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戦前の乞食と現代のホームレス


              格差社会の再来―二一世紀初頭の日本―(3)

                 ☆戦前の乞食と現代のホームレス

 戦前、うち続く洪水と冷害、そして高率高額小作料のもとで「ほいどのむら」つまり「乞食のように貧しい村」と呼ばれたところもあった(註1)、最近ある大学の集中講義で大学院生にこう話した。その後ちょっと疑問になり、院生諸君に聞いてみた、ところで乞食って見たことがあるかと。もちろん見たことなどあるわけはない。私が小さい頃まではたくさんいたが、見かけなくなったのは1960年ころからではなかろうか。だから院生諸君には何となく乞食がわかってもイメージがわかない感じだ。どう説明しようか。そうだ、彼らも知っているホームレスとの比較で説明しよう。そう思って次のように話した。
 住む家がないという点では乞食もホームレスと同じである。しかし両者の質が違う。乞食は一軒一軒家を回って食べ物やお金をもらって歩くいわゆる物乞いである。もちろんゴミ箱あさりなどもする。しかし、食べるものなどめったに入っていない。今のように食べ残して捨てるような時代ではなかったからだ。衣類などぼろ切れでさえめったに入っていない。だから生きていくためにはものもらいをするより他ない。文字通り乞食、「食を乞う」なのである。ここにホームレスとの違いがある。
 こう説明したのだが、私たちが普通使っていた「ほいど(共通語ではほいと)」については説明しなかった。「ほいと」とは乞食と同じ意味で「金銭や食べ物を他人からもらって生活する者」(Yahoo!百科辞典)であり、そのなかには山伏や修行僧などの僧侶、獅子舞や三味線弾きなどの門付け芸人も含まれているが、私たちのいう「ほいど」は「家も仕事もなく物乞いで生活している者」のことだった。私にとっては「ほいど」という言葉の方がぴったりくるのだが、ここではわかりやすく乞食という言葉を使うことにする。

 幼いころよくこんなことがあった。ぼろぼろの服を着て真っ黒な顔や手足をしている人が玄関の戸口の前に立ち、何か恵んでくれと手に持った欠けたお椀とか茶わん、あるいは袋を差し出す。すると、祖母がお握りを握ってその中に入れてやる。ご飯がないときは米を入れる。祖母が忙しくて手を離せないときにはこれをやってこいと私に銅貨(何銭銅貨だったか覚えていない)を1枚渡す、私はそれをお椀の中に入れてあげる。そうすると、頭を深く下げて立ち去る。なぜかしらないが、ともかく必ず何かをあげた。
 男も女も、年寄りも若い者もいたが、今でも印象に残っているは母子連れの乞食だった。汚れに汚れた赤い着物を着て真っ黒な顔をした4、5歳の女の子とその母親が物乞いに来たのである。外に出て遊んでいた私はその二人の姿を見て強いショックを受けた。どうやって寒い夜など寝ているのだろう、どんな思いをしてあの二人は歩いているのだろう、自分があの子のようになったらどんな思いをして私のように普通に暮らしているよその子どもを見るのだろう。祖母からお握りとお金をもらって頭を下げ、手をつないで立ち去っていく二人の姿を呆然として私は見送った。あの子の汚れた真っ赤な着物、黒い顔、私をじっと見つめていた大きな黒い目がいまだに忘れられない。

 松本清張の小説に『砂の器』という名作がある。これが1974年に野村芳太郎監督の手で映画化された。小説を映画化すると多くはつまらなくなるのだが、これは違った。小説とはまた違った感動を与えてくれた。とくに父と子の愛情、二人で放浪して歩くシーン、その背景に流れる音楽には涙を流した。
 そのときにしばらくぶりであの母子の乞食のことを思い出した。『砂の器』の父子の放浪は病気による差別からきたものだったが、あの母子はどうして乞食になどなったのだろうか、そしてあの後どうなったのか。
 ともかく当時は乞食が多かった。社会保障制度や労働者・農民の権利が確立していなかったことがその最大の原因であろう。あの母子の場合は家庭的な問題があったのかもしれない。女の働き口がなかった時代、児童福祉の確立していない時代、乞食をするしか糊口をしのぐことができなかったのではなかろうか。
 あの母子の乞食は二度と現れなかった。それが普通だった。村から村へ、町から町へと移動しながら物乞いをして歩く「流浪型」の乞食がほとんどだったからである。

