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現代版口入れ屋・手配師・ニコヨンと出稼ぎ



                 格差社会の再来―二一世紀初頭の日本―(1)

                 ☆現代版口入れ屋・手配師・ニコヨンと出稼ぎ

 私の好きな作家藤沢周平の小説『用心棒日月抄』のなかに口入れ屋(手数料を取って職業を周旋する業者)が出てくる。この口入れ屋は小説の中でそれなりの大きな役割を果たすのであるが、まさに狸親父、きわめておもしろい人物にえがかれており、NHKテレビでは坂上二郎がぴったりの好演をしていた。これを見ると口入れ屋というものは何か好ましくすら思える。
 しかし現実は必ずしもそうではなかった。多くは中間搾取、人身売買、やくざ等々、さまざまな前近代的なものを付随していた。この口入れ屋、手配師(店などをもたないより前近代的な性格をもつ斡旋業者)は明治以降も残ったが、こうした問題をもっていたため昭和初期からさまざま規制がなされるようになった。
 そして戦後は原則として雇用の周旋業は禁止され、職業安定法にもとづく公共職業安定所(略称・職安)が設置され、職業の斡旋は日雇いや季節雇いまで含めてこの職安が行うものとされ、さらに厳しく取り締まられるようになった。こうしたなかで、かつていろいろ問題のあった紡績女工などの募集も職安を通じてなされるようになった。集団就職列車に乗った子どもたちも職安を通じて就職したので、いろいろな面で安心だった。さらに日雇いや季節雇いまで含めて職安が斡旋するとしたからこの面でも手配師が入り込むことができなくなった。

 ニコヨン、こういう言葉が戦後の一時期流行った。
 当時は戦後の混乱もあって失業者があふれていた。そこで政府は失業対策事業、つまり失業者の救済のための公共事業を展開した。そこへの就労は職業安定所が紹介し、日当は職安が支払った。その日当が240円だった。そこから日雇い労働者のことをニコ(100円2枚)ヨン(10円4枚)と当時呼ぶようになったのである。このニコヨンは相当数いた。
 「ニコヨン殺すにゃ刃物はいらぬ 雨の三日も降ればよい」
 そもそもこのなかの「ニコヨン」はその昔は「土方」だったらしいのだが、ともかくこんな言葉が流行るほど仕事がなかった。
 こうした時代であればあるほど手配師などが暗躍するものだが、職安ができたことでともかくピンハネなどの前近代的な収奪のもとで失業者が苦しめられることは少なくなった。もちろん職安を通さず手配師の斡旋で就労するニコヨンもいたが、それは職安でも仕事がなかった人たちが一部利用するだけだった。

 なお、1955年前後の私の学生時代は、日雇い労働者はかなり少なくなり、日当ももう少し高くなっていたが、学生のバイト賃は一日200円が相場だった。当時シナソバ(ラーメンをそう呼んでいた)一杯50円だったから、今と比較するといかに賃金が安かったかがわかろう。そもそもアルバイトも少なかった。家庭教師のバイト、これは最高なのだが、こんなのはほとんどない。お金持ちの特別な家しかおくことのできなかった時代だ。たまに寮にバイト募集がくると一人募集に対して十数人が集まり、殺気だってじゃんけんして決めたものだった。
 まともな就職口も本当に少なかった。私の先輩や同級生のなかには公務員試験を通っても募集人員が少なくて採用されず、やむを得ず県庁などに日雇いで雇われ、翌年また試験を受け直して何とか採用されるというものもかなりいた時代であり、民間企業もまだ十分に復活していない時代、就職するのは本当に大変だった。当然賃金もきわめて低かった。

 やがて高度経済成長が本格化し、労働力の需要が増える中で、失業対策事業で働く者は少なくなった。大都市に多かった日雇い労働者も少なくなった。そして手配師は山谷などに残るだけとなった。
 しかし、日雇いや季節雇いなどの不安定低賃金労働は減ったわけではなかった。高度経済成長による労働力需要の急増は農村からの出稼ぎ、日雇いを急増させた。農村住民の大都市や工業地帯への遠距離出稼ぎという形での季節雇い、近隣の中小都市や農村部に立地した誘致企業、下請け零細企業等への季節雇い・日雇いが、都市住民のニコヨンに代わったのである。
 この出稼ぎの斡旋も職安を通じてなされた。しかしたまたまそれでうまく探せなかったり、あるいは甘言に釣られたりして、手配師を通じて出稼ぎに行き、給与の不払いや事故で問題を起こす場合もあった。とは言っても、それは少数事例だった。
 なお、近隣の土建業等への日雇いの場合には、業者の依頼を受けて必要なときに必要な数だけ集めてくるものが地域に必ず一人いた。ただし、その斡旋者は何人かの業者に日雇いを斡旋したり、斡旋を仕事としているわけではなく、たとえば現場監督をしている等何か縁のある一業者だけへの斡旋なので、これは手配師とは言えない。しかも地域内の人だから、多くの場合農家だったから、そんなに悪いことをするわけではなく、問題はなかったと言ってよい。
 しかし、出稼ぎ地帯のある村でいやな話を聞いたことがある。男が出稼ぎに行っている間、女性も土建業の日雇いで働く。遊んでいるわけにはいかないからだ。工事現場からの帰りのマイクロバスのなかで、その日雇いを斡旋している男性が女性にささやく。ちょっとモーテルまで付き合えと。断ると次の日から稼ぎにこなくともいいと言われ、それからは絶対に仕事をもらえない。こうやって脅して何人かの女性をものにした、こんな奴もいると。

