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農家の暮らし(1)

   

          ☆「失われゆく民家風景」

 昔はよかったという人がいる。
 昔は田んぼや畑にトンボやチョウチョが舞い飛び、夜はホタルが飛び交っていた。まさに自然があった。ところが人間は農薬等でそれをこわしてしまった、水路の改修でなくしてしまったなどというのである。
 たしかにそうかもしれない。私もそう思う瞬間がある。ぼんやりかすんだ月の明かりのなかで田んぼの上を無数の蛍の灯が舞い飛んでいた夢のような情景、これは一九五〇年ころの夏の夜、母の実家から父といっしょに自転車で帰るときに見たものだが、自転車の電灯もいらないようなそのときの明るかった田んぼの情景がいまだに忘れられない。まさに昔はよかった。
 しかし、そのかわりにいたのが蚊であり、ブヨ(ブユと言うのが一般的らしい)であり、ビル(蛭のことをこう呼んでいた)だった。夕方田畑の仕事が終わるころ、ブヨが手足に真っ黒くなるほどたかる。さらに田んぼや小川にはビルがいる。田んぼからあがるとくねくねと動く気持ち悪いビルが足首やすねに何匹も吸い付いている(かつては素足で田んぼに入っていた)。はがそうとしてもなかなか取れない。むりやり取ると血が出てくる。
 夕方家に帰ればたくさんの蚊が寄ってくる。蚊取り線香などで追い払えないほどの数だ。
 ふとんに入れば、ノミ、シラミに悩まされる。ノミ取り粉などというのがあったが、まず効き目はない。
 食事をしていればハエが群がってきてごはんやおかずにたかる。ハエ取り紙、ハエ叩きなどで捕っても捕っても捕り尽くせるものではない。ご飯を全部食べた後の大きなはがま(かまどにかけるために胴のまわりに庇のようなつばをつけた飯炊き用の釜)のなかにご飯粒が少し残っている。ふたを開けておくとそこに真っ黒になるくらいハエがたかる。それを待って母は稲ワラ一束に火をつける。そしてはがまの中に入れ、ぐるぐるかきまわす。こうやって何百匹をまとめて退治する。そんなことを何回やってもハエは減らない。
 こんな昔がよかったなどとは私は決して思わない。昔に戻りたいなどとも思わない。
 ただしトンボ、チョウチョ、ホタルは戻って欲しい。これは「虫のいい望み」なのだろうか。

 網走にいたころ、新聞の中に「向井潤吉風景画選集―懐かしき日本の風景―」の宣伝パンフがはさまれてきた。パンフには、四季折々の田畑や林野、山々に囲まれてひっそりとたたずむわら葺きの農家、わずか五十年前まではどこに行っても見られた風景の絵がいくつか載っていた。これは全国各地の「失われゆく民家風景を描き残した」ものであり、「ふるさとで過ごした幼い頃の記憶がよみがえり、思わず涙が出るような懐かしさ」を感じるともパンフに書いてあった。
 まさにその通りである。一瞬この画集を買いたいと思った。しかしやめた。
 いくら懐かしくとも、その時代に戻りたいとは思わないからである。そこで暮らす人々のくらしは貧しかった。この画集を見るたびにそんなことを思い出していたら苦しくなる。さらに、この風景はそのまま残しておきたいとは思っても、そこに住む人の利便性を考えたら住んで残しておけともいえない。私自身がそこに住んで維持せよと言われても、現代の利便性を得るためにはかなり金がかかるので住みたくはない。
 しかもともかく汚い家だった。窓も少なく、暗い家でもあった。それに寒かった。すきまだらけの雨戸、障子からは雪すらなかに舞い込んできた。
 私の生家の雨戸も板戸の縦板に沿って細くすき間が空いているところがあった。幸いなことに雨戸と部屋の間に縁側があり、障子で縁側と仕切られていたので、すき間風は直接部屋に入ってこなかった。けれども、雪が降った次の日は縁側にそのすき間の形通りに線状にうっすらと白く雪が積もっていた。そうなってくると雨戸を閉め切ったままにする。開けたら寒くていられないからである。やがて雪が積もり、さらに屋根から下ろされた雪が軒下にうずたかく積もり、屋根に届くくらいになる。そうすると雪で防寒・防風されるので厳しい寒さからは保護され、すき間から雪が入りこむなどということもなくなる。そのかわりに縁側にも部屋にも外の光が入らなくなり、昼でも暗くなる。
 よく茅葺きの家は夏涼しいという。たしかにその通りである。しかしそのことは冬は寒いことを示している。
 もちろんいろりはある。しかし煙抜きのために天井が高くなっているので部屋は暖まらない。居間や客間にある火鉢では手や顔が暖まるだけで背中は寒い。
 こたつもある。これは暖かい。寒くなるとそこに手足を入れて暖まる。しかしやはり背中は寒い。夜はこのこたつのまわり四方に布団を敷き、こたつに足を入れて寝る。だから夏と冬のふとんの敷き方が違う。こたつのない部屋に寝るときは行火(あんか)を入れる。足が暖まるから何とか眠れる。しかしいずれで寝ても朝方布団から出るとすさまじく寒い。
 なお、こたつは保温器としての役割を果たした。たとえばご飯の入ったおひつをこたつに入れておけば温かいご飯が食べられる。また煮豆をワラつとに入れてこたつに入れ、納豆をつくるなどということもやっていた。ただしこの自家製納豆はまずかった。

