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日本人の行列

  



                 東日本大震災と日本の未来(3)

                   ☆日本人の行列

 震災から一週間くらいしてのことである。ちょっと用事があって、仙台駅まで行ってみた。間引き運転でめったに来ないバスにようやく乗り、窓から外を眺めて見ると、街は異様な雰囲気だった。駅ビルをはじめあちこちのビルが網や幕でおおわれている。走っている車はぽつんぽつん、本当に少なく、あの広い道路はがらんとしている。人もあまり歩いていない。いつも混雑している駅前にもほとんど人がいない。歩いている人も、リュックを背負い、手に大きな袋をぶらさげ、何とも異様な姿である。開き始めた店を探し歩いているのだろう。そして品物があったらリュックや袋に買い込んでいくつもりなのだろう。これが仙台の街なのだろうか。建物(ただしそれも修理の必要そうな)はあるが人や車がない、ゴーストタウンの一歩手前とでもいえそうで、何か不気味だった。
 それでもそのころからようやくぽつりぽつりと店が開き始めた。食べ物を始め必需品がなくなっていた人たちは一斉に店に駆け込んだ。そして長い長い行列をつくった。スーパーに並ぶのは当然としても、隣りの鯛焼き屋にもずらっと並んでいる。甘いものが欲しくなったのだろうか、それとも何でもいいから食べ物を手に入れたいということなのだろうか。スーパーは混乱しないように何人かずつ区切って中に入れる。時間はすごくかかる。寒い。本当に寒さが肌身に沁みる。それでもみんなおとなしく待った。最初のころは半日も待たされたらしい。しかも品数は制限される。しかしみんな何も言わなかった。
 私たち夫婦が並んだのはもう少し落ち着いてからだったが、それでも生協ストアの前で2時間半並んだ。次の時は1時間、そして30分と短くなり、やがて行列はなくなり、品数制限もなくなった(といっても棚に並んでいる品物はそもそも少なかったが)。
 この行列を見て世界中の人が驚いたという。自分の国なら大混乱になるだろうにと。
 友人のC国の研究者が言った、C国だったらわれ先にと店内に入り込もうとし、店はめちゃくちゃになるだろうと。C国ではバスや列車に乗るときわれ先に乗ろうとするので降りる人とぶつかって大混乱になる、そもそも行列の作り方を知らないのだともいう。それにひきかえ日本人はたいしたものだと。
 これは教育から、また日本の風土がつくりあげたむら社会の伝統からくるのではなかろうか。

 駅のアナウンスなどない時代、駅のほとんどが有人駅だった時代、どこの駅でもホームに列車が着くと駅員さんが列車の乗客に向かって窓越しに駅の名前を大きな声で教えて歩いたものだった。
 その後、行列をつくって待っている客、つまりこれから乗ろうとする客に向かって言う。
 「降りる方がすんでからお乗りください」
 バスの車掌さんも同じだ。
 その昔バスには必ず車掌さんが乗っていた。乗車券の販売と回収、案内、車の誘導などで大活躍だった。昔は出入り口は中央に一ヶ所あるだけ、車掌さんは乗車券の販売以外はそこに立っており、バス停に着くとドアを手で開ける。そして下に降り、待っている客に言う。
 「降りる方がすんでからお乗りください」
 客は行列のまま黙って待つ。車掌さんは入り口のわきで降りる客から乗車券を回収する。全部降りると乗客がステップを上がってバスの中に入る。みんな入り終わると車掌さんも中に入ってドアを閉め、運転手さんに言う。
 「発車オーライ」
 その声を聞いたらバスは出発する。ワンマンバスが出現する前(1970年以前)はこれが普通だった(註1)。

 ところで、次の山形語(正確には私の生まれ育った旧山形市内の言語つまり旧山形市語)はわかるだろうか(註2)。
 「あそごの ずぬすのうづ、ずすんで やらっだんだど」
 これを共通語に翻訳するとこうなる。
 「あそこの 地主(じぬし)の家(うち)、地震(じしん)で やられたんだって」
 そうなのである。山形語の発音では共通語の「じ(ぢ)」が「ず(づ)」に、「し」が「す」、「ち」が「つ」になる。
 だから山形の人は、山形語の「ず(づ)」の発音は「じ(ぢ)」に、「す」は「し」に、「つ」を「ち」に直せば、共通語になるはずだと考える。
 それから、山形内陸では「降りる」「落ちる」はともに「おづる」という。
 そこで山形の子どもたちの間に次のような笑い話がささやかれたものだった。
 「降りる方が すんでから お乗りください」は山形語の発音で言うと次のようになる。
 「おづるかだが すんでがら お乗りください」
 しかしそれを共通語できちんと言わなければならない。とくにずうずう弁の「づ」と「す」は気をつけて「ち」と「し」に直さなければならない。そこで山形の駅員さんやバスの車掌さんは列車やバスが駅やバス停に着くと次のように言う。
 「おちる方が しんでから お乗りください」
 山形は大変なところだ、落ちる人が死なないと乗れないのである。
 こんな笑い話ができるくらい「降りる方がすんでからお乗りください」は普及し、日本人の頭に叩き込まれた。そしてその方が絶対に乗降が早くすむ。そのさいには降りる客、乗客ともに行列をつくって順次乗降した方がいい。
 こうしてマナーとして定着することになったのではなかろうか。

