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宮城遙拝・勅語奉読

 


                 格差社会の再来―前史・戦前の格差社会 ―(2)

                     ☆宮城遙拝・勅語奉読

 明治・大正生まれの人ばかりではない。私たち昭和生まれも学校では厳しい天皇崇拝教育を受けた。天皇は神であり(註1)、日本はこの天皇の治める国つまり神国であり、国民は天皇の臣民つまり家来で、天皇のおかげで生きていけるのだ、だからわれわれ臣民は天皇を尊び崇め、忠義を尽くさなければならない、そして「大君の醜(しこ)の御楯(みたて)」となって死ぬ、これこそ名誉なことだ等々、徹底して教え込まれた。
 そうした崇拝の念を形でも示すように叩き込まれた。
 たとえば、学校の朝礼や式典のさいには必ず「宮城遙拝(きゅうじようようはい)」があり、天皇の住む宮城の方向を向いて、私の生まれた山形の場合は南の方になるのだが、そちらを向かされて最敬礼をさせられた。
 ときどき勅語(「天皇が口頭により発する公務上の意思表示」と辞書にあるが、それが書かれている巻物をわれわれはこう読んだ)の奉読がある。そのさいにはまず講堂の壇の正面にある神棚のようなところから勅語を書いた巻物の入っている黒い漆塗りの箱を校長が白い手袋をはめて恭(うやうや)しく取り出す。そしてそれを捧げ持って壇上の机の上に置き、箱を結んでいる紐をほどいて箱を開き、中から巻物を取り出す。一礼して巻物を広げて勅語を読み始める。そのときにわれわれ生徒は直立不動の姿勢で頭を下げさせられる。ちょっとでも動いたら大変だ。何という畏れ多いことをとすさまじく怒られる。だから読み始める直前みんなが一斉にゴホンゴホンとせきをして動かなくともすむように準備をする。やがて校長の厳かな声が響き渡る。何が何だかわからない言葉が延々と続く。ようやく「御名御璽(ぎょめいぎょじ)」という言葉が出てくる。もう終わりだ。緊張がほどけ、みんなほっとする。その安堵感でみんな身体を動かし、息をつくので、講堂全体がかすかなざわざわっとした音で満ちる。
 こうした勅語のうちのいくつかは上級生になると暗記させられる。軍隊に入ったら軍人勅諭の暗記だ。私の場合は終戦で暗記しなくともよくなったが、教育勅語(註2)の最初の文だけはまだ覚えている。
 「朕惟フニ 我カ皇祖皇宗 國ヲ肇ムルコト宏遠ニ 德ヲ樹ツルコト深厚ナリ
  我カ臣民 克ク忠ニ 克ク孝ニ………」
 なお、勅語はすべて片仮名で書かれ、濁点はついていなかった。戦前は片仮名が公用語(平仮名は女の文字だから公用になれなかったのか?)であり、小学校で最初に覚えさせられる字であった(今と逆)から、また濁点については汚い発音だと考えられてきたからではないかと思う。
 いつもはその勅語とご真影(天皇皇后の写真)は「奉安殿」と呼ばれる建物のなかに保管されている。石やコンクリートで非常に頑丈に、火事などに遭わないようつくられたこの建物はどこの学校にもあったが、その前を通る時には必ず頭を下げるように言われており、もしもその近くで立ち小便などしようものなら先生から思いっきり殴られた。
 講堂での式典ではもちろんのこと、授業中でも天皇陛下という言葉が出ると必ず気を付けの姿勢をとらなければならない。天皇という言葉の前には先生が必ず「畏(おそ)れ多くも」という修飾語をうやうやしくつけるので、その言葉が出てきたら次に天皇という言葉が来るということで身構え、座っているときには背筋をきちんと伸ばし、立っているときには直立不動の姿勢をとる。その言葉が終わるとほっしてもとに戻ったものだった。

 祝祭日、これは休みになるのでうれしい。しかし戦前の祝祭日は学校が完全に休みではなかった。学校に行った。ただ、カバンはもっていかなくともよく、式典に出席するだけだった。式典では、校長の式辞があり、その祝祭日に対応した勅語が奉読されあるいは歌を歌った。それが終わるとそのまま帰る。1~2時間で学校が終わるのだからやはりその日はうれしかった。たまに紅白の餅をもらうこともあり、これもうれしかった。
 ただし、すべての祝祭日がそうだったか、完全に休みだった祝祭日があったかどうかは記憶にない。たとえば、地久節はたしか平日並みに授業があったと記憶しているので、あるいは祝祭日にはなっていなかったかもしれない。
 ところで、戦前の祝祭日にはどんなものがあったのか、家内と二人で思い出してみた。そしたら次のような名前が出てきた(記憶をたどっただけなので、不正確かもしれない)。

  四方節     1月 1日 (正月)
  紀元節     2月11日 (神武天皇の即位日)
  地久節     3月 4日 (皇后の誕生日)
  春季皇霊祭  3月21日 (歴代の天皇・皇后等の霊を祭る日)
  神武天皇祭  4月 3日 (神武天皇の死んだ日)
  天長節     4月29日 (天皇の誕生日)
  秋季皇霊祭  9月23日 (春季皇霊祭と同じ)
  神嘗祭    10月17日 (天皇が新穀と神酒を伊勢神宮に捧げる日)
  明治節    11月 3日 (明治天皇の誕生日)
  新嘗祭    11月23日 (天皇が新穀を食べて収穫に感謝する日)

 これを見れば一目瞭然、この祝祭日すべてが皇室行事の日となっている。つまり、伝統的になされてきたあるいは明治以降復活・新設された皇室行事に合わせてつくられたものである。もちろん、国民が伝統的に祭日としてきた元日、春のお彼岸(春分)、秋のお彼岸(秋分)も祝際日となっているが、それも皇室の四方節、春季・秋季皇霊祭として天皇家の行事として位置付けられている。要するに祝祭日は、皇室の慶事・行事を国民がお祝いをする日と位置付けているのである。
 こうしたなかで、明治以降、天皇というものは尊いもの、国民すべてが尊崇すべきもの、国の中心をなすものと考えるようにさせられてきた。

 それ以外にもさまざまあるが、こうした天皇崇拝教育は、私の場合、敗戦のため小学校(当時は国民学校)4年の半ばで終わった。それでも強烈に印象に残っている。ましてや長い間こういう教育を受け、大人になったらなったで軍隊に行ってそういう教育をさらに強く受け、日常の生活でもそうした雰囲気の中で当たり前のこととしてきた人々にとっては、天皇崇拝の意識が強く遺るのは当然のことかもしれない。もちろん、戦争に行かされた人や戦災を受けた人の中には天皇制に強い批判をもつようになった人もいたが。

(註)
 1.正確に言えば現人神(あらひとがみ)=「この世に人間の姿をして現れた神」
 2.私たちはこう呼んでいたが、正しくは「敎育ニ關スル敕語」である。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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