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『雨ニモマケズ』から見た気象


 
           東北・日本の風土と農林業(1)

           ☆『雨ニモマケズ』から見た気象

 東北の農業を語るさいには宮沢賢治が欠かせない、と私は思う。それで何回か彼について触れてきたが、彼が1931(昭和6)年死の直前に手帳に書き残した『雨ニモマケズ』は、非常に簡潔に的確に東北の風土(いや日本のと言っていいかもしれない)のうちの気象に関わる面での特徴を表現している。

 まず「雨ニモマケズ」と1行おいての「雪ニモ……マケヌ」は、いかにわが国は雨と雪が多いか、つまりいかに水が豊かであるかを表現している。たしかにそうである、日本は乾燥地帯、砂漠地帯ではなくて降水量の多い湿潤地帯に位置しており、水には恵まれている。
 次に、「風ニモマケズ」だが、たしかに風も多い。夏は太平洋から来る季節風(東風)、冬は大陸から来る季節風(西風)、それに台風等々の風がある。前に言ったことと合わせると、わが国は湿潤ではあるがいつもじめじめしているわけではない、適度に湿潤であるということになる。
 「雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ」は、雪つまり冬の寒さも、夏の暑さもあること、冬の寒さのみある寒帯、夏の暑さだけがある熱帯とは違うこと、そして四季の変化があり、気温の格差が大きいことを示している。
 このように、『雨ニモマケズ』は日本が高温多湿であり、四季の変化(気温格差)がきわめて明確であるという日本の気象、アジアモンスーン地帯に位置していることからくるこの気象の特徴を非常に的確に表現していると言えよう。

 こうした気象条件なのでわが国には多様な植物が生育する。寒帯に適する植物、温帯や亜熱帯に適する植物がともに生え、広葉樹、針葉樹などの多様な木々があり、草も多種多様である。とくに豊富な水と夏の暑さは草木を繁茂させる。日本は世界でもまれな豊かな緑の国なのである。
 ということは、わが国が多様な農業生産の可能な国であることも示している。亜熱帯作物と温帯・寒帯作物、ともに栽培できるのである。ここに日本の特徴がある。
 カロリー源として重要な主食についていえば、米と麦の両方つくれる。日本の夏はきわめて暑くて亜熱帯作物の栽培が可能であり、さらに水に恵まれているために、まず米の生産ができる。また、冬が非常に寒くて温帯・寒帯作物の栽培が可能なので、麦も生産できる。
 このように米と麦という世界の二大穀物をともにつくれる上に、ヒエ、アワ、キビ、トウモロコシ等の雑穀、大豆等の豆類、ジャガイモ、サツマイモ、サトイモ、ヤマイモを始めとする芋類等々、世界の主穀物のほとんどが生産できるのである。また、野菜、果実についても同様で多様な種類の生産が可能である。
 ここに日本の特徴があるのだが、さらに、同じ耕地で温帯・寒帯作物の両方を栽培することができるということにも特徴がある。夏作の米もしくは雑穀、豆類、野菜類を栽培し、その後その同じ耕地に冬作の麦類もしくは野菜類を栽培するという一年二毛作さらには三毛作もできるのである(その四季があるために二期作が難しいという弱点があるが)。
 しかも土地生産力が高い。それぞれの作物について単位土地面積当たり収量が高く、その上に今述べたように同じ土地で年2~3回も違った作物の生産ができるからである。これは水と太陽エネルギーに恵まれているからであり、水の少ない乾燥地帯、太陽エネルギーに恵まれていない寒帯とは違う有利性をもっているのである。