 なお、この行列をつくるのが普通になったのは戦時中の配給制度からではなかったろうか。何月何日何時に配給があると官制町内会から回覧板などで連絡がくる、品物の数や量が制限されている場合もあるので早く行かないとなくなる危険性がある、それでみんな一斉に急いで品物を受け取りにあるいは買いに行ったものだが、そのときには行列をつくろう、行列を乱さないようにしようという新聞やラジオでの宣伝、また官制町内会や隣組からの通達があったような記憶があるからだ。こうして早く来るという「努力をしたものが報われる」というルールを定着させてきたこともあるのではなかろうか。
 また列をつくるのは軍隊式の整列や行進を取り入れた学校教育によって慣れさせられていた(註3)こともあるかもしれない。
 その昔親たちに叩き込まれたこうした教育が子どもに引き継がれ、行列に違和感を感じさせなくさせていたとも考えられる。

 終戦直後の大混乱の一時期はそんなマナーが崩れた。しかしやがて復活した。そして今や行列をつくるのが当たり前になっている。
 もちろん今でも行列破りをするものはいる。しかし数は本当に少ない。特売場などでは大混乱が起きたりする。だからといって建物が壊されたとか、品物が盗まれたとかいう話はあまり聞かない。
 それは、みんなで決めた不文律、暗黙のルールはまもる、お互いに譲り合い助け合うのが当たり前という日本のむら社会の伝統(註4)が、われわれの身体に沁みついているからではなかろうか。前にも述べたように、日本の風土のもとではそうしないと生きていけなかったのである。
 こうしたなかで培われた日本人の特性と教育、この二つがあいまって「行列」ができ、「絆」ができたのではなかろうか。

 指定券を持っているのに、席が決まっているのに行列をつくる、日本人は不思議な国民だと言う人もいる。しかし、席をとるために並んでいるわけではない。行列をつくった方が乗り降りは速くすむし、列車を遅らせないですむ。自己規制をした方が自分のためにもなり、他人のためにもなる。まさに効率的である。それを日本人は身をもって知っているからそうするのである。 

 行列を支えているもの、それは自主規制と相互規制である。もちろんそれだけで足りない場合がある。たとえばイベントだとか祭りなどのように大量に人が出るときには警察や警備会社が規制しなければならない場合、つまり公的規制で整然と行列ができるようにする場合がある。
 いうまでもなく、行列は物事を効率よく進める。つまり規制が効率性を高める場合があるのである。
 ところが近年、規制やルールはない方が効率がいい、自由競争こそいいものであるなどと、資本主義初期の自由主義段階に言われたことを、さも新しいことのように、政財界・マスコミが声高に騒ぎたててきた。もう一方で、愛国心とか道徳教育とか言って自由を抑えつけ、規制しようとしてきた。そして「絆」をこわしてきた。
 しかし、今回の震災はそうしたことがいかに誤りかを教えるものだった。今こそ近年の新自由主義なるものを改め、日本人の培ってきた自主規制、相互規制、相互扶助、さらに戦後の民主化の中でつくりあげてきた公的規制・援助の意義を再認識する必要があるのではなかろうか。

(註)
1.当時の車掌さんの役割については、下記計算記事で述べているので参照されたい。
  12年5月16日掲載・本稿第四部「☆高速交通体系と地域格差」(7段落)
2.山形語にはその地理的条件からして庄内語、内陸語に分かれ、さらに内陸語には置賜・村山・最上語がある。なお村山語は地域的にもっと区分することができる。
  11年1月12日掲載・本稿第一部「むら社会(6)」(1段落)参照
3.11年8月27日掲載・本稿第四部「☆整列、行進、神社参拝」参照
4.11年1月5、6、7、10、11日掲載・本稿第一部「むら社会(1)~(5)」参照


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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