 しかし「定着型」の乞食もいた。旧山形市内にも三人の有名な乞食がいた。彼らのねぐらがどこにあったのかは知らないが、ゴミ箱あさりをしながら物乞いをしていた。
 もっとも有名なのが「すんぱっつぁん(新八さん)」である。長髪で髭も長く、仙人のような風貌で、どてらなどのぼろの着物をがっぱり着込んで、それを縄でしめていた。かなり気位が高く、ものをくれても気に合わないと突き返すという。子どもたちは、新八つぁんはすごくいい家の生まれらしい、哲学者だったらしいとかの噂をしていた。
 それから「英語バカ」である。着物ではなくて洋服(もちろんぼろぼろである)を着、帽子をかぶり、長身で、いつもにこにこしている。子どもたちの間では、彼は天才的な頭をしていたらしい、英語などはペラペラらしい、世の中に嫌気が差したのか、頭がおかしくなったのかして乞食になったのだということになっており、みんな若干尊敬のまなざしをもって彼を見たものだった。一度町のなかで彼がゴミ箱をあさっているのを見たことがある。さっきも言ったように、今と違って昔はものを大事にしたので食べものの残りなどあまり入っていないのだが、納豆のつとを発見し、つとわらにくっついている納豆粒をとって食べていた。今のように衣類などをゴミに捨てるものもいない。これでは生きていけない、やはり物乞いするしかないことになる。
 もう一人、何が入っているのか大きな南京袋を肩に背負い、頑丈なでかい身体をして怖い顔をした乞食がいた。彼に対しては前の二人のようなそれなりの親しみをみんな持っていなかった。子どもたちは、怖いから近づくな、あの南京袋に子どもを入れてさらっていくのだそうだ、あれは人さらいだなどと噂していた。その名前(もちろん通称)が思い出せない。一番印象に残っているはずなのに、いくら思い出そうと思っても出てこない。あの恐怖の体験が私の記憶からぬぐいさらせたのではないだろうか。

 子どもが幼い弟妹のめんどうを見る、これが当時は当たり前で、私も小さい頃から子守りをしたという話を前にしたが(註2)、ほいどのことですさまじく怖い思いをしたのはそのときのことだった。
 すぐ下の妹がまだ一人でおしっこできないときだから、その1歳年上の私が満3歳になったばかりのころではなかったかと思う、いつも家にいる祖母がなぜかおらず、私が妹のめんどうを見ながら家の裏の小屋のところで遊んでいた。そこに父が畑から戻ってきた。家の近くにある肥溜めから下肥を汲んで畑に運んで播くためである。父とおしゃべりしながら汲み取りの作業を見ていた。父はいっぱいになった二つの桶を天秤棒で前後に担ぎ、私に気を付けて遊ぶようにと言い残して、畑の方に歩き出した。
 少し経ったら、妹が「おしっこ」と言い出した。私はまだズロースの脱がせ方がわからない。父はまだ見えるところの小道を歩いている。そこで父の後ろ姿に声をかけた。「おしっこだって」、ところが聞こえないのか、振り向きもせず、揺れる肥桶を担ぎながら歩いている。何回も大きな声で呼ぶ、しかし気が付かない、妹は泣き出すし、おしっこさせることはできないし、どうしていいかわからない。父の姿がどんどん遠くなる。前屈みになって腹の底から思い切って声を出すが、まだ気が付かない。とうとう泣き出してしまった。泣きながら叫んだが、父の姿が遠くの家の陰に入って見えなくなってしまった。しかたがないので父を追いかけようと泣きながら道路に出た。
 そこに何と、あの南京袋を背負った乞食がいるではないか。そして言う、「泣く子はこの袋に入れるぞ」、そして私を追いかけてくる。やはりあの話は本当だったんだ、人さらいだったんだ、もう妹のことどころではない、何で自分が泣いているのかも忘れてしまった、頭が真っ白になり、悲鳴をあげながら私は逃げる。彼は私を追い回す、また逃げる。
 ちょうどそこを近所のおばさんが通りかかった。私の悲鳴を聞いてびっくりして走ってきて、乞食をどなり付け、私をだっこして家に連れて行ってくれた。ともかく助かった。
 記憶はそこまでである。妹のおしっこはどうなったのか、祖母が家にいたのかどうか、どう私が状況を説明したのか、まったく覚えていない。ともかくその後に寝たことだけは覚えている。泣き疲れてきっと眠ったのだろう。それと、夕方帰ってきたM叔父(まだ小学校高学年だった)から泣いたことを冷やかされたことも覚えている。
 このことをはっきりと詳しく思い出せるようになったのはかなり後になってからである。何年間も忘れていた。もちろんふっとあの時のいくつかのシーンを思い出すことはあったが、何で泣いたのかも含めて詳細は忘れていた。あの恐怖感が記憶を閉じこめたのかもしれない。