 前にも述べたように、80年代に入って出稼ぎが少なくなってきた。農村部での女性の日雇いも少なくなってきた。
 日雇いがなくなる、出稼ぎが少なくなる、この背景にいろいろあろうとも、これはともかく不安定低賃金の労働者が少なくなること、労働者間の格差がなくなることを意味するものであり、好ましいことである。しかもそうなるとますます手配師などの雇用周旋業者の暗躍の場が少なくなるので、これもまたいいことである。
 と思っていたら、ある頃から人材派遣会社という名前が聞かれるようになった。それを強烈に認識したのは、私が東北大を定年退職した1999年だった。この年に労働者派遣の原則自由化など労働法制の規制緩和を大きく進め、人材派遣会社の拡大あるいは新設が進んでさまざま話題を提供するようになったからである。
 このときまず思ったのは、これは口入れ屋の新たな段階での復活ではないかということだった。職安(当時はハローワークと呼ぶようになっていたが)という公共機関がしていたことを民間がやる、つまり就職斡旋を民間がやってもうけの種にするということではないかと思ったのである。
 しかし、よくよく考えてみると単なる斡旋ではなかった。口入れ屋は斡旋の時のみ手数料をもらうのだが、人材派遣会社は派遣という名で斡旋した後も派遣先の企業から派遣労働者の賃金を含む金を受け取り続け、そこから利益を得るのである。もう一つ、派遣先企業はその派遣労働者を契約期間満了などでクビにするときには派遣会社に戻すだけなので、首切りの責任を負わないということである。一方、派遣会社は他に派遣先が見つからなければまともな給料は払わず、さらに契約期間満了ということでクビにする。この点では派遣会社も首切りの責任を負わない。これでは人材派遣会社は口入れ屋以上に悪質だと言うことになる。
 いやもっと悪質なのは派遣会社を通じて派遣労働者を雇用している派遣先の企業だ。まず企業は派遣会社を自分のダミーにして退職金なし・低額の社会保険・低賃金の労働者を雇用し、企業の直接指揮の下に正職員並みに働かせ、彼らが不必要になったら企業はまたこのダミーを通じて首を切るのである。
 04年にはそうしたことを製造ラインでやることも解禁された。これはまさに賃金切り下げ、首切りの自由化、規制緩和であり、戦前に戻ったとしか言いようがない。
 さらに日雇い派遣なるものも出てきた。これは手配師の再来以外の何ものでもない。もちろんこの手配師は会社という近代的形態をとっており、したがって現代版手配師の出現と言うことになろうが。
 こうした派遣会社を通じて働くいわゆる派遣労働者が90年代後半ころから増加し始めたが、それ以外にも契約社員、日雇い、臨時工、季節労働者、期間社員、アルバイト、パート、嘱託社員等々のいわゆる期間労働者も増えてきた。こうした非正規労働者と総称されている人たち、つまり雇用の継続が不安定で雇用保険や労災といった社会保障も正規雇用者に比較してきわめて不十分な労働者が21世紀に入ると急激に増加するようになったのである。

 こうした動きを見ていたときふとこんなことを考えた、これは出稼ぎの激減に対応するものとして生まれてきたのではないかと。
 出稼ぎ農民(通勤出稼ぎと言われたものも含む)は、資本の必要とするときに都市に労働力として吸収され、不必要なときには農村に貯めておかれ、まさに景気・労力需要の変動に対応して労力を供給するきわめて便利な存在だった。
 しかも首になっても文句も言わなかった。農業があり、帰る家が村にあって最低限食っていけたからである。もちろん首切り反対の労働争議は起こさない。
 また低賃金でも文句を言わなかった。最低限食っていけるだけの農地をもっているので、都市に住む労働者のように生活費つまり労働力の再生産費のすべてを賃金として受け取る必要はなかったからである。
 まさに出稼ぎ農民は好不況の雇用調整弁、低賃金の基盤として高度経済成長を支えてきた。
 しかし、この高度成長を支えたもう一つの柱である貿易・資本の自由化は農林漁業を衰退させ、農業・農村人口を急減させ、高齢化を進展させた。かつて農村は過剰人口のプールといわれたが、自由化等でプールの底に穴を開けられ、1990年代前半にそれはほぼ底をついたのである。
 その結果、あの便利だった出稼ぎに雇用調整を頼るわけには行かなくなってきた。農業・農村を潰したツケがまわってきたのである。それに代わるものとしてなされたのが、派遣・期間労働者の容認、推奨、そして非正規雇用の急増だったのではなかろうか。そして彼らを雇用調整弁、低賃金の基盤として利用しようとしたのではなかったのか。もちろん、次に述べるように、そんな単純なものではないのだが。

(註)次回の掲載は7日(金)とする。


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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