 しかしいいことばかりではない。『雨ニモマケズ』の最初に出てくる雨、風、雪、夏ノ暑サは悪い面ももっている。
 「雨」についていえば、これは必要不可欠なものだが、豪雨や洪水で人間や農作物に害を与えることがある。また、「風」は台風や季節風で、「雪」は寒冷、豪雪で、さらに「夏ノ暑サ」は猛暑や干ばつで被害を与える場合もある。だから、雨、風、雪、暑サの後ろに必ず「マケズ」をつけているのである。
 とくにわが国でも北に位置する東北の場合、賢治が後に言う「サムサノナツ」が大きな問題であり、その逆の「ヒデリノトキ」もあり、こうした気象変動は農業に大きな影響を与える。
 これはこういうことである。気象は植物にとって不可欠の光、熱、水を供給する。ところがその気象は一定不変ではなく、年により大きく変動する。つまり光、熱、水の供給量が変動する。そのために農作物の生産量は年によって変動することになる。この気象変動による収量の極端な減少が作物災害であり、その直接的な原因により冷害、旱害、風害、水害、雪害などと呼ばれるのだが、とくに東北の場合その地理的位置からして冷害が大きな問題であった。この冷害をいかに克服するか、東北の農民はこれに苦労してきた。とくに賢治の生まれた岩手は常習冷害地帯といってよく、水稲単収は東北六県のなかでもっとも低く、不安定だった。しかしどうしようもなかった。「サムサノナツハオロオロアルキ」するより他なかった。
 賢治は1933(昭和8)年に亡くなっているので、34(昭和9)年の大冷害には遭遇していないのだが、それ以前に繰り返し冷害を経験している。だからこの冷害をいかに克服するか、これは賢治の生涯の課題だった。それは賢治の童話にも反映されている。『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』、その改訂作である『グスコーブドリの伝記』はその典型だ。
 イーハトーブ(岩手県)に生まれたグスコーブドリの一家が冷害による飢饉で離散する。ブドリはいろいろ苦労をして火山局の研究者となる。やがて子どものときに経験したような大冷害が再発する。ブドリは、その解決法として、火山を人工的に爆発させ、大量の二酸化炭素を放出させて気温を上げることを考える。そして自分が犠牲になって爆発させ、冷害を食い止める。
 こういう話だが、小さい頃私は感激して読み、自分もブドリのようになりたいと思ったものだった。また、今でいう温室効果で冷害を防ぐ、よく考えたものだと思う。今なら地球温暖化を進めるということで問題になるところだが。
 もう一つの「ヒデリノトキ」は「ナミダヲナガ」し、あるいは「血を流し」(註1)する(前に述べた「志和の水けんか」の志和は彼の生家のすぐ近くにあった)しかなかった。
 気象によって米をつくっていながら米が食えない、米をつくりたくともつくれない、こうした諸問題ををどう解決するか、賢治の頭から離れなかったのではなかろうか。

 ところが、『雨ニモマケズ』のなかにはそれと矛盾する次のような言葉がある。
 「一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ」
 これは粗食の勧めだと思われるかもしれない。しかし必ずしもそうではない。当時としては米を四合(=600㌘)も食べるなどというのはきわめてぜいたくだった。
 前に書いたが、私がこの詩を初めて読んだのは敗戦の翌年の1946年、小学五年のとき、ある少年雑誌でだった。そこに書いてあったのは「玄米二合」(=300㌘)だった(註2)。当時米は政府からの配給で一人一日二合と決まっていた。これでは腹一杯にはならず、みんな飢えていた。そのときに「四合」と原文のまま雑誌が掲載したらぜいたくな食事と読者に思われる危険性があったので、編集者が二合に直して掲載したのだろう。
 こんな時代でなくとも平常時でも四合など食べられる人はそんなにいなかった。腹一杯米を食べられる人はたくさんいなかった。都市部でもそうだった。
 こうしたときに一日に玄米四合と賢治はいう。私は最初、賢治は平坦稲作地帯の人、また金持ちの生まれ、だからこうしたことが書けたんだろうと思った。
 しかし、彼は知っていたはずである、米を食べられない人がいることを。岩手の人だからなおのことだ。
 そうだ、「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」は願望として書いたのではないか。そうした暮らしのできる人に、「サウイウ人ニワタシハナリタイ」と。つまり、せめてそう言う暮らしが、米四合が食べられる暮らしがみんなできるような社会にしたいという切ない願いを書いたものと考えられないだろうか。米をつくれるようになりたい、たくさん米をとりたい、つくった米を思いっきり食べられるようになりたい、これは東北の農家の悲願だった。もちろんそれを賢治は身をもって知っていた。だからこそ、こう書いたのではなかろうか。
 その願いを実現するために、これまで述べてきたように、東北の農民はもちろんのこと研究者・技術者も(賢治もその一員として)努力をしてきた。その結果、米をはじめとする生産力は極めて高くなった。ところが「一日ニ玄米四合」を食べる人は少なくなった。そして米が余るという時代になってきた。賢治はこうした世の中をどう見るだろうか。
 でも、いまだに異常低温や干ばつによる被害、東北のいや日本の豊かな気象条件のもう一方の側にある問題点はなくなったわけではない。これからもその克服が課題となろう。

