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むら社会(4)


          ☆むらの掟

 このようなむらの管理運営は全員一致が原則だった。ともに同じ権利をもっているわけだし、しかも全員一致で取り組まないと全員の生産、生活に支障が起きるからである。たとえば水路の管理について多数決で決め、少数派に不満が残ってその決定にしたがわないとなると、少数派も多数派も困ることになる。そこで論議や決定の前に根回しがなされる。そしてみんなのためということでがまんさせたり、不服はあっても反対はしないことを約束させたりする。あるいは深くつっこんで議論せず、まあまあでおさめようとする。まともに論議してけんかにでもなったら困るからである。
 こうした原則でいとなまれるので、むらは「まあまあ主義」、「馴れ合い社会」、「根回し社会」であり、個々人の意見をみんなの力で抑える「足引っ張り社会」、「悪平等社会」であるとも言われた。

 もちろん、むらの運営原則や共同のしかたはむらによって千差万別である。むらの成り立ちの経過、水田中心か畑中心か、山が近いか遠いかなどの地域性、宗教や階級支配の形態などでかなり異なる。
 たとえば何百年かさらには何千年前かに一~二戸の少数の入植から始まってその分家や孫分家等でむらが成立した場合、これは山村や畑作地帯に多かったが、ここでは本分家関係による序列が強く、平等制はきわめて弱かった(註)。
 岩手県遠野市の高清水牧野を見ればそれがよくわかる。ここでは明治末に利用(採草)の持ち分を配分したが、そのさいの基準は馬の所有頭数だった。当然馬を多く所有しているのは本家筋であり、彼らが多くの持ち分(株)を所有し、馬をもっていない分家などは権利を持たないことになる。したがってこの配分方法は本家群の強い意見で決められたのであろう。もしも分家が人並みに株をもとうとすれば、馬をもつしかない。しかしそんな資力はなく、本家から援助してもらうより他ない。この分家からの願いに対して本家は、分家が自分のところで一〇年間働くことを条件にして、馬一頭と牧野の株を譲ったという。こうして権利者が増えたが、すべての分家が権利を本家から譲り受けられたわけではない。本家の経済事情によって、また本家にどれだけ手伝いなどでつくしているか等の従属の程度によって左右されたようである。このように、ここの牧野はむらぐるみの共有ではなく、本家群と本家に認められた分家の共有であった。当然その運営では本家群の意見が強くなる。牧野ばかりでなくむらの運営においても本家と分家との間に大きな格差があったことだろう。つまり本家、なかでも総本家がむらのなかで大きな権限をもち、むらを実質的に支配していたのである。
 青森県南部の田子村(後に町となる)などはその典型だったようである。かつて総本家がそこから分かれた本家、分家、孫分家を下におくピラミッドの頂点に立って支配し、村は何戸かのこうした総本家の連合によって支配されていたという。しかもその総本家の間での争いがあってむらが分裂していた。そしてこっちの総本家が何かいうとそっちの総本家は必ず反対するというように、何か決めようとしてもなかなかまとまらず、それで農業の発展もかなり立ち後れたらしい(このことについてはまた後に述べるが、一九七〇年代になってむらの民主化が進み、ニンニクの産地形成等で全国的に有名になっている)。
 もちろんこうした本分家関係は山間畑作地帯にかぎらずどこにでも多かれ少なかれあった。そしてそれは本家と分家の間の経済的格差を基礎にしていた。すなわち、本家は自らの経営と生活の維持と家としての面子を保つために一定の土地と資産をもたなければならず、分家に独り立ちできるほどの土地や資産を分けてやることはできない。それで分家はいつも生活が苦しく、何かあると本家に援助をお願いすることになる。そのお願いを聞いてもらうためには本家の言うことをいつも聞いていなければならない。また援助の御礼に本家から言われれば何をおいても手伝いにいかなければならない。かくして経済的格差は経済的社会的支配従属関係となってくる。さらにそれは本家と分家の間での村落等の運営における発言権の差となり、本家が村落を支配するようになってくる。それに加えて、当時の生産・生活様式の維持には古い伝統やしきたりを大事に守ることが必要だったので、村落では古いものが大事にされ、そのために歴史の長い本家は格が高い家とされ、村落社会における地位は高く、その発言が重視されることになる。かくして社会的な地位、権限の格差が生まれ、本家の村落支配関係が成立するのである。
 しかし、中山間部でも明治以前は分家を禁止している集落がかなりあったし、貨幣経済の未進展のもとでは農家間にそれほど大きな経済的格差がなかったので、このような本分家の支配関係がそれほど強くないところも多く、明治以降いろいろ変わってはくるけれども、やはりむらは平等運営を原則としていたと思われる。
 一方、庄内平野のように何十戸かが一斉に入植・開拓して集落ができたところでは、むらびとはきわめて平等であった。もちろん時代が進んで経済的な格差が出てくるなかで、むらの寄り合いで座る順序がたとえば土地所有面積で決まるというように変化はしてくる。しかし、平等運営が基本であったという。
 このように地域的なさまざまな差異はあるが、これまで述べてきたことはそうしたさまざまな事例から共通するものを抜き出したものであり、基本的にはむらは平等が原則だったということができる。そしてそれに基づき、むらはむらにかかわるさまざまなことを決めてきた。

