Entries

むら社会(5)

   

          ☆抵抗組織としてのむら

 東北には国有林が多い。北三県がとくにそうである。なぜかと聞かれると私はいつも次のように答える。東北は北に行けば行くほど人口に比して山林の面積が広くなり、しかも林産物の商品化があまり進んでいなかったために、明治以前は林野に関する所有権の意識が相対的に弱かったからだと。

 明治の初めに政府の役人がきて、あの山林は誰の所有する土地かとむらびとに聞く。入会山であればそれは誰の土地でもない。だからみんなはそう答える。もちろんみんなで利用している土地ではある。だからみんなのものと答える場合もある。そうすると今まで納めたことのない税金がみんなにかかる。しかも血税ということで血で税金を納めるらしい。もちろんそれはまちがいで貨幣で払うのだということがわかってくるが、それにしても金はない。自給自足に近い段階にあり、貨幣経済が浸透していなかったからである。そこでやはり誰のものでもないと答える。そしてたしかに誰のものでもなかった。日常利用する裏山などの林野を除いて、林野は利用する物ではあっても所有する物ではなかったのである。ところが誰の所有でもないとするとそれは国有地になってしまう。明治政府は無主の地(所有者のいない土地)は国の土地としたからである。なお、藩有地は入会地として利用されているかどうかにかかわらず無条件で国のものとした。
 こうして明治政府は山林・原野の所有権を官と民に区分(「官民有区分」)し、これによって従来の入会地の多くが御料林(皇室の財産とされた優良な山林)や官有地(国有地)に編入されることになった。たとえば下北半島などでは民有林として認められたのは一%にも満たず、他は官有地とされてしまった。
 しかし農民は今まで通り入会地を利用し、木を伐り、草を刈り、あるいは焼き畑として利用した。ところがこれは西欧から持ってきた法律からすれば窃盗罪となる。お国の所有する土地に勝手に入り、国有財産である木や草を黙って採っていくのだから、まさに泥棒である。それで巡査がきて捕まえる。ほとんど官有地になった下北地方の農民の「盗伐」件数は全国一、二位にもなったと言われている。捕まった農家はたまったものではない。昔からやってきたことをやっただけだし、林野なしでは生きていけないからである。
 こうした問題は全国各地で起きていた。そして昔から農民が慣習的に持っていた用役権の政府による否定、官憲の圧力による土地利用権の否定に対する抵抗運動が全国各地で展開されるようになった。それに対応せざるを得なくなった政府は明治中期に官民有の再区分をすることになり、農民の要求はかなり通った。そして入会権者が特別地方公共団体としての財産区をつくって入会地を保有できるようになり、国有地や市町村有地として残った土地でも従来の慣行で入会地として利用できるようになった。
 こうしてほぼ問題が解決したのであるが、問題として残ったのはそもそもの官民有区分のときに入会地の所有権を個人名義にしてしまった場合、再区分の前に国から払い下げを受けて私有地化したものがいた場合であった。
 たとえば入会地を地域の代表者の所有地として登記したところがあった。また地域の有力者や所有のもつ意味をよく知っているよそものが、税金は払ってやる、今まで通り利用してもかまわないと甘言を弄して自分名義にしたところもあった。それどころか入会権者がまったく知らないうちに他の地域の有力者が国から払い下げを受けて自分の所有地としたところもあった。こうしていったん個人所有になると、欧米の模倣をしてつくった日本の法律のもとでは近代的な所有権と同じとみなされ、所有者はきわめて強くなる。そして利用を拒否する。一方、利用権ましてや欧米の法律にはない入会権はきわめて弱い。それで入会権者は入会地を利用できなくなり、生きていけなくなる。当然それに対する抵抗の運動が起きることになる。
 その典型例がさきにも触れた岩手県一戸町の小繋山をめぐって起きた「小繋(こつなぎ)事件」である。所有権を盾にした入会権の否定は山村住民の生存を不可能にするものであることから、大山林地主、警察、裁判所に対するむらびとの親子三代にわたる血みどろの闘いが展開されたのである。その解決は一九六〇年代になってからであった。これについては戒能通孝『小繋事件』(岩波新書)の名著がある。
 東北本線(現・岩手銀河鉄道)に乗って盛岡から北に行くと、小繋という駅がある。ここを通るたびにこの暗い事件のことを思い出す。
 最近、『待合室』という映画を見た。駅前の商店と待合室を場にした心温まる人と人との交流が描かれている。その撮影場所がこの小繋駅であった。この映画を見た人たちは、これからの若い人たちは、小繋という名前を聞くときっと心安らぐ場所として思い浮かべることであろう。
 これでよかったと思う。しかし、小繋で展開された生存権をまもる闘いの意義だけは風化させてはならないであろう。

 むらはむらびとの生産と生活をまもる組織だった。したがって、外部からこの決まり、慣行を破ろうとするものにはむらをあげて抵抗する。破られたら、むらびとの生産と生活を維持することができないからである。むらをまもるためには権力に対してでも闘う抵抗組織ともなった。中ではいかにごたごた対立していても、外に対しては一致団結したのである。

 庄内平野のある集落では、土地の所有権は他の集落の農家や酒田の商人などに譲ってもいいが、土地の利用権は集落内の農家に残すことを原則とした。地主もそれを認めざるを得なかった。他の集落の農家は水利用の規制はわからないし、水路掃除のための共同出役に出てくるのも距離的に難しいので、むらの水利用はうまくいかず、生産もうまくいかなくなるからである。
 これと同じことを、一九七〇年代に北海道深川市の稲作地帯に調査に入ったとき聞いた。水田を売りたいときにどうするかと聞いたら、まずすぐ近くの四戸で構成される班の農家に買わないかと声をかけるという。そのなかで買う人がいなければ、四つの班で構成される組の農家十六戸に声をかける。他の地区の農家がいかに高い値段で買いたいと言ってきても、この十六戸のなかに買いたいものがいればその農家に売る。もしもそのなかに買い手がいなければ初めて農業委員会に話をし、他の地区の買い手を捜してもらう。こういうのである。
 そのとき感じた。むらは北海道にもあると。北海道にはむらはないと言われているがそうではないのではなかろうか。水の共同利用や近隣の助け合いのなかで自然発生的にむら社会が形成され、よその地域の人に土地を売ったらみんなが水利用などで困るだろうということで、まずむらのなかの農家に売る。これこそむら社会の原型なのである。

 しかし、何百年もたつとこうした原則で構成されたむら社会は変わってくる。実際に、農家間に経営面積の差が出てきたり、商業資本・高利貸資本の浸透による貧富の差の拡大や地主小作的分解によって変ってきた。
 たとえば、庄内平野のある集落では、土地所有の農家間格差ができるなかで、むらの寄り合いでの並ぶ順序が所有地の大小によって決まるようになってきた。完全な平等でなくなってくるのである。
 こうしたなかで自分が落ち込まないようにしたい、少なくとも隣近所よりは落ち込みたくないと考えるようになってくる。それで隣近所の関係も変わってくる。そして「隣に蔵が建てば腹が立つ」ようになり、「隣の貧乏、鴨の味」と感じるようになってくる。だから土地などは隣の農家には絶対に売らない。売るというそぶりも見せずに隠して、他地域の農家に売る。近隣の農家は他地域の農家が耕作しているのを見て初めて売買があったことに気が付く。つまり本来のむらの良さがなくなり、足引っ張り社会などのむらの悪い側面が表に出てくるようになるのである。
 閉鎖社会だからなおのことこうした側面は強くなる。このむらの閉鎖性は、地理的な条件、当時の交通条件からももたらされた。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR