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天皇はなぜいるの―ある日系三世の質問―



                 格差社会の再来―前史・戦前の格差社会 ―(4)

                  ☆天皇はなぜいるの―ある日系三世の質問―

 80年代に入ってからではなかったろうか、座敷のかもいに天皇皇后の写真を飾る農家はほとんどいなくなった。明治生まれの、つまり天皇は崇拝すべきものとと長期間考えさせられてきた世代のリタイアがそうさせたのだろう。
 それでも天皇制は戦前とは違った形をとりながらも厳然として残っており、天皇崇拝の気持ちも国民のなかにある。なぜなのだろうか。私にはよくわからないのだが、王制をしいていない外国の人たちはなおのことわからないようである。

 71年だったと思う、ブラジルに移住した日本人の二、三世の若者を日本の大学に1年間留学させるという事業(正式名称は記憶にない)があり、私どもの研究室にも宮城県南からの移住者の子孫のH君が留学してきた。三世であるにもかかわらず日本語をきちんと話せた。しかし、日本人と言うよりはやはりブラジル人だった。本当にブラジルを愛し、その政治体制の変革を考えていた。
 その彼からあるとき突然質問された。なぜ天皇というものが日本にいるのか、しかも千年以上も続いているというがそれはなぜなのかと。当然のことながらブラジルにはない。また王制をとっている国も本当に少ない。こんなものはなくともすむではないか。にもかかわらずなぜ日本にあるのか。H君の祖父母は天皇をありがたがっているが、なぜなのか。
 困ってしまった。きちんと考えたことがなかったからだ。でも、まったく答えないわけにもいかない。
 苦労しながら何とか答えた。彼はわかったようなわからないような奇妙な顔をする。当然のことかもしれない。何しろ私の説明がしどろもどろだったし、しかも彼は日本の歴史を詳しく知っているわけではない。もっとうまい説明の方法があったのではないか。彼に申し訳ないことをした。そのことが本当に気になり、そのとき答えたことを基礎にして筋道たてて話しできるようにしようと、折りに触れて考えてきた。そして今はほぼ次のような結論に達している。

 民衆による支持を何らかの形で(たとえば選挙で)受けることなく、あるいはこれまでのルールによることなく、たとえば武力などで旧政権を打破して政権を獲得した場合、その新政権は権力をもつことの正当性をある権威から認めてもらおうとする。そうでなければ民衆は新政権のいうことを聞かないからだ。また同じく権力を志向している他のものがいうことを聞かない。お前には権力を持つ正当性はない、おれが持つのが正しいと言い出したとき、それは違うとはいえない。これでは支配体制を確立することができない。もちろんこうした異論や抵抗は武力で抑えればいいし、それは当然必要である。しかしそれだけでは抑えきれない。政権をもつことの正当性を誰かから認めてもらう必要がある。神様からでも何からでもいいのだが、たとえば自分が直接倒した前の権力に政権移譲を認めさせればいい。しかしそれは一般的には難しい。倒されたものが自分を倒したものの支配などなかなか認めないからである。そこで、もっと古い時代の支配者、旧権威を引っ張り出し、その子孫などに支配の正当性を認めさせることになる。
 織田信長がその典型例だった。武力で国を支配した彼は前の支配者ですでに政治的実権を喪失していた足利家の一員の義昭を担ぎ出して将軍にし、そこに信長の実質支配を認めさせた。ところが義昭は自分で直接権力を握ろうとした。そこで信長は足利幕府を廃止、つまり前権力を徹底的に倒した。そして、足利幕府よりも前に権力を握っていて前政権の足利もその支配を認めてもらうために利用してきた朝廷・天皇家という古い権威を持ち出してきた。実質的な権力はすでになく、細々と残っていた天皇家から支配の承認を得るということにしたのである。
 豊臣秀吉も徳川家康も同様にこの旧来の権威を利用した。かつて政権を持ち、その後貴族や武士に政治の実権をゆだねることを認めてきた古い権威である天皇家に、関白とか将軍とかの名称を与えさせることで支配の正当性を獲得しようとしたのである。また成り上がり者でしかない諸大名も、天皇家から古い時代の位階官職をもらうことで、また公家から嫁をもらって旧権力者の血を引いているとして、その領地と人民を支配する正当性を得ようとした。こうして、ルールに基づいて政権を得ているのだから、天皇の任命による政権だから、権力を行使する合理的根拠があるとしたのである。
 そして徳川幕府はその支配を永続させるために、天皇家とその家臣である公家等の旧支配者を存続させた。旧支配層・旧権威から正当に支配権を受け継いでいることを絶えず証明するために、小藩主なみの知行を与えて存続させておき、時々は天皇家の使者を江戸に招いてそれを再確認させた。こうして江戸時代も天皇家が存続することとなった。
 しかし実質支配者でもなく小藩主程度でしかなかった天皇の存在は、京都近くに住むもの以外の一般庶民のほとんどが知らなかった。この天皇家が急に着目されるようになったのは封建制の行き詰まってきた19世紀になってからだった。

