Entries

山村における林地の利用方式




            東北・日本の風土と農林業(4)

           ☆山村における林地の利用方式

 生きていくうえで必要なのはまず食料である。したがって山村においてもまず農用地となし得るところを農用地にして食料を生産しようとする。しかし、なにしろ山間傾斜地が多く、農用地になし得るところは少ない。そして山間傾斜地のほとんどは森林となっている。そこで山村ではこの山林を利用した林業・狩猟と農用地を利用した農業とを組み合わせてその生活をいとなんできた。
 そこで次にこの山林の利用について簡単に見てみよう。

 かなり前の話になるが、東北大の川渡農場で草地利用の研究をしていた大先輩IGさんと雑談をしていたとき、突然聞かれた、奥山・里山・裏山、どう違うかと。そこで私は答えた、奥山は集落から遠く離れたところにあるつまり奥にある山、里山は人里近くにある山、裏山は家の裏にある山のことだろうと。
 IGさんは言う、それは間違いではないが、集落や家からどれだけ離れているかの距離で説明しているだけ、しかし山の利用のしかたも違う、それも説明しなければだめではないかと。まさにその通りである。ぐっと詰まっていたら、奥山は「金太郎」、里山は「桃太郎」、裏山は「かぐや姫」の昔話で説明すればいいのだと笑いながら言う、なるほど、その通りだ、うまいことを言うものだと感心してしまった。それで説明すると、山の利用の形態、林野の状態もわかるのである。
 それを私なりの理解で述べてみよう。

 若い人たちはもうわからないかもしれないが、『金太郎』という童謡がある。
  「マサカリカツイダ 金太郎
   熊ニマタガリ オ馬ノケイコ
   ハイシドウドウ ハイドウドウ(繰り返し)
   アシガラ山ノ 山奥デ
   ケダモノアツメテ スモウノケイコ
   ハッケヨイヨイ ノコッタ(繰り返し)」
 この歌は、まさかりでないと切れないような大きな太い木の生えているところ、熊など獣が出てくるところ、つまり原生林あるいは一次天然林で、獣としか遊べないような人里から遠く離れたところで金太郎が遊んでいたことを表現している。いうまでもなく、こうした所はまさに奥山である。こうした奥山で人々は熊、鹿、兎等々の狩猟をし、大木をまさかりなどで伐り倒して材木や木工品とし、利用もしくは販売してきたであろうことをこの歌は推測させる。
 このように金太郎の歌は奥山をうまく説明しているのである。

 国民学校(現在の小学校)一年生の「ヨミカタ(国語)」の教科書の最後だったと思う、次の文章から始まる『桃太郎』の話が書いてあった。
 「ムカシムカシ、アルトコロニ オジイサントオバアサンガ アリマシタ。
  アルヒ、オジイサンハ山ヘシバカリニ、オバアサンハ川ヘセンタクニ イキマシタ」
 なお、この文章は私の記憶、正確かどうかわからない。戦後この物語は軍国主義的、侵略的だとして教科書からなくなってしまった。
 それはそれとして、この文のなかのシバカリ=柴刈りにおじいさんが行くという山、これが里山である。
 この柴とは小さい雑木のことで、それは当時の主要な燃料であり、薪あるいは木炭にして自分の家で使うばかりでなく、山林のない地域の人たちに販売する商品でもあった。だから、それを刈り取り、背負って家に持って帰ることはその昔の重要な仕事だった。そうなるとそんなに遠くの山では困る。一仕事して往復できるほどの距離、背負って帰れるほどのところに、つまり人里の近くにあることが必要となる。かくしてそこは里山となる。
 また、こうした柴が生えている山なのだから、里山は雑木林ということになる。つまり自然林ではない。この雑木林については前に述べているが(註1)、それは人間がつくりだしたもので、人の手が入ることにより維持されてきた。すなわちそもそも自然林であったものが、薪や炭として10~15年サイクルで伐採され、そこに再び草木が芽生え、成長する、それがまた薪炭源としてあるいは生産資材として利用され、さらにそこの落ち葉や下草が焚き付けや堆肥として利用される、こうした過程を経て雑木林となったのである。
 なお、このように木が何度も伐採されるから里山には日光がわりに差し込む。それで多様な山野草が自生し、そのなかにはわらびやぜんまいなどの山菜があり、食用、薬用として採集されることになる。またそうした山野草を刈り取って農耕地の緑肥や家畜の飼料として利用した。

 仙台に来た時に驚いたことの一つが竹林(孟宗竹)が多いことだった。私の生家の山形市周辺ではあまり見かけない。北国、雪国に行くほど竹林が少なくなるので、きっと雪のせいではないかと思う。そんなことでタケノコが生えているのを見たのは仙台に来て初めてだった。私が大学一、二年のときに通った東北大教養部が当時は仙台の南部の三神峯というところにあり、そこは農山村だったので(今はすべて市街地になってしまったが)、その通学途中にある農家の裏の山が竹林だったから、すぐに見つけられたのである。
 「今は昔、竹取の翁といふ者ありけり」
 『竹取物語』に出てくるこの竹取のおじいさんが金色に輝く竹の中にかぐや姫を見つけたのも、この裏山の竹やぶの中だったのではなかろうか。
 こんなことから私にはかぐや姫と裏山とはすぐに結びついた。もちろん裏山には竹だけが生えているわけではない。栗や胡桃、柿、梅などを植えている場合もある。また杉を何本か植えている場合もあり、雑木林にしているものもある。そして竹はタケノコを生産するだけでなく竹それ自体を竹製品の加工原料として、栗やクルミ、柿等の実を採集して、自給もしくは販売していた。また、燃料や肥料源としても裏山は利用された。
 このように裏山では植栽、育成もなされ、利用も多く、人間が意図的に手を入れている山ということができる。

