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東北の山村の農用地利用方式



             東北・日本の風土と農林業(3)

           ☆東北の山村の農用地利用方式

 これまで述べたように、日本の風土は世界でもまれにみる豊かさを誇っているのであるが、国土の7割が起伏の激しい山々で占められていること、つまり耕地が相対的に少ないことは食料供給という面からいうと問題となる。
 しかし、前節でも述べたようにわが国の気象条件と土地条件からしてその耕地はきわめて豊かである。また林地も豊かである。われわれの先祖は、この風土の豊かさを基礎に、風土の持つ弱点を解決してあるいは逆手にとって利用して、これまで生きてきた。平地農村に比べて不利な条件を持つ山村、とりわけその緯度からして農耕に不利な条件をもつ東北の山村でもそうやって暮らしてきた。
 この知恵から学び、また科学技術を活用して日本の豊かな風土を生かしていけばさらに農林業生産を発展させ、自給率を向上させることができるはずであり、山村における限界集落、森林の荒廃などの問題を解決できるはずである。
 そこで次に、今特に大きな問題になっている東北の山村におけるかつての農林業はどうだったのかを土地利用の面から見直し、その知恵を学んで見ることにしよう。

 東北には南北に走る縦三列の山地(出羽山地、奥羽山脈、北上・阿武隈高地)があり、そのために耕地率は13%、森林率70%となっており、山間集落も多い。
 こうした山地に調査などで行く。山が重なりまた重なり、その合間合間に大小傾斜さまざまの谷があり、その真ん中を流れる川の両脇に田畑や家々がひっそりとたたずむ。いい光景だ。何か心がやすらぐ。しかし不便だ。農業生産力も低いだろう。何でこんな谷間(たにあい)の狭いところに田畑をつくり、家をつくり、集落をつくったのだろうか。よくこんなところに住んでいたものだとさえ思うところもある。平家の落人伝説があるのも、なるほどここなら源氏が捕まえにも来られないだろうと、納得させられるところさえある。
 しかしかつては人々の大半はこうした山間に住んでいたのではなかろうか。山林が国土の7割を占める国なのだから当然と思えるのだが、これは水利の便からも来ていると考えられる。生活、生産あらゆる面で必要な水、飲み水にできるきれいな水が谷間では容易に手に入る。田んぼの水も傾斜を利用すれば容易に引ける。平地はそうはいかない。田んぼの水は水源から延々と水路を引いて来なければならないので土木技術水準が低い段階では簡単にできないし、個人でそれをすべてやるというわけにもいかない。井戸掘りもその昔は大変、飲み水を手に入れるのも大変だった。だから大昔の人々はまずこうした山間部に住んだのではなかろうか。その後、水田の造成技術や水利技術など生産力水準が発達するなかで平地に住むようになったのかもしれない。
 こうしたことから山間部に居をかまえた人々は、まず水の来るところ、たとえば川の脇とか水路をつくるのが容易な土地に水田をつくったことだろう。
 しかし、谷間の狭いところしか田んぼにできない。川から山の上の方に揚水するなど簡単にできないし、傾斜のあるところに水田をつくるのは容易ではないからだ。しかも日光の当たるところしか田んぼにできない。その結果として水田面積は当然小さくなり、その上に冷水掛かり、標高が高い等で収量はきわめて低い。だから高緯度地帯、ヤマセ地帯の青森県東部や岩手県北部の奥羽山麓、北上山地などかつての南部藩の国の山間部ではましてや稲作に集中するわけにはいかなかった。
 そうなると畑作に力を注ぐより他ない。それは比較的容易だ。畑は若干傾斜があってもいいし、水がそんなに必要とされないからだ。それで家のあるいは集落の近くの土地で畑にできるところ、傾斜の少ないところを畑にする。
 そこにつくるのはまず麦・ソバ・アワ・ヒエ・キビ等の雑穀であり、また大豆、イモ類である。カロリー源として、蛋白源として最低限必要なものを確保しなければならないからだ。しかもそれらは販売も可能である。穀物は生活必需品である上に貯蔵・輸送も容易だからだ。野菜等の生産も可能だが、当時の交通条件のもとで生鮮野菜をつくって市場で販売することなどできないから自給用に少量栽培する程度、やはり畑は雑穀作が中心とならざるを得なかった。
 そのさいの問題は畑作物は連作を嫌うこと、田んぼにくらべて多くの肥料を必要とすることである。そのためになされたのが輪作であり、堆厩肥の投入であり、家畜との結合だった。
 岩手県北・青森南部で見てみると、その典型がヒエ(夏作)―ムギ(冬作)―ダイズ(夏作)―休閑(冬期間のみ)という二年三作体系と牛馬飼育との結びつきであった。これについては前にちょっと触れたが(註1)、もう少し詳しく述べてみよう。
 まず、なぜこの三作かであるが、ヒエ、麦は山間畑作地帯の農家の主食として必要不可欠である。しかし、ヒエと麦の一年二毛作を毎年続けるわけにはいかない。連作障害(このことについては後日詳しく述べる)が起き、収穫が減るからだ。また、麦の収穫とヒエの撒き付け時期の競合があり、全面積作付けは労力面からしても難しい。そこで麦の後に大豆を栽培する。大豆は自給用にも販売用にもなるし、労力もそれほどかからず、根粒菌で大気中の窒素を固定してくれるので肥料もそれほどいらず、イネ科のヒエ、麦の必要としない養分を利用することができ、さらに短期間で繁茂する茎葉部が地表面を覆うので雑草を抑制してくれる。もう一つ、一冬を除いて3回も作付けすることで、放っておけばあっという間に生えてくる雑草を防除し、更地にしておくと土壌養分が雨によって流亡するのを抑制する。
 この三作に牛馬産が結びつく。ヒエ・麦・大豆のわらやさや、山野草、畦畔草等を飼料や敷きわらとして牛馬に給与し、大量の良質の堆きゅう肥を生産させる。それを二年に1回、小麦作に施用する。次に植える大豆は無肥料で栽培する。ヒエの栽培のときには残存している肥料分を利用するが、発芽、初期育成をよくするために馬の糞尿を種にまぶして播く。つまり少量の肥料を投与する。なお、これを「ボッタ播き」というがこれについては前に紹介している(註1)。こうして養分が消耗されつくしたころつまり麦作のときに、堆きゅう肥を給与して地力を回復する。
 このように、異なった性格をもつ作物の輪作、作付回数の増加による雑草防除・養分流亡の回避、牛馬産と結び付いた堆きゅう肥の施用により、地力の維持がなされる。
 まさに低い生産力段階に、また日本の山間地帯の風土に合致したきわめて合理的な輪作体系であったといえよう。そしてその輪作体系が南部駒や日本短角牛の畜産と結びついており、この点でも当時としてはきわめて合理的なものであったといえる。

