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「終わりに」そして「始めに」



                   「終わりに」そして「始めに」   

                  ☆みんなでよくなろうはいずこへ

 戦前、世の中みんな貧しかった、乏しかった、不便だった。また、すさまじい貧富の格差のもとで多くの人々が人間としての尊厳まで傷つけられ、さらには戦争で殺し殺され、そうした世の中を正そうとすると抑圧された。
 農民は米をつくっても米を食えなかった。それでもものを言わなかった。まさにもの言わぬ農民だった。

 戦後も貧しかった、乏しかった、不便だった。しかしデモがあった、署名活動があった、ストがあった。
 農村にも食えない人があふれた。しかし農家は、そして地域は、家族のまたむらの古い関係をなくし、新たな絆をつくりながら新しい家、新しい村、新しい農業をつくりだそうと努力した。そして農民もものを言い始めた。
 1960年の三井三池の闘争で労働者はこぶしを突き上げて叫んだ。「団結 がんばろう」と。その後、それは労働組合ばかりでなく、農家の米価闘争をはじめあらゆるところで唱和されるようになった。そして権力に金力にその意志を表示した。
 こうして、みんな手をつないで世の中をよくしよう、上を向いて歩こうとした。
 やがて、ものは豊かに出回るようになり、便利になり、多くの人が中流意識をもつほどに貧富の格差は縮小し、戦争で殺したり殺されたりすることもなくなった。農業は機械化、化学化が進み、かつての肉体を酷使する苦役的な過重労働から農民は解放された。
 もちろん、その陰に過疎過密が進み、山々は荒れ、河川は海は空は汚れ、公害で人間が殺されるなど問題はさまざまあったけれども。

 そして世紀末を、新しい世紀を迎えた。そのころには労働者のデモなど見られなくなっていた、たとえあってもマスコミは取り上げなくなった、署名活動もなくなった、ストもなくなった。
 ふたたび農民はものを言わなくなった。家族の、むらの結びつきも弱くなってしまった。農民それ自体が少なくなった。それどころかむらがなくなった。

 手をつないでみんなでよくなろうなどという考えはまちがっている、自由に競争するのがいいことなのだ、こんなことが前世紀末から言われるようになった。そしてさまざまな規制が緩和された。やがて勝ち組負け組などという言葉が使われるようになってきた。そしてそのいずれになろうともそれは自己責任だなどと言われるようになってきた。家族の、地域の、仲間の温かい結びつきは弱まってきた。団結とか連帯とかいう言葉は聞かれなくなってしまった。他人を思いやる、昔からわが国で言われてきた言葉はどこかに行ってしまった。絆は断たれた。
 そしてふたたび貧富の格差が激しくなってきた。職を失い、食を失い、住を失う人も出てきた。
 農民は米をつくってもメシが食えなくなってきた。あれほど大事にしてきた農林地は荒れ果てるようになってきた。

 こんな社会になるなどとは考えもしなかった。もっともっといい社会にしようとみんな考えてきた。私は私なりで、とくに研究教育を通じて、「貧しさからの解放」を、農業・農村の発展を目指して努力してきた。
 しかし結果は必ずしもそうはならなかった。現状を見ると、自分が農家のために農業の発展のためにどれだけのことをしたのか、学問の発展にどれだけ寄与できたのか、本当に疑問になる。もちろん私ひとりがんばったってどうしようもないのだが。

 70歳になった2006年からこの随想を書き始めて約5年、私ももう75歳を過ぎた。そして私の生まれたころの昭和初期から始まって今のことを書いているのだから4分の3世紀にわたることを書いたことになる。それで、ここで本稿を終わらせることになるのだが、この最後を前回掲載記事の「悲しい、辛い」の言葉で終わらさなければならない、これもまた悲しい、辛い。

 しかし、そんな言葉でこの文を終わらしたくない。そして終わらさなくともよさそうだ。


            ☆どっこい「農家」は生きている

 最近、網走にいる女性研究者のWMさんから次のようなメールが届いた。
「常呂(ところ)で開かれたある会合で畑作農家の若奥さんに名刺を渡したとき、彼女の手の爪にネイルアートが施されているのに気がつきました。二人の子育てをしている自分の爪がボロボロでいかにも主婦の手だったのとは大きな違いです。さらに、どこで買ったのか聞いてみたいような洒落たサンダルをはいた足の爪にもペディキュアが施されていました。どうも親と同居している人が綺麗な爪をしている傾向にあるようです。食事の用意をするのは年寄りで、農作業はゴム手袋をはめてしているから、そうなるのでしょう。『二世帯同居でネイルアートをしよう』というキャッチコピーで嫁さんを募集したらどうでしょうか」。
 こういうのだが、思わず私の頬がほころんでしまった。何と農村は、農家は変わったことだろう。ネイルアートがいいか悪いか、好きか嫌いかはここでは問わない(私はあまり好きではないが)。かつて農家の嫁が化粧するなどということはできなかったのに今はできるようになったこと、隣近所や舅姑から悪口を言われることもなく堂々とおしゃれができる社会に家庭になったこと、都市部と農家の女性の間にかつてのような差異がなくなったこと、これがうれしい。このように明るく変えてきた力はまだ農村に農家に残っている。日本農業はまだまだ大丈夫ではないだろうか。