 時代が閉塞的状況にあり、未来を指し示すことができない場合、つまり未来の社会が見えない、どうしていいかわからない場合、過去への回顧、復古が現れる。模範となる、あるいはなりそうな社会を昔に求めるようになる。まったく新たに次の社会の方向などを考えるのは難しいが、昔なら理解できるし、真似することができるからである。
 かくして封建制が行き詰まった時代には、封建制以前の社会への回顧、復古という考え方が出てきた。
 それがヨーロッパではギリシャの社会、古代社会への復古だった。そしてそれはいわゆるルネッサンスとして一世を風靡した。
 日本の場合それは天皇直接支配時代への回顧となった。武家の支配する鎌倉・室町時代では徳川時代と基本的に変わりないのでそこへの回顧・復古は考えられないからである。そこで武士支配とそれによる閉塞を打破した後の理想の社会をより古代の社会、天皇支配時代に求め、そこに戻ろうということになる。かくして幕末期の革新派、反幕勢力は尊皇を唱え、それをスローガンにしていわゆる明治維新で幕府を倒し、政権を獲得した。
 そのときも幕府に代わって政権を樹立すること、権力獲得の正当性を誰かに認めてもらわなければならない。もちろん民衆が認めれば問題はないのだが、その方法は確立されていないし、認めてもらうには時間もかかる。このままでは旧支配層の諸大名が、また民衆が、新政権の言うことを聞かなくなる危険性もある。そこで天皇家が幕府に形式的にだが与えてきた権威を新政権に与えるようにさせてその支配の正当性を獲得することにした。
 さらに新政権は、単に政権を認めてもらうための機関として天皇家を存続させるだけでなく、そこに絶対的な権威を持たせ、強固な存在にし、それをバックにして資本主義の確立に努めることにした。ヨーロッパの国々が絶対王制をしいて資本主義を勃興させたということを学んだからである。
 かくして明治維新は天皇制を復活させ、新たな衣をまとって強化させた。そして天皇を中軸に国家が強大な軍事力、行政・司法・立法を集中し、前支配者の領主層、農民や町人、新しく創出されつつある労働者の抵抗を抑えていわゆる富国強兵を図り、他国を侵略しつつ資本主義の発展を図ろうとしたのである。
 そのさい、こうした支配体制を合理化するために新たなイデオロギーをそれに付与し、それを徹底して教育することにした。そして、明治憲法は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定め、天皇は現人神(あらひとがみ)であり、日本は昔からこの天皇が治め、日本人を統合して日本という国を存続させて来た、こうした神である天皇に逆らったりしてはならない、またこの天皇の任命する政府の言うことは聞かなければならないとして、子どもから大人まで徹底して教育したのである。こうしてつくられた天皇制を背景にして日本は資本主義的工業の育成・資本蓄積を図ると同時に、アジア諸国を侵略していった。

