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技術進歩と労働時間―新たな格差の生成―

 

                便利で豊かな社会―その裏表―(9)

              ☆技術進歩と労働時間―新たな格差の生成― 

 20世紀後半、この半世紀の間にすさまじく世の中は便利になった。これは生活面だけではない。生産面でも生産性はすさまじく向上した。そうなると労働時間はもっと減っていいはずだ。そしてそれを人間は望んで努力してきた。
 実際に労働時間は減少した。1987年の労働基準法改正で労働時間はこれまでの一日8時間・一週48時間から、一日8時間以内・週40時間以内に変わった(「先進国」に遅れること40年にしてだが)。
 それに対応して、週休二日制も実施されるようになった。私どもの大学もそうなった。ただこれで困ったこともあった。これまで5日半で講義していたのを5日で終わらさなければならなくなったからである。どうカリキュラムを組むか、その組み替えに苦労したものだった。しかし、個人的にはうれしかった。もちろん原稿に追われるなどして土日も仕事しなければならなかったが、それにしても休みだと言うことは気分的に楽だった。そしてかつては土曜日がうれしかった(註)が、今度は金曜日の夜が気分的にもっともほっとする時間となった。これは私だけではなかった。それで花金(はなきん)(花の金曜日)などという言葉が流行るようになった。金曜日は次の日の勤務を考えずに飲むことができる、それでサラリーマンはこんな言葉を使ったのである。ただし仙台では花木(はなもく)(花の木曜日)だと言われた。単身赴任者が金曜日の夜に帰るようになったので、木曜日にみんなでの飲み会をやるようになり、国分町などの盛り場は木曜日に混雑したのである。
 もう一つ、喜ばしいことがあった。商店などの中小自営業者が必ず週に一日の休業日をもうけるようになったことである。デパートはそれぞれ曜日を違えて毎週一日は休みだったが、家族労働力を中心とする店などは土日なしで夜遅くまで働いていた。しかし、家族労働者も含めて雇用労働者も休みをとろうと協定を結び、たとえば床屋さんは週に一度月曜日は必ず休日にするようになった。また大工さんたちも少なくとも日曜は休みにするようになった。
 こうした労働時間の短縮は、戦後一貫して追及してきた労働者の権利の拡大によるものだが、技術の進歩もそれに大きな役割を果たした。情報技術の進展はそれをさらに促進するものだった。

 当然そうなれば、われわれの暮らしはもっともっと豊かになっていいはずである。
 たとえば情報技術導入による生産性の高まりは労働時間を減少させ、休日を増やすはずである。同じ質量を生産をするのに前よりも少ない労働時間ですむようになるのだからだ。
 もちろん、たとえば新たに携帯電話の生産がなされるようになるなど、生産力の発展は新たな生産、新たな労働需要を引き起こす場合、つまり社会の必要とする総労働時間を増やす場合もある。
 しかし、それは新たな労働力の供給でまかなうことができる。情報化を核とした技術革新による生活用品の利便性の向上は家事等の生活面でも必要労働時間を減少させているからだ。これまで家事に専従せざるを得なかった女性などの労働を社会に供給することが可能となっている。実際に女性の社会進出が進んでいる。
 そうなれば、やはり一人当たり労働時間は減少し、家事労働の節減とあいまって、家族みんなで余暇をゆっくりと楽しみ、文化・スポーツや創造的活動で楽しむことができるはずだ。そしてみんな豊かな気持ちになっていいはずだ。

 ところが一向に労働時間は減らない。週40時間労働はそのままである。他の先進国のなかには36時間以下になっている国があるのにである。
 それでも40時間が守られていればいい。ところが、労働時間が週60時間を超える労働者が増加している。週20時間余計に働くのだから、一ヶ月4週として80時間となる。一日8時間労働で換算すると10日間も余計に働いていること、土日返上、休みなしで働いていることになる。デパートには定休日がなくなり、スーパーは年中無休、コンビニは夜中も休みなしである。規制緩和、自由競争だということで、美容院、理容室等の一斉休日はなくなった。これでは余暇を楽しむどころではない。それどころか健康破壊、さらにはカローシということになる。
 しかもそうした長時間労働を派遣労働者なる身分不安定の低賃金労働者も担うようになった。労働者派遣の原則自由化など労働法制の規制緩和を大きく進め、大企業はしめたとばかりに正社員を派遣社員に置き換えたのである。それはまた正規労働者の賃金を抑制する。
 長時間労働の上に低賃金、これでは豊かなゆとりのある生活など夢のまた夢である。

 労働生産性の向上に応じて一人当たり労働時間を短縮しなければ、そして長時間労働で働かせれば、それだけ労働力が要らなくなる。そこでリストラ等の名目で余った労働力のクビを切る。
 労働組合はそれに対して闘う力をもはや喪失している。政府も労働者の権利を守ろうとはしない。かくして働きたくとも仕事のない人、失業者が形成される。労働者一人当たりの労働時間を少なくすれば失業者など出ないはずだし、過労死もないはずなのにである。

 失業者はもちろんのことその家族も生活のために職を探そうとする。何とか見つかるのは週35時間未満の短時間労働だ。当然低賃金、健康保険や失業保険もない。こうした不正規労働者が今大幅に増えている。こうしたなかで、ワーキングプアなる言葉が生まれてきた。
 一方、企業の利益、経営者報酬、株主の配当だけは増えていく。
 こうして経済的な格差はどんどん広がっていく。巨大企業と中小企業、農林漁家との格差もますます広がっている。 

 戦後、農業の生産性が大きく高まったことについてはこれまで詳しく述べてきた。本来からいえばそれは農工間格差、都市・農村間格差を縮小するものであり、農家、農村を豊かにするものである。実際に一時期格差は縮小した。しかし、21世紀に近づくにつれて農業は衰退の一途をたどり、農業で働くものは激減し、農村はさびれ、格差は拡大するばかりとなった。

 戦前も格差はあった。それも身分格差まで付随したすさまじい経済的格差だった。戦後それを解消すべくみんな努力してきた。そして国民総中流化などといわれるほど格差は縮まってきた。しかしまたその格差が新たな形をとって復活しつつある。日本は再び格差社会へと変わりつつある。
 その過程を、また現在の格差問題を、戦前と対比しながら、また戦後の解消の努力を振り返りながら、次に見てみよう。
 (次回掲載は8月17日とする)。

(註)
12年4月9日掲載・本稿第四部「☆『毎日が日曜日』≠『悠々自適』」(2段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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