 2010年5月、宮崎県は口蹄疫問題で揺れに揺れた。そのことを報じた新聞のなかに、子牛を処分せざるを得なくなった飼育者のなかに「子牛を殺すならおれを殺してくれ」と叫んだ人がいたという記事があった。テレビは、県外の小学生が募金を添えて送った激励の手紙を涙を流しながら読んでいる人の顔を撮した。また、殺処分のためにトラックに乗せられようとする子牛の首に抱きついて泣いている夫婦の姿がテレビに映った。これを見たとき、彼らはもうけの道具として家畜を扱っているのではない、生き物、命あるものとして愛情をもって育てているのだと感じた。
 どっこい「農家」は生きていた。農家の魂は残っていた。かつては考えられなかったほど多頭飼育してはいるが、彼らはマスコミのよく言う「畜産『業者』」ではなく、「畜産『農家』」だったのだ。
 いまだに連綿と続いている農民の魂、これが今の厳しい状況を切り開いていく力になるのではなかろうか。

 この年の10月、米価低落に抗議し、緊急措置を求める農協主催の生産者の大会が山形、秋田でそれぞれ一千名が参加して開かれたと日本農業新聞が報じていた。かつての米価闘争とまではいかないが、ともかく人間として生きていく権利をまもるために闘おうとする意欲、農政を変えていく力がまだ農民のなかにあることをこれは示すものといえよう。ここにも何か展望がありそうな気がする。
 しかし、かつてストライキやデモで闘った労働組合、人口の圧倒的多数をしめる都市勤労者は、派遣問題や首切り・賃下げ問題でまともに立ち上がっていない。自分の身をまもるためにすら立ち上がれないものが農業のかかえている問題を自分の問題としてとらえて闘うわけもない。
 また、食料のもつ意味や農林業の多面的機能のもつ経済的社会的意義を忘れ、「国民総生産の1.5㌫しかしめない、高齢者しか従事していない第一次産業をまもるために経済連携協定を結ばず、98.5㌫を犠牲にするのはおかしい」などという大臣までいる始末、政財界あげて自由貿易を進めようとしており、これでは日本農業は壊滅でしかない。
 しかし、同じ10年10月に内閣府が公表した世論調査では食糧自給率を高めるべきだと感じている人が9割もいたという。これだけ自由貿易不可欠論が言われているのに、国民そして消費者がこうした意識をもっている。また、TPP不可欠論がとくに大手メディアを通じて流されているのに、強い反対の動きも起こりつつある。ここに救いがある。ここに日本農業の再建と発展の可能性を見ることができるのではなかろうか。

 まだ一縷の希望がある。そうすると私が本稿を書き続ける意味もあるのではなかろうか。そして東北農業のいや日本農業の応援をしていく必要があるのではなかろうか。しかも、書き残したこと、最近思い出したことが山ほどある。さらに、幸か不幸かまだぼけないでいる(と思っている)。
 そこでここでいったん終わりとし、つまりこの第四部を閉じることにし、新たに「第五部・補遺」を起こして、身体の続くかぎり、書くことのあるかぎり、書き続けることにする。

 なお、これから書くことには、2011年2月以降つまり私の年齢75歳を過ぎてからのことが含まれることになる。だから本題の「七十五年」を正確に言えば超すことになるが、私の生まれる前のことも書いたりしてそれほど年次をきっちり書いたわけでもなかったので、大体四分の三世紀のことということで見ていただきたい。
 また、東北農業とは若干ずれていること、一般的なことや身の回りのこと、年寄りの繰り言としか思えないことなども書きたいと考えている。
 それなら題名を変えて別にブログを立ち上げればいいのかもしれない。しかし、何しろ自分ではできないし、前に立ち上げてくれたNK君に改めてやってもらうのは何とも申し訳がない。また、基本はあくまでこれまで書いたことの補足というつもりでもいる。
 そんなことでこれまでの『随想・東北農業七十五年』という題名で続けることにしたい。

 それから、これからは思いついた順に書いていくので、順序は時間的内容的にあちこちになってしまうかもしれない。
 また、これまでもそうだったが、記憶違いや誤りもあるかもしれないし、論旨の都合上あるいは忘れてしまって前に述べたことの一部を重複して述べる場合もあるかもしれない。
 さらに、途中でぽっくり逝って書くのを突然やめることになるかもしれない(「ぽっくり」逝ければそれにこしたことはないのだが)。
 そのときにはお許し願いたい。                     (2011年2月記)

            ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 ここまで草稿を書き上げ、第五部の草稿の執筆に取りかかり始めたちょうどそのころの2011年3月11日、東北地方は大地震に襲われた。このとき感じたことについては同年3月24日掲載のブログで簡単に触れている(註1)が、その記事と震災後一年経った日の記事(註2)以外震災については一切触れず、それ以前に草稿として書いたものを基礎にこれまで記述してきた。
 しかし、やはり震災に関連して考えたことについては記述しておきたい。そこでまず第五部の冒頭で触れさせてもらうことにした。その後の記述でも、当然のことながら震災であるいは震災後考えたこと、考えるようになったことも含まれることになる。ただし、震災に関する私の個人的な体験については、論旨の都合上どうしても必要となったこと以外、語ることを差し控えることにする(註3)。

 なお、これからは、月曜と木曜の週二回の掲載とさせていただく。

(註)
 1.11年3月24日掲載・本稿第一部「★再開に当たって」参照、
   11年4月8日掲載・本稿第一部「★追記」でも若干触れている。
 2.12年3月11日掲載・本稿第三部「★大震災から一年を迎えて」参照。
 3.この理由については前掲「★再開に当たって」に書いてあるので省略する。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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