 しかし、第二次大戦で日本は負け、戦争の根源である天皇制・地主制・財閥の解体が国際世論から迫られることになった。これに対し、日本の政財界などの支配層は何とか旧来の体制を基本的に維持しようとした。そのためには旧体制の中核においてきた天皇制をなくすわけにはいかない。一方庶民のなかには万世一系の天皇は日本の中心であり、崇高な存在であるという明治以降の徹底した教育で叩き込まれてきた認識が根強く残っている。これをひっくり返せば、そして天皇の戦争責任など追及したりすれば、戦前の支配体制と支配層すべてが否定される危険性があり、大きな政治的混乱が引き起こされる可能性がある。それを回避するために、庶民の天皇崇拝意識が完全に覆されていないのを利用して、戦前の体制の根幹をなした天皇制を残そうということになる。
だからといって戦前のような形で残す訳にはいかない。国民主権は認めざるを得ない。そこで苦肉の策として、天皇は神様ではなく人間である、だからかつてのような主権はもたない、しかし天皇は国民統合の象徴としての特別の存在であるとして、いわゆる象徴天皇制として残すことにした。
 そして、総理大臣などが国会の承認を得た後に、つまり国民の意思で決まった後に、天皇の認証を受けることにした。かつての権力者が旧権力者たる天皇家から形式的に権力の存在、支配の正当性の認証を受けるという形式をそのまま残すことにしたのである。
 それで天皇制がいまも残っているのだ。もちろん天皇の位置づけは戦前と大きく変わった。しかし、戦前生まれの国民のなかには長い間叩き込まれてきた天皇崇拝の気持ちが残っている。また、戦後生まれの子どもたちは教育のなかでまた新聞・雑誌・テレビ等で天皇が特別に取り扱われることから天皇は普通の人とは異なる特別な存在として見ている。それで、かつてとは違った形での天皇尊崇の気持ちが国民の中にあるのだ。
 こう考えているのだが、歴史学者でもなく、天皇制についてとくに勉強したわけでもないので、この説明が正しいのかどうか、あるいはすでに誰かが述べていることなのか、まったくわからない。でも、今聞かれたらやはりこう説明したいと思っている。

 ところで、先にちょっと触れたが、明治維新のころは庶民の大多数が天皇の存在を知らなかったらしい。江戸の庶民の多くはなぜ天皇なるものが突然出てきて江戸城に住んで国を支配するのかわからなかったし、農山村でもその存在を知っているのは少なかったようである。
 そこで政府はこれを知らしめるためにさまざま努力をした。たとえば東京では、大家さんが八つぁん熊さんに天皇とは何かを解説する落語をつくった。その一部を文学部の日本史の先生から聞いたことがあるが、思わず笑ってしまった。落語だから当然なのだろうが。
 農山村では次のような説明がよく理解されたらしい。家の中心が戸主であり、戸主があって家が成り立つように、国の中心は天皇であり、天皇があって初めて国は成り立つのだというものである。それはこういうことである。
 かつての農家は戸主=家長≒父親を中心にして家族員総ぐるみで働き、生計を維持すると同時に、その財産を家督に相続させて家を継続させてきた。また戸主は、家督以外の子どもは分家させるなどして家を出た後の生活ができる最低限の基礎をつくってやった。だから戸主の権限はきわめて強く、家族員は戸主の言うことを聞かざるを得なかった。よそに就職するなど簡単にできなかった時代、勘当などされたら食っていけなかったからである。
 このように家に中心があり、その中心たる戸主が代々家を守って家族員みんなを食わせてきたのと同様に、国にも中心があるのであり、その中心が天皇であって万世一系で国を維持してきたのだ。それが日本のよき伝統である。ところが幕府はそれを阻害し、その結果いろいろな困難が引き起こされた。だからもとに戻していかなければならない、つまり王政復古が必要なのだ。
 この比喩は農家とくに戸主を納得させるものだったようだ。そして明治政府は、一方では天皇に絶対的な権限を憲法で与え、他方で古い家制度を、また戸主の権限を民法などでさらに強化させたのである。
 このような家制度いわゆる家父長制は戦後法的には否定されたが、実質的にはかなり根強く残った。これまで戸主=身上持ちの権限がいかに強かったかをあちこちで述べてきたが、これも一因となって天皇制に対する尊崇も戦後かなり長い期間残ったのだろう。また、戦後も天皇の写真を座敷に飾っていたということになったのだろう、こう私は考えている。もちろん、さっきも言ったように今はまったくそんな写真が見られなくなったが。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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