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平地林と風雪、田畑



            東北・日本の風土と農林業(5)

             ☆平地林と風雪、田畑

 森や林は山にあるもの、したがって森林とは山林であると私は思っていた。私の育った山形では森林は山にしかなく、平地には神社や寺、河川敷にほんとに小さい林があるだけ、耕せるところはすべて田畑にしているからである。
 しかしそうではなかった。平地にも林があった。それを実感したのは1960年ころ、学会などで東京に行く機会が増えてからだった。
 東北本線で関東平野に入ると雑木林が多くなる。中央線や小田急線などに乗るとさらにそれを感じる。まだそのころは都市化が進んでおらず、広々と畑が広がっていたのだが、そのところどころに林があるのである。
 そういえばこのへんは武蔵野、私たちの中学の国語の教科書に載っていた国木田独歩(明治期の作家)の随筆『武蔵野』に雑木林の風情が書いてあった。
 それにしてももったいない。どうして田んぼにしないのか。こんな平らな土地をどうして林のまま放っておくのか。水がなければ畑にすればいい。林になっているなだらかな丘だって畑にしようと思えばできる。なぜそうしないのか。関東人は怠け者なのか。それとも人口の割に土地がたくさんあって全部耕地にできないからなのか。
 こんな疑問をもったものだった。

 東京の西部に田無という町(現・西東京市)がある。この地名は田んぼが無いことからつけられたと言われているが、実際に田んぼは少なかった。これは田無ばかりではない。関東平野のかなりの部分がそうである。漏水しやすい関東ローム層に覆われ、しかも灌漑の困難な台地が広がる関東平野は水田にしにくく、川の近くの沖積土壌の堆積するところにしか田んぼはつくれなかったのである。
 それで畑作を中心にせざるを得なかった。ところが畑は水田よりも多くの養分補給を必要とする。この養分は、水田からの稲わらと山林からとってくる山野草・落ち葉を堆肥にして投与することで補給するのが一般的なのだが、何しろ田んぼは少なく、山林は遠い。そこで土地のすべてを畑とせず、条件の悪い土地などは開墾せずに雑木林=平地林とし、台地や傾斜地の一部は開墾可能であっても里山として残す。そこから草葉、落ち葉、若木をとって肥料とする。そればかりでなく、薪炭等の燃料を得るためにもこうした雑木林を利用する。なにしろ山は遠く、薪炭を買うのも大変だからだ。それから農具や生活用具の原材料としての木々もそこから手に入れる。
 したがってどこの農家も雑木林を必ず持たなければならなかった。
 そしてそこにはたくさんの人の手がかけられていた。だからとてもきれいだった。
 明治の代表的な日本画家菱田春草が描いた『落ち葉』という絵がある。当時はまだ郊外だった代々木近辺の雑木林を描いたとのことだが、林のなかの土地は掃除されたようにきれいで、そこに紅葉がひっそりと何葉か落ちており、本当にきれいである。最初見たとき、これは春草が想像で書いたのだろうと思った。現実はこんなにきれいなわけがないからだ。茶色の落ち葉が山のように積み重なって下土がよく見えず、歩くとがさごそと音がし、落ち葉の一部は黒く腐っているというのが普通の林である。しかし、この絵は頭で考えてつくった風景ではなかった。堆肥にするために農家が本当にていねいに落ち葉拾いをしたらしく、下土は本当にきれいだったとのことである。しかも春草の絵は写実を基本にしていると言われているようだ。それでこのようなすばらしい絵になったのではなかろうか。今はそう確信している。
 このように雑木林は堆肥確保対策から必要だったのだが、もう一つ、空っ風対策からも必要不可欠だった。
 葉っぱの落ちた冬の桑畑の中を浪人姿の三船敏郎が歩いてくる。空っ風が彼の髪の毛を着物を揺らす。近くの宿場町でも空っ風がすさまじい土ぼこりをまきあげている。黒沢明監督の映画『用心棒』の一場面だ。
 これは冬の関東平野の情景をよく映している。乾燥する冬、粒子の細かい関東ローム層の土は北西から山を越えて吹いてくる季節風で舞い上がるのである。
 これではせっかく肥やした畑の土が飛ばされてしまう。また、家の中がほこりだらけになってしまうなど、生活にも困る。
 これを防ぐためにも防風林としての雑木林が、また屋敷林が必要だったのである。