 家のつくりは生活よりも生産が優先されていた。たとえば広い土間は、雨や雪のときの、また冬の、仕事の場としてもつくられたものであった。
 養蚕農家の住まいは、蚕を飼う時期になると、それまで座敷として人間が利用していたところが蚕室になった。畳があげられて板の間となり、そこで蚕が飼われるのである。人間様の住むところよりも蚕の住むところがまず確保される。そして蚕は炭火などの暖房がおかれた暖かい部屋で過ごす。まさに「おごさま(お蚕さま)」であった。この季節に母の実家に泊まりに行くと、蚕が桑の葉を食べるカシャカシャという音が気になってなかなか眠れなかった。一匹が食べる音は当然小さいが、何千匹となるとけっこうすさまじい音になるのである。
 宮城県南や福島、山形内陸などの養蚕地帯では独特の形をした二階建ての家が見られたが、この二階は生活のためではなく、蚕の飼育のためであった。
 地域によっては家畜といっしょの住まいだった。南部曲がり家などはその典型であるが、曲がり家は会津の山村などにもあった。
 お金さえあれば農業用建物と生活用建物との二つつくることもできたであろうが、そんなことはできるわけはなかった。そして農業の機能性の追求が先になり、人間の生活は犠牲になったのである。

 もうかなり前のことで正確ではないが、京都に住む女流華道家がある新聞の随筆欄に次のようなことを書いていた。
 京都の家の間口はせまい。しかし奥行きがある。つまり家の表は飾らずにつましい。しかし家の奥は広く、豊かである。そしてその広さ、豊かさを表に出さない。これは京の人の奥床しさ、心の深さを示している。表面だけよくて中味のない人たちとは違うと。
 それを読んだときに、思わず次のような言葉が出た。それは京の人の表と裏のある性格を示しているのではないかと。奥に何をかくしているかわからない。表面でいい顔をしていても腹の中では何を考えているかわからない。素直でない、腹黒い、このことを言っているだけではないか。良いも悪いも好きも嫌いもすぐに表に出してしまう私のような単純な人間は、とてもじゃないけど京の人とは付き合いきれない。
 こんなことを冗談に考えたのだが、ふと思いついたのは、私の生家をはじめとして近所の家はすべて道路に面した間口は狭く、屋敷地はうなぎの寝床のように細長い短冊形になっていたということである。つまり京都と変わりないのである。ただ、屋敷の後ろには小さな畑があり、そこに自給用の野菜などが栽培されている。これは非農家も同じだが、町中心部の商家などでは奥も建物がたち、あるいは庭になっていた。
 なぜこんなふうになっているのか。これは江戸時代の町場における租税制度に原因がある。間口の幅で租税が定められていたので、庶民は間口を狭くし、奥行きのある建物をつくって税金を安くしようとしたのである。
 これがわかってから改めて考えてみたら、貧しい家の間口がかなり狭かったことに気が付いた。当然家屋の前には庭もなく、通り道があるだけである。人が通れるほどの狭い道を挟んで隣の家とぴったりとくっついている。南北に走る道路に面している家の場合には、家が東西に長いので、隣の家の屋根で南からの陽がほとんど射さず、いつもじめじめしていた。
 私の家も南北に走る道路に面してはいたが、南側には庭があり、しかもその前には家がなくて道路と畑があり、しかもその畑が自分のものであったために、陽が射して明るかった。

 農村部に行けばこんなことはない。道路に面したところもそうでないところも屋敷地はかなり広い。そして家屋の他に作業場もあれば庭もあり、屋敷畑もある。屋敷の北もしくは西に季節風を防ぐための木々を植えている地域もある。仙台平野の農家の屋敷の東西北を囲む「いぐね」(屋敷林)などはその典型だ。
 ところが、佐賀大学の教授をしていたHjさんがそれを見て「農家に庭がある」と驚いて私に言ったことがある。今から三十年くらい前、いっしょに宮城県北の農家調査をしたときのことである。農家に庭や木があるのは当たり前だと思っていたから、それを聞いた私の方がびっくりした。そう言われてみれば、私が調査した佐賀の農家には、何もない更地の作業場が家屋の前にあるだけで、いわゆる庭はなかった。屋敷の裏もすぐ田んぼである。要するに家屋や小屋、作業場など生産と生活に最低限必要な土地以外は田んぼなのである。
 このことは、東北には佐賀などの西南暖地よりも土地にゆとりがあったことを示しているのだろうか。あるいは心にゆとりがあったことを示すものかもしれない。
 しかしそうでなかった可能性の方が強い。東北では屋根からの雪の捨て場所、冬の季節風の緩衝場所などの必要性から屋敷地は広くなければならず、それを利用して庭にしたというだけではなかったのだろうか。
 よくわからない。なお、今は佐賀の農家にも庭がある。かつてのような作業場がいらなくなったのでそれを庭にしているののだろうと私は推察している。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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