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整列、行進、神社参拝


                 格差社会の再来―前史・戦前の格差社会 ―(5)

                    ☆整列、行進、神社参拝

 国民学校(現在の小学校)の朝、朝礼の時間が近づく。教室に入っていた子どもたちががやがやとしゃべりながら廊下に出てくる。そこに級長(現在は学級委員と言うのだろうか)が大きな声で号令をかける。
 「整列!」
 子どもたちは先生が決めてくれた順に、それは背の高さの順なのだが、二列横隊で並ぶ。また級長が言う。
 「気を付け」
 みんな両足をそろえ、両手をぴんと下に下げ、胸をはる。
 「右へー ならえ」
 右を向き、左の腕を腰にかけ、隣の子どもとの距離をとる。
 「なおれ」
 子どもたちは腕を下して前を向く。また級長が号令をする。
 「番号」
 前列の子どもが左から順に大声で叫ぶ。
 「一、二、三、四・・・・」
 それが終わると級長はその数に2をかけて(最後の子どもがが一列つまり一人の場合は1を差し引いて)、先生のところに行き、報告する。
 「〇年〇組、総員△△名、異常なし」
それから全員右を向かせ、四列縦隊にさせる。
 「四列縦隊、右向けー 右」
 級長はその縦隊の先頭に立ち、また号令をかける(追記)。
 「前へー 進め」
 全員まず右足をあげ、手を大きく振って、講堂まで歩く。
 「一、二、一、二・・・・」
 その途中隣の子とおしゃべりしたり、列を乱したりしたら先生からすさまじく怒られる。時にはビンタを食らう。だから行進は整然としている。ザッザッという足音が廊下に響く。あちこちの教室の前から行進が続く。講堂につくと、所定の位置のところで級長が停止させる。
 「ぜんたーい(全隊) 止まれ」
 こうして1年生から順に前に整列し、「休め」の姿勢で朝礼の始まりを待つ。やがて、先生の声が講堂中に響き渡る。
 「気を付け」
 その号令のもとに、全員直立不動の姿勢となる。朝礼が始まって校長からの訓辞があり、あるときは勅語が奉読される。
 軍国少年だった私はこうした整列、行進はかっこいいものと思っていた。何か気持ちが引き締まり、お国のためにがんばらなければと思ったりしたものだった。
 戦後、こうした整列・行進は軍隊の真似だから、軍国主義・全体主義的だからとして禁止された。だから小学4年の10月以降こうしたことはしたことがない。やがて運動会のときなどの整列や行進は解禁されたが、そのころは高校生、もう整列行進などはなかったからである。
 おかしなものである、あれだけかっこいいと思っていた軍隊の整列や行進を何年かたって映画などで見ると、そしてあのザックザックという足音を聞くと、あの戦争時代を思い出して(註1)いやな気持になったものだった。

 毎月8日には、こうして整列した後、全員鉢巻をして近くの八幡神社に裸足で走って行って参拝した。8日は大詔奉戴日(12月8日=大東亜戦争開戦の日)に当たる日なので米英に対する必勝祈願に行くのである。真冬でも裸足だった。戦地にいる兵隊さんはもっと辛い思いをしている、それを思えばなんということはない、そういわれても、やはり雪の上を裸足で走るのは辛かった。やがて足が真っ赤になって感覚を失ってくる。学校に帰ってくると、足はやけどをしたように熱くなった。
 学校行事としてばかりでなく、神社への参拝は進んでするように、神社の前を通ったらどんなに急いでいても必ず立ち止まっておじぎをするようにと、学校から厳しく言われていた。もしもそうしていないところを見つかったりすると、先生から厳しく怒られた。