 このように、家からの距離によって「奥山・里山・裏山」として土地に対する労働の投下程度(集約度)を変えて利用してきた。もちろん距離ばかりでなく地形や気象等によってそれは変わるし、厳密に言うともっと言わなければならないことがあろう。しかもあまり学問的でもない話だし、私の専門分野ではない。でもこんな風に考えていいのではないかと思っている。
 それにしてもこの山林の利用方式は、農業の場合の土地の利用の仕方と何と似ていることだろうか。農業も集落からの距離や地形によって集約度を変え、「水田もしくは常畑・焼畑・秣場」として農用地を利用してきたのである。
 そして農用地では食料生産を基本に、山林では薪炭、建材、木工品、野生動物、山菜等の生産、販売をし、農業と林業をうまく組み合わせ、労働力が年間均等配分できるようにするとか林地が農地に落ち葉や山野草を供給するとか、お互いに補完・補合してきた。
 こうして山村住民の生活を成り立たせるとともに、平地農村、都市に住む人々の生活をも支えてきたのである(註2)。

 もちろん、これは当時の技術段階での合理的な土地利用方式でしかない。したがって山村における農林業の生産力はきわめて低く、また道路や農地の造成も十分にできないために林地が未利用のままに残される場合も多く、生活のレベルも低くならざるを得なかった。
 さらに起伏の多い地形は他集落や都市との交流を妨げた。自然的距離・直線距離にすればすぐ近いのに、波のようにうねる無数の起伏にじゃまされて道路距離・歩行距離は長くなり、それに傾斜が加わるので時間距離はかなり遠くなって隣の集落との往来もままならなず、物資の交流や人的文化的交流がさえぎられ、社会的文化的に立ち後れざるを得ないという問題もかかえていた。
 もちろんこうした閉鎖性は悪い面ばかりではない。それは各地域それぞれ独自の文化が育ち、保存されるということでもあり、いい面もあった。たとえば前に述べたアブラナ科植物の地域性、多様性、それに対応する食文化の多様性は、こうした起伏の存在からもたらされたものだった (註3)。そして起伏によってそれぞれの地域で異なる風土を利用して各地域独自の農業を、また文化を多様に発展させてきた。
 それにしても、やはり起伏の存在によって山間地域の生活、文化は立ち遅れざるを得なかった。そしてそうした段階に対応する古い土地所有関係、家と家の関係、たとえば北上山系における名子制度や大山林地主の支配、さらに明治以降の林野の国有化などがあったからどうしようもなかった(註4)。
 こうした問題点はあっても、さきに述べた農地・林地の利用方式は山村住民が自らの地域の風土に対応して確立した技術であり、一定の合理性をもつものであった。だからこそ山間部の集落は何千何百年と続いてきたのである。

 戦後の民主化、そして農林業の技術の進展、社会資本の整備は、こうした山村を大きく発展させる展望を切り開いた。そして山村の住民は農林業の発展にとりくみ、その展望を実現させようと努力してきた(註5)。
 しかし高度経済成長期以降、こうした努力は次々に水泡に帰せられた。エネルネギー革命の名の下で急速に進められた産業用・家庭用の燃料の変化、農林産物の輸入自由化等のもとで、農林地は荒廃し、過疎化が進み、最近では限界集落なる言葉まで出るようになった。
 他方で、熊が奥山にだけ住む時代ではなくなった。里山、裏山にでさえ出没するようになった。里山、裏山が奥山化しつつあるのだう。それどころか町の中にでさえ出没するのだから、町自体もおかしくなっているのかもしれない。
 こうしたことについては前に何度か触れてきたので省略するが、ここでは次のことだけ言っておきたい。

 今述べたかつての山村の農業的・林業的土地利用方式、これをもう一度見直し、現在の発展した科学技術などの社会的生産力を活用して再構築していくことが考えられないだろうか。わが国では山間傾斜地の多さを生かしていくより他ないからだ。機械化が難しいから、低コスト生産ができないからという理由でこうした地域の農地、林地を切り捨てたら、食糧や燃料、建築資材等の自給率は下がるだけである。現に今までそういう道をたどってきた。そして山村住民は農林業をやめざるを得なくなり、過疎化が進み、限界集落と言われるまでになってしまった。
 山村に住む人々が何千何百年かけて築き上げてきた知恵を生かし、また狭くとも豊かな農林地を生かしながら、最新の科学技術を適用していけば、農林業生産はさらに発展できるはずであり、山間地の集落に住む人々も豊かに生きていけるはずである。さらにかつてと違って交通手段はあり、情報格差もなくなり、かつてのような都市と山村の格差も縮まってきている。とすると、限界集落などという言葉はなくなっていいはずである。
 こうした可能性を現実のものにしていくこと、これが21世紀に課せられたわが国の課題なのではなかろうか。

(註)
1.11年11月11日掲載・本稿第三部「☆地域住民の暮らしと自然保護運動」(2段落)参照
2.山村と平地農村の深いつながりとその解体については下記の掲載記事で述べている。
  11年5月27日掲載・本稿第二部「☆農村と山村の結合の解体」
3.11年10月3日掲載・本稿第三部「☆野菜・果実の形、色、味の変化」参照
4.11年1月10日掲載・本稿第一部「☆むらの掟」(2段落)、
  11年1月11日掲載・本稿第一部「☆抵抗組織としてのむら」(2段落)、 
  11年2月24日掲載・本稿第一部「☆農地改革と岩手の山村」(2~5段落)参照
  なお、名子制度については後にも降れる予定でいる。
5.11年7月11~27日掲載・本稿第二部「山間畑作地帯と畜産、畑作等の新しい動き(1)~(10)」参照



スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR