販店に行く。家内が自分の買い物をしている間、私は文房具のコーナーを歩くことにしている。見るのが好きなのだ。文房具を使う私の商売柄と文房具がなかった子ども時代の欲求不満からだろうと思うのだが。
 まずコーナーの広さに驚く。子どもの頃の文房具屋は本当に小さかったし、勤めている間は学内の小さな売店で文房具を買っていたから、とくにそれを感じるのかもしれない。
 おいてあるものもまさに多種多様だ。これにも驚く。戦時中から戦後にかけては文房具屋に行ってもほとんど品物がなかったから、ましてや感じるのかもしれない。
 ただ、万年筆のコーナーは探すのが大変なくらい少ない。1960年代ころまでは文房具のなかでの高級品として大事に扱われていたのに、変わったものである。万年筆は簡単に消えない、はっきり見える、鉛筆のように芯をけずったりしなくていい、ポケットに差すことができて便利、高校生になって初めて買ってもらったときはうれしかった。一人前になったみたいだった。金やプラチナのペン先のついた高級万年筆、私たちのような物書きだけでなく、みんな一本はもちたがったものだ。
 この万年筆が少なくなって代わりに多くなったのが、ボールペンだ。戦前はこんなものはまったくなく、1950年代から店先に並び始め、珍しがられたものだったが、当初はけっこう高価、にもかかわらず質はよくない、そんなことからやはり万年筆だった。しかし、今は安価で質の良い多種多様のボールペン(註1)がずらっと並ぶ。変わったものだ。
 それからそろばんが見つからない。これは電卓等の普及から来るものだろう。
 新しい時代に対応したもの、たとえばコピー紙、DVD、CDが並んでいる。ただ、録画のためのビデオカセットがかなり少なくなったのに気が付く。
 多種多様のセロテープや収納材等々こんなのがあればいいなあとかつて思っていたもの、なるほどこれはいいアイデアだ、便利だと感心するもの、色や模様のきれいなもの等々たくさん並び、ともかくおもしろい。
 昔から変わらないもの、たとえば鉛筆、消しゴム、ノート、もちろんある。色鉛筆、クレヨン、絵具、さらにはシャープペンシルもある。上質紙、普通紙、画用紙、習字の紙も豊富だ。ただ、原稿用紙、あることはあるが少なくなった。これはパソコンの普及から来るものだろう。
 しかし、「わら半紙」がない。と言っても今の若い人たちにはわからないかもしれない。稲や麦の藁を原料として作った紙のことで、その色は白というよりは黄茶色に近く、表はつるつるだが、裏はざらざら(だから「ざら紙」とも言った)、書いている途中鉛筆の芯がガツンと引っかかったり、強く消しゴムで消すと簡単に破れたりする。裏に万年筆で書くとインクがにじむ。かつてはそれが普通だった。学校の作文などはそういうわら半紙に書き、試験用紙や教材もこのわら半紙にプリントしたものだった。そのうち、藁を紙の原料とすることはなくなった。それでも中質紙や再生紙等、少し質が悪い紙をわら半紙とかざら紙とか呼んでしまう。
 なお、こうした紙全体を私などは「西洋紙」と呼んでいる。これは和紙との対比から生まれた言葉らしく、子どものころはその言葉を普通に使っていたのだが、今はどうなのだろうか。
 いうまでもないことだろうが、今の西洋紙の質はかつてとはまるっきり違う。再生紙であっても昔の上質紙以上と言っていいかもしれない。みんな真っ白できれい、書きやすく、消しやすく、書いたものは見やすい。こういう紙、あこがれだった。それが大量にあり、しかも本当に安く買える。

 文房具コーナーに行くたびに感じる。多種多様のものが豊富にある、しかも質もいい、さらに昔だったら考えられないほど安い、いい世の中になったものだと。子どもたちにのびのびと画用紙に絵を書かせてみたい、ノートに落書きさせてみたい、戦中戦後の不足時代を過ごした私たちのこうした希望がかなったようでうれしい。
 しかしこれだけ安くなっても、まだもったいないと思ってしまう。広告のチラシの裏が白紙だとついつい何かメモ用紙などとして使えないかなどと考えてしまう。もう使わなくなった原稿用紙、集計用紙、グラフ用紙、ノートの使い残し等々、こうしたものが捨てられず、いまだにある。もの不足時代に育った人間の悲しい習性なのだろうか。

