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身に染みついた天皇崇拝



                 格差社会の再来―前史・戦前の格差社会 ―(1)

                    ☆身に染みついた天皇崇拝

 60年代、調査で農家のお宅におじゃますると、かもいのところにかけてある額縁入りの先祖の写真や賞状などの隣りに、天皇・皇后の写真が飾ってあった。戦前撮った礼服・軍服姿の菊の御紋章入りの写真の場合もあれば、戦後撮った平服の写真の場合もあるが、飾ってあることにおいては戦前とまったく変わりなかった。都会では戦後あまり見られなくなっていたのにである。このように、天皇崇拝の考えは戦後も農村部にかなり強く残った。
 私の生家では戦前も戦後も天皇の写真は飾らなかったが、祖父などはその死の直前まで天皇を崇拝していた。

 1952(昭和27)年、私が高校2年のとき、福島・宮城・山形の三県で国民体育大会が開かれた。なぜ三県共催となったのか、誘致合戦の妥協の結果なのか、県単独開催の力がなかったせいなのか、当時はそんなことを考えもせず、ともかくそんなものなのだろうと思っていた。国体の期間、高校は休みとなった。ただし、どこかの会場一つでいいから応援しに行くようにと言われたので、母校が出場するバスケットボールの試合の応援に米沢市に行くことにした。
 その前夜の夕食の時である。小学校に行っている弟が、天皇が学校の前の国道を通るから明日は学校の二階にあがるなと先生から言われたという話をした。それを聞いた私は怒った。なぜ二階にあがって悪いのかと。そしたら晩酌をしていた祖父がいう、当たり前だ、上から天皇陛下を見下ろすなどという失礼なことをしてはならないと。なぜ天皇を見下ろしてはだめなのか、私は強い口調でいった。祖父はいう、天皇だもの当たり前だと。天皇だって同じ人間ではないか、なぜ特別扱いするのか、こう私は反論した。祖父は怒った、生意気をいうな、天皇は違うのだ、ありがたいものなのだと。なぜありがたいのか、ありがたいことなどしてくれたか。こんなことでかなりのやりとりをした。父は私にやめろと言った。しかしやめなかった。
 それまで私は祖父に口答えなどしたことがなかった。初めての反抗だった。だから祖父はますます怒ったのだろう。とうとう祖父は私の頬を打った。これも初めてだった。これまで祖父から手をあげられたことなど一度もなかった。しかし、天皇崇拝という子どもの頃から祖父が持っていた(持たされてきた)信念、そして社会通念に逆らう孫、何でこんな風に育ったのかと思うとついカッとなったのだろう。
 私はご飯を食べるのを途中でやめて立ち上がり、寝室に行って布団にもぐった。少し経ってから母が来た。そして祖父に謝れと言う。いやだと言ったら、明日の交通費はどうするのかと聞かれた。そうだった。財布を握っている祖父に逆らったら、明日米沢に行く金がもらえない。友だちといっしょに行く約束をしており、それを破る訳にはいかない。まだ行ったことのない米沢の町を歩いても見たい。困ったことになった。
 とうとう妥協することにした。翌朝早く、まだ布団に入っていた祖父の枕元に行き、自分が悪かったと謝り、ようやく交通費をもらって、早飯を食べて駅に向かった。
 それから一週間くらいしてからではなかったろうか、学校から昼過ぎに帰ったら、農業改良普及員の方と祖父、父の三人がいろりのまわりでしゃべっている。そして父が今は時代が違うのだ、孫のいうことが間違っているわけではないのだと話していた。普及員の方もそう言う。祖父はかなり不満のようだったが、精神的には落ち着いていたのだろう、反論はしつつも一応話は聞いていた。
 その年遅くなってからだと思う、満州に行って生死不明だったK叔父の戦死の公報が届いた。もう一人のT叔父の戦死は戦後すぐに知らされたのだが、もう一人は7年も過ぎてからの知らせだった。その年の冬、祖父は一人火鉢の前に座り、黙って考え込むことが多くなった。時々ため息もついた。いつだったろうか、何の話のときだったろうか、ふとこんなことを言った、天皇のために死なせようなんて何で考えたんだろうなと。
 明治生まれの祖父には天皇崇拝は身に染みついたものだった。しかし祖父は二人の息子を戦争で奪われた。それがいろいろ考えさせるきっかけとなったのだろうか、新聞、ラジオ、まわりの人々の話等々が独りでに時代の変化というものを考えさせたせいだろうか、ともかく天皇に対する考え方が少し変わったようだった。

 1972年、恩師のHS先生が新潟で開催された植樹祭に招かれて出席した。帰ってきた先生が私の研究室に来て、笑いながらこう言った。
 「不思議なものですねえ、祭りに出席した天皇が私たちの前を通ったときみんながおじぎしたんですが、私もいっしょに頭を下げてしまったんですよ。やはり天皇は頭がひとりでに下がる存在、私たち平民とは格が違うんですかねえ」
 私は思わず「えっ」と先生の顔をまじまじと見た。先生の経歴、考えからして頭を下げるなどということは考えられなかったからである。
 先生は戦前満州鉄道(満鉄と略称されていた)に勤務していたが、1943(昭和18)年治安維持法違反で検挙された。満鉄には満州を始めとする北東アジアを調査研究する調査部を設けていたが、その部員がスパイ活動をしたとして何十人か逮捕され、先生もその一人として逮捕されたのである。これは満鉄調査部事件と言われるようになるのだが、先生は東大の学生時代にも左翼思想をもっているとして検挙され、一ヶ月間警察署に留置されたことがあり、その経歴からリストアップされて検挙されたようである。だから調べても特に起訴されるような容疑は出てこなかった。しかし特高はすぐに釈放せず、拘留を続けた。左翼思想をいまだ持っているかもしれないものを放すわけにはいかないからだ。アカい思想は捨てたという証拠が欲しい。そこで特高は今の戦争が「聖戦」だと認めろ、そうすればすぐに釈放してやると強要した。しかし先生はそれを認めなかった。それでそのまま牢獄に閉じこめられた。しかし、罪はない。釈放しない訳にいかない。それで、ようやく終戦の直前になって釈放された。満州の牢屋への拘留は内地での拘留の2倍の期間に当たるほどひどいと言われたらしいが、そこに約一年閉じこめられたのである。
 こういう経歴はあるし、戦前のわが国の諸問題は天皇制を機軸とする資本主義体制に起因すると考えていたので、先生は天皇制に批判的な考え方をもっていた。60年代後半ではなかったろうか、ある時先生がこんなことを言った。資本主義というのは思ったよりいいものだとわかったと。戦前の日本資本主義は天皇制・地主制・財閥との三位一体でできており、そしてそのいずれかが崩れれば日本の資本主義は崩壊するものだと思っていた。ところが天皇制がなくなっても資本主義は生き延び、それどころか発展している。戦前とは比べものにならないくらい豊かになっている。ということは日本を苦しめたのは天皇制などに大きな原因があり、それは資本主義の発展をかえってじゃまするものだったのだと。
 こう言って批判していた先生が天皇に頭を下げる。ちょっと驚いた。本人もそうだったのだろう。自分でもびっくりしたのだろう。それで私に話したくなったのかもしれない。
 私は言った。明治生まれの先生には子ども時代からの厳しい天皇崇拝教育が身に染みついており、それが潜在意識となって心のどこかにあり、それがこういうときに瞬間的に顕在化して頭を下げさせたのではなかろうかと。
 「そうかもしれませんねえ」
 そう言って先生は苦笑いしながら私の研究室を後にした。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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