 もちろん、当時の技術水準ではいかに合理的な輪作体系といえども収量は低い。しかも傾斜地であることから常時畑として利用できる面積も少ない。これでは十分な食料が確保できない。
 傾斜地を畑として何とか利用できないものか。方法はあった。その昔からやってきた焼畑である。焼畑については前に述べている(註2)ので省略するが、日本に残っていた焼畑式はかなり進歩したものだった。
 焼畑を通じた地目交代(山林と畑の交代)と、性質の異なる作物を組み合わせる作目交代(ヒエ・アワ―ソバ―大豆)、つまり輪換と輪作とが結合した高度の土地利用方式ということができるのである。
 しかも焼畑はそれほど手がかからない。焼いた後なので雑草や病害虫の発生は少ないし、養分もたくさんあるから、さらに輪作体系をとっているから、ほとんど手がかからない。焼くときと播種、収穫に手間がかかるだけ、あとはたまに来て見回ればいい。つまり粗放的に栽培できる。そうなると遠隔地に焼畑があっても大丈夫である。
 しかし、二年三作などして常時畑として使っている普通の畑地、つまり常畑はそういうわけにはいかない。何回も作付し、施肥や除草をするなどの管理をしなければならない。つまり集約的な栽培が必要なので家の近くにおかなければならないのである。
 このように、焼畑は山間の奥地、常畑は集落の近傍というように地理的に離れていること、土地条件の違うところをそれぞれ集約度(土地に対する労働や資材の投下度合)を違えて使い分けていることも、当時の生産力段階と日本という風土に適合した土地と労働力のきわめて合理的な利用方式であることを示すものであった。
 この常畑、焼畑のさらに奥に、採草放牧地いわゆる秣場(まぐさば)があった。

 前にも述べたが、繁殖や育成のための牛馬は「夏山・冬里」方式で飼育していた(註3)。つまり夏は自然牧野に放牧され、冬は家にある畜舎で飼育するのである。また、冬場の飼料や敷料は採草地で刈り取ってくる。この放牧と採草には広大な面積の土地、しかも相対的に傾斜の緩い土地が必要とされる。こうした土地はある。また木もあまり生えていない原野もある。これが近くにあれば畑にされるところだが、遠隔地にあれば農地として利用できないのでそのまま放置されている。こうした遠くにあって傾斜の緩い土地、これが採草放牧地、いわゆる自然牧野あるいは秣場として利用されることになる。なお、田畑の堆肥にするための草刈りがなされたり、屋根葺きや炭俵などに用いるカヤなどを採取する草刈り場(萱刈り場)として利用される場合もあった。いずれにしてもほとんど人手がかからないから山奥の土地でかまわなかった。春の火入れ(野焼き)と牛の上げ下げのときあるいは草刈りのときくらいしか労働力は使わず、放牧の場合監視人を一人おく場合もあるが、ほとんど放置だったからである。
 このように、山奥の土地の一部が牧野・秣場として農業的に利用されてきたのだが、前にも詳しく述べたように、そのいずれもいわゆる入会地、村落による共同所有・共同利用地だった(註4)。

 このように、山村では水田・常畑・焼畑・秣場と集約度の異なる四種類に分けて農用地を使っていた(註5)。
 このような土地利用方式は、交通手段がなく道路も未整備で歩くより他ない段階に、また手労働段階に適合していた。さらにわが国の山間傾斜地の多さにも適合している。しかも、農用地として利用可能な土地をすべて活用し、労働力をうまく配分利用して多くの生産をあげることを可能にしている。さらに畜産と耕種農業が結合している。
 まさに日本の風土を生かしたきわめて合理的な、きわめて高次の土地利用方式であったと評価することができよう。
 さらに山村では、今のべた農業だけでなく、林業でも非常に合理的に土地を利用していた。
 (次回の掲載は11月8日<木>とする)。

(註)
1.11年3月25日掲載・本稿第一部「☆残っていた焼畑農業」(3段落)参照
2.    同   上      (1~2段落)参照
3.11年1月6日掲載・本稿第一部「☆入会林野」参照
4.11年1月7日掲載・本稿第一部「☆むらぐるみでの共同」、
  11年1月10日掲載・本稿第一部「☆むらの掟」参照
5.なお、東北でも比較的温暖な気候で傾斜の緩い土地、たとえば阿武隈山地の山村では常畑の一部に桑や楮を栽培して繭や紙も生産していた。これについては説明を省略する。


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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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