 もう一つ、賢治の『雨ニモマケズ』には冷害・干害等気象のもたらす問題は書いてあるが、雑草の繁茂、病害虫の発生のことを書いていないことも気になる。もちろんこの詩は日本の風土や農業について書いているわけではないのだからそれでかまわないのだが、多様な植物を豊かに育てるモンスーン的風土は多様な雑草や病害虫が繁茂する風土でもあり、これも農民を苦しめた。

 イザベラバードも農作物の豊かさを書いているが、雑草等については書いていない。繰り返しになるがもう一度引用してみよう。
 彼女は山形の米沢盆地を見て「米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、西瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地」(註3)であると書いている。しかし、その反面の雑草で困っているなどとは書いていない。それもそうだろうと思う、何しろ見渡す限りの田畑は「すばらしくきれいに整頓してあり、全くよく耕作されており、………草ぼうぼうの『なまけ者の畑』は、日本には存在しない」(註4)のだから。つまり、除草等の管理が徹底してなされていたから、イサベラは雑草が繁茂するなどと書かなかったのだろう。
 実はこの除草はきわめて大変だった。まず、作付の前に耕し、つまり鍬でていねいに土をひっくり返し、生えている草やその種を地中に埋め込み、草が生えないようにする。次に、作物の生育中に手でていねいに草をとり、また畝間、作物のまわりを鍬で浅く耕して草を取り除く。こうした耕起と中耕、手による除草がすべての作物についてどうしても必要だった。これは腰を曲げた長時間のまさに苦役的ともいえる労働なのだが、それが必要であると同時にそれを日本の農家はやってきた(註5)。
 ただし、病害虫については、病気のついた作物や葉を抜いたり、虫を手でつかまえたりしてその蔓延を防ごうとしたろうが、防除は容易ではなかっただろう。
 ここにもわが国の特徴があるのだが、賢治はこうした過重労働の問題よりもまず食えるようにすること、つまり冷害や干害をなくしたいという気持ちが強く、それで触れなかったのだろうと思う。

 ところで『雨ニモマケズ』には東北・日本の風土のうちの気候・気象については書いてあるが、土地については書いていない。何もこの詩は日本の風土をうたっているわけではないのでそれでかまわないし、彼の作品のさまざまなところで触れてはいるのだが、それはそれとして次に日本の土地についてみてみよう。

 次回は10月25日(木)の掲載とさせていただく。

(註)
1.10年12月8日掲載・本稿第一部「☆雨たもれ―ヒデリノトキ―」参照
2.11年2月22日掲載・本稿第一部「☆復刊少年倶楽部と野球少年」(2段落)参照
3.イザベラ・バード著・高橋健吉訳『日本奥地紀行』218頁、平凡社ライブラリー刊
  この文は下記掲載記事でも引用している。
  11年6月8日掲載・本稿第二部「☆まだ悪かった生活環境」(8段落)
  なお、この文には麦が書かれていない。これは彼女が旅行した時期が麦を刈りとった後だったからと思われる。
4.イザベラ・バード著 前掲書 219頁
5.10年12月11日掲載・本稿第一部「☆足踏み脱穀機止まりの機械化」(4、6段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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