 こうした乞食は戦時中まったくいなくなった。日本人全部が戦争遂行に立ち向かっているとき仕事もしない乞食とは何事か、非国民だと警察が厳しく取り締まって、どこにかわからないが収容したかららしい。すんぱっつぁんなどもどこかにいなくなってしまった。
 しかし戦後、戦争によって家と仕事とを失った人が大量に生まれ、彼らの多くはまさに乞食並みになった。ただし、ものもらいをしようにも、その数はきわめて大量、しかも当時の食糧難、生活難でものをあげられる人などいないので、乞食にもなれなかった。そして彼らは浮浪者と呼ばれた。
 さらには親もなく、上野の地下道などで寝泊まりする戦災孤児、いわゆる浮浪児もたくさんいた。彼らは親といっしょにものもらいをして歩くことすらできなかった。この子どもたちはNHKラジオドラマの『鐘の鳴る丘』に出てくるような施設に収容され、そこで育てられて社会に巣立っていった。
 また浮浪者は、高度経済成長のもとでの就業機会の拡大の中で、最底辺の日雇い労働者となり、山谷などのドヤ街に寝泊まりして働くようになってきた。そしてそうした立場から抜け出す者も出てきた。こうしたなかでいわゆる浮浪者は少なくなってきた。浮浪者という名前も聞かなくなってきた。これは「浮浪者」が差別用語とされてマスコミが使わなくなったためでもあるらしいが、やはり目立たなくなったことが主な理由らしい。
 さらに失業で仕事を失い、あるいは土地を失って新たに浮浪者や乞食になる人も少なくなった。いろいろ波はあっても経済成長が続き、また生活保護などの社会保障制度も定着してきたからである。

 ところが、90年代、バブル崩壊が騒がれるようになったころから、ホームレスという新しい言葉がマスコミを賑わすようになってきた。ホームレス、文字通りに理解すれば、住む家がない状態にある人たちのことだ。しかし家はある。借りようと思えば借りられる。建てようと思えば建てられる。そこに敗戦直後との違いがある。にもかかわらず、なぜホームレスなのか。金がないからだ。家を建てるのはおろか借りる金さえない。なぜ金がないか。さまざまな理由があるが、その大半は失業だという。とくに中高年が深刻だ。中高年で失業したら再就職先などなかなか見つからない。家賃が払えない、それでホームレスということになる。
 それでは彼らはどういう暮らしをしているのか。廃品回収で金を稼いでいるものもいるという。また、食堂やコンビニが賞味期限切れで廃棄する弁当やおかずなどを拾って食べているものも多いと聞く。かつてと違って古い衣服は容易に拾える。また、古い段ボールやビニール、新聞紙等を拾ってきてねぐらもつくれる。それで定着できる。物乞いはしていない。かつてと違って物乞いをしなくとも生活していけるからである。物乞い、人間としての誇りを捨てさせるこのような行為をしなくともすむ、これはいいことだ。などと言っているわけにはいかない。人間としての尊厳は傷つけられ、健康で文化的な生活をいとなむ権利が侵害されていることには変わりないからだ。

 戦後四半世紀を過ぎたころ、高度経済成長の影はいろいろ現れてはいたが、ともかく乞食を見かけなくなった。失業と貧困の解決のために、十分不十分はあれ、国家が一定の役割を果たし、さまざまな規制をしてきたからだ。いい世の中になってきたと思ったものだった。
 ところが、それからさらに四半世紀過ぎたころから、ホームレスなる現代の乞食がどんどん増えてきた。21世紀に入って、不正規労働者の増加の中でさらにこの問題が深刻化してきている。ところが政府はまともな対策をとろうとはしなかった。資本に対する自由放任主義、国家による経済活動への干渉・介入を排除して資本が自由に利潤追求ができるようにするといういわゆる新自由主義なる思想と政策がアメリカから直輸入され、政財界はそれにまともに従い、マスコミは「勝ち組・負け組」などと言って、ホームレスなど貧困問題は自己責任だ、国際競争のもとではやむを得ないなどと言って、そうした思想を世の中に喧伝し、政治は問題の解決を実質的に放置してきたのである。
 乞食などいない社会、失業者のいない社会、貧富の格差のない社会を目指してわが国は戦後努力してきたはずなのだが、こうしてまたもとに戻ろうとしている。何という世の中になってしまったのだろう。

(註)
 1.10年12月8日掲載・本稿第一部「☆雨たもれ―ヒデリノトキ―」(2段落)、
   11年3月8日掲載・本稿第一部「☆ヒデリノナツの緩和」(7段落)参照
 2.10年12月14日掲載・本稿第一部「☆子守り―幼い妹の死―」(1~2段落)参照



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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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