 防風林と言えば北海道の畑作地帯にもあった。
 網走に赴任したばかりの4月、物干し台を買って三階のベランダにおいた。翌朝、カラッと晴れた日だったので、家内はそこに洗濯物を干した。まわりを眺めてみた。外に洗濯物を干している家がほとんどない。どうしてなのかわからないが、ともかく干した。一時間くらいたってベランダに行ってみた。何と洗濯物がガチガチに凍っている。慌てて洗濯物を外した。日光は照ってもまだ気温は低いのである。後で気が付いた、干しているのはそういうことを知らない転勤族だけだったと。
 連休ころになると急に暖かくなる。そこでまた洗濯物を干すようになった。ところがやはり干している家は少ない。そのうちわかった。4月末ころから強風が吹く日が多くなり、その風が畑の土を運んできて洗濯物を黒くするときがあるのである。
 ある日突然真っ黒い風が吹き、目の前が見えなくなったのには驚いた。地吹雪で目の前が見えなくなるのは知っていたが、土煙でそうなるのは初めて体験した。
 畑の土が飛ぶ、これは養分のある土壌が流亡するということだから、当然農家は困る。しかも春先の耕起で表面の土が粒状になっているし、作物も育っていないので、ますます飛びやすい。ビートの種をまいたら土と一緒に全部強風でもっていかれてまったく芽が出ず、収穫皆無になるなどということも起きる。
 こうした風害を防ぐために畑のまわりに防風林(防雪を兼ねる場合もある)をおく。並木のような防風林もあれば、10㍍くらいの幅の防風林が何百メートルも続く場合もあり(ここには山菜や山ブドウなどがよく生える)、急傾斜地はもちろん林となる。また堆厩肥を投入して土の飛ぶのを抑えるとか、ビートの場合などは直播(種を直接畑に撒く)を移植栽培に切り替え、耕起の時期を遅らせるなどして強風による被害を軽減する努力をしている。
 6月から秋にかけて畑は緑で覆われる。それで土ぼこりのたつことはほとんどなくなる。しかも網走には梅雨がない。日照時間も都府県から比べると長い。その日光を旺盛に吸収して緑に変わった景色を眺めながら、家内は洗濯物を干す。あっというまに乾いてしまう。

 網走にいるときよく家内は自動車を洗っていた。前にも述べたように私は運転できないのでこれは家内の車、乗せてもらうだけなので私も時々は手伝った。
 仙台に帰ったら、都会の汚れた空気で、北海道から比べると格段に数の多い車による排気ガスで汚れて、さらに洗車が必要になるだろう、こう家内は考えていた。ところが、不思議なことにそんなに汚れない。乗る回数、距離が網走にいるときよりも減ったからかもしれないが、それにしてもどうしてなのだろう、こう家内は言う。
 網走では融雪剤や雪解けのときの汚れが加わるからだろう、最初はそう考えた。しかし、雪のない季節でも仙台の汚れが少ない。あるときふと気が付いた。そうだ、これは稲作地帯と畑作地帯の違いからくるものではないかと。
 仙台も関東並みにからっ風が吹く。これは冷たい。肌身に沁みる。網走から入試の監督などで仙台に出張で来る教職員は網走よりも寒いという。山形から来る人もそういう。ともに気温が仙台より低いにもかかわらずだ。これは雪の有無、つまり湿度の差からくるものだろう。
 春先の強風もひどい。これとフェーン現象による高温・空気の乾燥などによって強風害や野火が発生することもある。
 それでも土ぼこりは関東や網走ほどたたない。田んぼがほとんどだからだ。田んぼの土は粒子が強く結びついており、湿ってもいることから風が吹いても飛ばないのである。夏から秋にかけては水があるし、稲が大きくなっているのでもちろん土は飛ばない。畑だといくら作物が成長していても風でその土が飛ぶことがあるが、田んぼではそんなことはない。
 だから宮城県で防風林・平地林が見られないのではなかろうか。
 また、水田地帯だから仙台での自動車の汚れが少ないのではなかろうか。仙台では屋外に駐車しているのに汚れず、網走では屋内なのに汚れたということは、それを証明しているのではないか。
 しかし屋敷林はあった。仙台平野での農家調査で「いぐね」という言葉が出てくるときがある。最初は何だかわからなかったが、屋敷林のことだった。そういわれてみれば、農家の屋敷裏の方に何本か大きな木が植えてあり、藪になっているところもある。しかもそれは西側・北側にある。それでわかった。さっき言った冬のからっ風、つまり北西季節風から家屋敷をまもるための屋敷林だったのである。
 水田地帯だから耕地をまもる防風林までは要らないが、とくに仙台平野は散居村、農家個々にいぐねをつくって家屋敷を風からまもる必要性があったのだろう。そしてそれを肥料や建材、燃料の源としても利用したのである。

 日本海沿岸の山形県の酒田では雪は下から降ると言われている。西からの季節風にあおられた雪が横殴りに吹き付けるのである。
 海岸に出てみると、夏の鏡のような海とはその形相をまったく異にした茶色っぽい灰色の海、荒々しく高い波が絶えず打ち寄せ、それで水平線は平らではなく、大きな波ででこぼこになっている。
 この風で打ち上げられた砂がたまって海岸に砂丘が形成されている。この砂が季節風で舞い飛ぶ。これを防ぐためにつくられた松林が砂丘を延々と覆う。
 この防砂林で砂は防げるが、風は平野を吹き抜ける。しかし、水田地帯である上に雪があるので土が飛んだりはしない。それでも仙台のようないぐねがあっていいはずである。ところがそれが見られない。散居村ではないからだ。20~30戸が密集して集落を形成している密居村なので、お互いに身を寄せ合うことで風を防ぐのである。また雪囲いをするが、これでも風を防ぐ。もちろん、神社や寺を西側において木々を植えて防風林にしたり、北西の側に位置する家ではその裏に木々を植えたりするが、仙台平野のような屋敷林は見られない。