 こうしてむらで決まったこと、あるいはかつてむらで決めた不文律、慣行として残っていることにむらびとは必ずしたがわなければならなかった。そしてこうしたむらの掟を破るものは厳しく罰せられた。その罰のもっとも重いのが村八分であった。生活のうちの二分、つまり葬式や火事などのさいにはこれまで通りむらの共同に加えるが、それ以外の八分についてはむらびとは一切つきあわない、つまり絶交するのである。
 たとえば山形県大蔵村沼の台の契約講は一八九七(明治三〇)年に次のような規約を決めている(この沼の台については後に述べるが、明治期に集落内での分家を認めることになってむらの戸数が増えたことを契機に契約講としてむらの機構を整備し、それまでの不文律を明文化したものと思われる)。
 「私利私交ノ為メニ本契約ニ違反シタル者アル時ハ将来村交際ヲ離隔、村共同積立金及ビ奨励金等総テ共同物ノ付与権利ヲ取消シ致可ク」
 このなかにある「村交際ヲ離隔」というような村八分は人権問題として、農村の封建制の典型例として戦後の民主化のなかで大きく騒がれた。しかし、これもやむを得ない面があった。当時の生産力段階で個々人が勝手なことをやったら、むらの共同を破ったら、みんなが生きていけなくなるからである。だからむらはむらびとを裁く権利をもっていたのである。
 むらの司法権はそれにとどまらなかった。秋田県雄物川町(現・横手市)福地地区のある集落でこんな話を聞いたことがある。その昔、道普請や共有林野の管理等の出役などを定めた「郷法」というのがあり、そのなかにはむらのなかでものを盗んだり何か悪いことをすると罰則を課するという決まりもあった。その罰は、盗んだものを返した上に、酒五升とニシン三束をむらの寄り合いにもってきて、みんなに謝罪すれば許すというようなものだという。この程度ではたいした罰ではないと思われるかもしれないが、米すらまともに食べられない当時のことだから酒はきわめて高価であり、魚にしても手に入れることは難しく、かなり厳しい刑罰だった。他にもさまざまな罰則があったようだが、それが調査の中心課題ではなかったので、くわしくは聞かなかった。もっときちんと聞いておけばよかったと今は後悔している。
 このようにむらは、むらびとの生産、生活にかかわる行政、立法、司法の権利、つまり自治権をもっていたのである。