 それにしても、何でこんなに多くの便利なものがかつて考えられなかったほどの安い価格で豊富に売られているのかと考えてしまう。
 これは情報化をはじめとするいわゆる技術革新によるものであろう。本当にいい社会になったものだ。
 しかしそれだけなのだろうか。
 たとえば紙の豊富な低価格供給、これはたしかに製紙業、パルプ製造業等の技術革新によるものである。しかしそれは、南米、東南アジア、アフリカ等からの、つまり途上国からの低賃金と円高ドル安を利用した低価格輸入によってももたらされている。技術革新だけでなく途上国の低賃金と貧困、自然林伐採等の環境破壊によってわれわれの豊かな社会、便利な社会ができているのである。そしてそれが日本の林業をだめにし、林野の荒廃、山村の過疎化をもたらす主因となっている、これも見落としてはならないだろう。
 こうしたことは紙だけではない。ほとんどの商品に当てはまる。食品だってそうだ。これについては繰り返し述べているので省略するが。
 日本の豊かな社会は途上国の犠牲、地球環境破壊によっても成り立っているのだが、これが本当の「豊か」なんだろうか。
 こんなことをついつい考えてしまう、それは私の考え過ぎなのだろうか。

 近くのお年寄りが「100円ショップに行くのが楽しみ」と言っていると家内から聞いた。いろんなものを売っている、見て歩くだけでも楽しい、値段が安い、年金暮らしでも十分に買えるからなのだそうだ。
 学生のなかにも何かちょっとしたものは100円ショップに行って買う、ついでに中を歩いてみてほしくなったものを買うというものもいた。品物は悪くないのか、安物買いの銭失いではないかと聞くと、何しろ100円、悪い品物だったら捨てればいい、これくらいの銭なら捨てても惜しくはないと言う。
 高齢者の楽しみ、貧乏学生の生活等から考えると100円ショップもいいかもしれないが、それはまたもったいないという考えを忘れさせ、使い捨て、資源の浪費、ゴミの山、環境破壊に拍車をかけているのではないだろうか。
 こんなことも考えてしまう。

 いつも買い物に行く生協の隣りに100円ショップがある。生協で売っていない小間物などをそこに買いに行くというので家内に付き合う。驚く。よくまあこんなに安くしかもさまざまな品物を売っているものだと。これが100円なのか、これでコストが引き合うのだろうかと思う商品すらある。
 もしも本当に技術革新で、企業努力でコストが下がり、価格が安くなっているのなら問題ない。しかし本当にそうなんだろうか。その100円の裏に何かあるのではないか。ついつい考えこんでしまう。
 もしかすると、倒産して投げ売りせざるを得なくなった品物を手に入れ100円で売っているのかもしれない、倒産の悲劇が裏に隠れているのかもしれない。それにしても、品物、品数が多い。しかも安定して供給されている。倒産の投げ売りだけではなさそうだ。
 とすると、こうした品物を生産する工場等が労賃を切り下げて、あるいは赤字覚悟で供給しているのかもしれない。しかし、それでは長続きはしない。そういう工場は結局はつぶれて品物を供給できなくなるからだ。
 そこで考えられるのが、途上国からの輸入品ではないかということだ。円高ドル安によって、低賃金長時間労働で、また環境保全や働くものの安全等にカネをかけていないことでコストが低くなっており、それで運賃をかけても100円で売ることができるようになっているのかもしれない。
 それを考えるうえで参考になったのがピーター・リーライトの書いた『子どもを喰う世界』という本(註2)だった。それによると安売り商品のほとんどは「メード・バイ・チルドレン」だと言う。衣料品、靴、サンダル、ガラス製品、家具、電気器具、缶詰になる野菜や果物等々、子どもの手による製品が氾濫しているというのだ。一日十何時間と大人並みに働いて賃金はずっと低い。前借り金に縛られて奴隷のように働かねばならない。そしてそこでつくられる商品を私たち「豊かな国」の人々が「安い」と言って買っている。
 かつての西欧における資本主義勃興期(いわゆる本源的蓄積時代)の幼児労働、戦前の日本資本主義の基礎となった児童労働が今途上国で再現しているのである。ただしかつての児童労働は国内の資本蓄積に、資本主義の確立に役立てようとしてなされた。だから国内世論がそれを問題とし、それを禁止する運動が展開できた。しかしいまの幼児労働は他国とくに先進国の資本の利益(低価格の生活物資→生活費の低さ→低賃金→企業利益の増加)を増大させるためのものある。そしてその製品を購入している先進国民には児童労働がみえない。私どもはその悲惨な事実を目の前で見ていない。だから禁止しようとも考えない。そして私たちは平気で買う。
 こうして安く輸入され、みんながそれを買うものだから、国内の中小企業等はやっていけず、倒産、失業となる。
 このように、100円の裏には働くもののさまざまな悲劇が、子どもの悲鳴が隠れているのかもしれない。環境を破壊されている地球の悲鳴も隠されているのかもしれない。
 こういう視点から見てみる必要はないだろうか。
 価格破壊、一時期もてはやされたが、本当にそれでいいだろうか。消費者のプラスになることがすべていいことなのだろうか。もう一方で新たな貧しさ、環境破壊を生み出していないか。豊かな社会の裏に何があるのか。よく考えてみる必要があろう。

(註)
 1.12年4月20日掲載・本稿第四部「☆調査必携品の変化」(3段落)参照
 2.ピーター・リーライト著・さくまゆみこ他訳『子どもを喰う世界』(晶文社) 

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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