 さて、仙台、酒田と見たが、その中間の山形内陸はどうだろう。
 また洗濯物の話になってしまうが、結婚したばかりのころ家内が私の生家で洗濯をしたときのことである。洗濯物を物干し竿に干そうと思って行ったら洗濯挟みがない。どこにあるのかと私の妹に聞いたらそんなものはないという。それでは風で洗濯物は飛んでいってしまうだろうと思ったが、ないのだからしかたがない、物干し竿にかけてだけおいた。夕方になって取り込みに行ったら洗濯物はそのまま物干しにかかっていてもう乾いている。風で吹っ飛ばないのである。
 仙台だったらそんなわけにはいかない、ともかくよく風が吹く。ところが山形内陸は風が少ない。庄内地方を襲う日本海側からの季節風は朝日連峰などの出羽山地にぶつかってはるか上空を通るので風はそんなに吹かない。ただし、そのときたくさん雪を山形盆地に落としていく。それで湿気のなくなった乾いた風が奥羽山脈を超えて仙台平野に吹き込む。太平洋側からの風は奥羽山脈でさえぎられて上空に行くので山形盆地にはそんなに吹かない。
 もちろん山形も季節風が吹くときもある。3月から4月初めがそうだ。前にも述べたが、そのときが子どもたちの凧揚げの季節となる(註)。しかし土ぼこりはそれほどたたない。田んぼはもちろんそうだが、畑からもである。雪が畑の上にあちこち残っており、解けた雪で畑の土がしっぽりと湿っているからである。土が乾き始めるころ、春真っ盛りの頃にはもう季節風はない。それに山形内陸は庄内と同じで密居集落、身を寄せ合って風から身をまもる。
 だから防風林はない。屋敷に木々や庭があっても屋敷林と言えるような広さの林はない。とにかく家屋敷以外みんな田畑だ。平地で見られる林は神社や寺くらいなものだ。
 こうしたなかで育ったから関東の雑木林に奇妙な感じをもち、いぐねに驚き、網走の防風林に感動するのだろう。
 しかし、と考えるときがある、山形内陸の平地林の少なさは、平地が少ないなかで生きていくために林などにしてはおけなかったという貧しさからも来ていたのではなかろうかと。

 しかし、そのうち私のような疑問を感じる人はいなくなるのではなかろうか。
 東京の拡大による都市開発が進む中で関東平野から平地林がなくなっているからだ。平地林の相続税が耕地よりも高いために平地林をまず手放さざるを得ないこともそれに拍車をかける。
 何とか残っている平地林もその多くは放置され、荒廃しつつある。薪炭の需要はなくなり、落ち葉を拾ってきて堆肥をつくったりしていたらとてもじゃないけど経済的に引き合わないからだ。それに拍車をかけるのが農家の高齢化、後継者不足だ。ほとんど人手が入らなくなったために、かつての雑木林は雑木林ではなくなりつつある。
 こうしたなかでかつての武蔵野がなくなってきている。菱田春草の描くきれいな落ち葉などは掃除の行き届く公園や神社などでしか見られなくなった。かつての豊かな生態系も大きく変えられつつある。
 こうした平地林の問題は武蔵野だけではない。仙台平野の低い丘にある林も同じだ。ほとんどだれも林の中に入ろうとしなくなった。杉などを植林したところも材木価格の低落で放置されて荒れ果て、竹林は中国からのタケノコの輸入で生産しても引き合わないのでまったく手入れしない。それが周辺の雑木林や農地を荒らしたりもしている。
 こうした荒れ果てた平地林が耕作放棄とあいまってどんどん増えていくことになるのだろうか。かつての農村景観はどこへいってしまうのだろうか。

 それぞれの地域の地勢と気象に適合すべくつくりあげてきた平地林、これはまさに日本人の知恵の結晶だった。そしてそこは、前に述べた山林原野とあわせて、資源の宝庫だった。改めてこの先人の知恵を見直し、新しい生産力段階に対応した資源としての活用を図っていくことが今求められているのではないだろうか。

 ちょっと付け加えておきたい。
 さきほど述べた「いぐね」は福島の浜通り北部にもある。このいぐねが原発事故の放射能で汚染された。木の幹や枝葉に付着した放射性物質はなかなか落ちない。この除染にはかなりの金と人手がかかる。わずかな補償金では除染は無理だ。しかし除染しなければ住めない。やむを得ずすべて伐採することになる。
 先祖が何百年も前に植え、代々にわたって何百年も管理し、利用してくるなかで、それに自然の生命力が加わってつくりあげてきたいぐね、家族を屋敷を何世代にもわたって守ってくれたいぐね、これがこうして今消えようとしている。
 人間と自然の力でつくりあげた文化・自然遺産である「いぐね」、これがなくなっていいのだろうか。いぐねの除染に対するきちんとした財政的な支援、東電の補償があってしかるべきではなかろうか。

(註)11年1月27日掲載・本稿第一部「☆二回あった正月」(6段落目)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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