 いうまでもないが、戦後はこんなことがなくなった。家内は「神様を拝んではならない」と学校で言われたという。私にはその記憶はない。今までのように神様を拝まなくともよいと言われただけのような気がする。でも、家内の方が正しかったのかもしれない。何しろ戦中の神社参拝は五穀豊穣、家内安全の祈念よりも戦争勝利、天皇家万歳の祈りのためだったのだから、当時軍国主義的天皇制の廃止の世界的世論を背景にしていた占領軍により禁止されるのは当然のことかもしれないからだ。
 だから前のような形での神社参拝は、子どもたちばかりでなく大人もしなくなった。何しろ占領軍の命令で神道に関する特権的法令がすべて廃止され、国家神道が否定されている。参拝したりすると軍国主義者と言われ、占領軍に捕まるのではないかと思ったからなのだろう。
 しかし、戦後2~3年たつとかつてのおもかげが戻ってきた。祭りが復活し、普通のときでもかつてのように五穀豊穣、豊漁、家内安全、山・海・地域の安全を祈念してお参りするようになった。また初詣でのときには、若い女性が和服を着て盛装して行く姿も見られるようになった。だから美容院が大晦日から正月にかけて満員になった。なお、成人式での女性の着物姿は1960年ころからで、若い女性の晴れ着姿は初詣で、初出勤のときに見られるものだった。
 それでも、私の心の中には神様に参拝するのに若干抵抗があった。また国家神道、狂信的愛国主義に戻らされるのではないかという不安があったからである。靖国問題などはそうした不安感をますます強くさせた。それでも、神前結婚式に出席したり、何かの機会で神社に行くときはみんなといっしょに拝んだ。東京農大には豊作の神様である豊受大神宮が分祀(ぶんし)されており、収穫祭(農大の大学祭)のときにはその前で学内の要人が参拝することになっているが、それに立場上参列しなければならないときには私もきちんと榊(さかき)をあげてお参りをした。村の鎮守様と同じように豊作祈願のために学内におかれた鎮守様、これをお参りするのには抵抗感が一切ない。ただ、自分から積極的に拝みに行きたいとは思わないが。
 なお、家内は小学校のとき参拝を禁じられてからその教えをまもり、神社を参拝しようとは思わず、神前結婚での仲人を頼まれて拝まざるを得ないときなどに形だけ拝む程度でまともに拝んだことはないという。ところが、孫が生まれてからは孫の健康、家内安全を祈って本気になって拝むようになったという。苦しい時の神頼み、とにかく何かにすがりたい、祈りたいという気持ちが人間にはあるようだ。それは当然だと思う。ましてやわが国は豊かな自然に恵まれると同時に天変地異の多い国、自然のあらゆるものに神が宿るとして自然を崇拝してきた歴史がある。
 そして神には現世の利益、仏にはあの世の利益をお願いしてきた。前に神と仏に分業関係があるようだと述べた(註2)が、それぞれ分担しながらお互いに補完しあってきた。まさに分業と協業の関係をもっているようだった。
 もちろん、そんな単純なものではない。神々の祭りにもあの世にかかわることがある。神式で葬儀を行う地域があることはその典型例である。また地域の神社の中には飢饉や水害などの犠牲者に対する鎮魂から始まったというものもある。お寺に病魔折伏の祈祷をしてもらったり、家内安全や豊作・豊漁を祈願してもらうなど現世の利益をお願いすることもある。
 明治維新以前などは神仏の分業・協業関係は入り交じり、それぞれの地域性歴史性からくる土着の信仰がそれに加わり、いわゆる神仏混淆状態にあった。それで何の問題もなかった。
 ところが明治政府はそれを無理やり引き離した。そして廃仏毀釈などで寺院の建物や伝統を壊し、神様については国家が保護する、しかも神社に天皇と関連づけて身分格差、序列をつけることまでやった。

(註)
1.11年2月7~16日掲載・本稿第一部「戦争とむらの子どもたち(1)~(8)」参照 
2.11年12月26日掲載・本稿第三部「☆豊作貧乏+凶作貧乏」(1段落) 参照

(追記)
 改めて読み直してみたら、最初の記事には四列縦隊にするさいの号令を書いていなかった。また、行進停止のさいの号令も書いておらず、さらに行進開始の号令を停止のときの号令と混同して書いていた。お詫びをして追加、訂正させていただきたい(14.05.07)。もしかするとこれにも記憶違いや記録漏れがあるかもしれないし、それ以外にもさまざま不正確なところがあるかもしれないが、これも年齢のせい、これからも思い出し次第訂正させていただくことをお許し願いたい。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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