 むらで裁くのだから、警察などには届けない。犯人がわかってもそれがむらびとであるかぎり通報しない。よそものには絶対に教えない。むらびとの口はきわめて固かった。
 いうまでもなくこれは罪人隠しである。しかしむらの恥は隠す。だからよそものにはむらはわからない。なかに何を隠しているかわからない。そしてみんなでよそものを排除する。
 つまりむらはきわめて排他的であり、閉鎖的であった。
 それは止むを得ないことだった。当時の技術水準では土地を始めとする乏しい資源を分かち合ってぎりぎりの生活しかできなかった。そうしたところによそから人がきたら資源はさらに少なくなり、これまで住んでいたむら人が生きていけなくなってしまう。また当時の技術水準では生産と生活を維持するために共同作業への出役を始めとするさまざまな規制、掟が必要だったが、それがよそからきた人にこわされては困る。むらの決まり、慣行を知らない外部者に勝手なことをやられたら困るのである。だから、むらに移住してきてもむらの一員とは認めない。つまり共同所有、共同利用の一員には加えない。それでむらは排他的、閉鎖的だと言われることになる。
 しかし何年間か住んでむらびとと協力していけることがわかれば一員となる権利を与える。この加入条件はむらによって異なるが、秋田のあるむら(どこの村だったか名前がどうしても思い出せない、農家の囲炉裏を囲んで酒を飲みながらこの話を聞いたその夜の情景ははっきりと目に浮かぶのだが)では、五年(分家は三年)以上住んで酒三本と魚を持ってむらにお願いにくれば、そしてみんながそれを了解すれば入会権を付与する、つまりむらびととして認めるという決まりがあったそうである。逆に、むらから外に出ていけばその権利は喪失する。
 このように入会地の共同所有・利用の権利関係は西欧から移入された資本主義的権利関係とはまったく異なるものである。

 こうした入会の権利関係は資本主義経済の浸透のなかで変化してくる。たとえば薪炭や木材の商品化の進展、林野の開墾技術の進展などのなかで入会林野は入会権者に分割されるようになる。これをさきの福島県会津の南郷村鶇巣集落の例でみてみよう。
 この集落は四百年前にあったことが確かめられているという古いむらで、そもそもは六十二戸で構成され、これ以上家を増やさないことになっていたという。生産・生活に不可欠の入会林野の利用面積が少なくなることを恐れたから、またそうでなくてさえぎりぎりの一戸当たりの経営面積を分割すれば生活が成り立たなくなるからだったようで、こうした例は他地域でも多く見られる。
 明治の中期になって分家が認められるようになり、分家は新戸(しんこ・われわれが行った一九七八年には七戸あった)、そもそもの六十二戸は旧戸(きゅうこ)と呼ばれたが、ともに入会権をもつようにしたという。
 さらに一九三五(昭和十)年前後に入会林野の一定部分を分割している。入会権者が火災などにあったときとか、むらの公共用とかに伐って利用できるくらいの林野面積と、馬つなぎ場や薪積み場、火の見櫓など共同で所有した方がいいところの何ヶ所かを残して、他の林野は分割したのである。これを「桑畑分け」と呼んだとのことだが、杉一反歩と桑二反歩が植えられる土地を権利者全員に平等に分割した。もちろん土地条件はそれぞれ異なる。そこで、どの場所の土地を自分のものとするかは競りで決め、多く金を出したものがいいところをとるということで平等にした。ただし土地の所有権の登記はしていない。したがってこれは利用権の分割ということができる。ただしこの利用権の売買も行われていて、一戸で二戸分の権利をもっているものもおり、村外に出て行っても権利は残るという。金を出して獲得した権利だからであろう。こうなってくると所有権に近い。農家も所有しているという感覚をもっている。この集落の例を見ると入会地が私有化してくる過程がよくわかるが、もしもこの分割された土地が入会権者全員の了解のもとに所有地として登記されれば各農家は完全な近代的私的所有権をもつことになる。
 西日本などでは比較的早くからこういう過程が進展した。しかし広大な林野の存在する東北の山間地帯では林野の私有化はあまり進まず、入会林野がかなり多く残っていた。
 こうしたところに、明治政府は地租改正などのために土地の所有権を確定しようとし、しかもそのさい西欧から輸入した所有権と利用権の感覚で入会権を律しようとした。これが後にさまざまな問題を引き起こすことになる。

(註) 本家と分家の関係については10年12月25日掲載の本稿記事の最後のところでも書いている。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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