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「流れ」と日本人と川



            東北・日本の風土と農林業(6)

             ☆「流れ」と日本人と川

 「貿易自由化は世界の流れである」、「流れに乗り遅れるな」、「バスに乗り遅れるな」、政財界、マスコミはこう言って自由化を推進してきた。それはそのまま国民の多くに受け入れられてきた。
 どうも日本人はこの「世界の流れ」とか「時代の流れ」とかいう言葉に弱いようだ。世界に置いていかれる、孤立する、これにはとくに弱い。
 これは敗戦のトラウマからくるものだろう。 第二次大戦で世界に刃向って失敗したことがあるからだ。世界とくにアメリカに逆らってはろくなことがなさそうである。それでアメリカをはじめとする白人資本主義のいうことは聞こう、彼らがつくる流れにのっていこう。こういう精神構造になっているのかもしれない。
 でも、それは敗戦からだけではないのではなかろうか。明治以降日本は先進資本主義国に遅れてはならない、世界の潮流に乗り遅れるな、ともかく追いつこうと、世界の顔色を見ながら、先進国の真似をしながら、成長してきた。そのときに刷り込まれた劣等感、先進資本主義国崇拝意識がいまだに国民意識のなかに残り、それが敗戦のトラウマと重なってアメリカに対する追随意識となり、「世界=アメリカの流れ」に逆らうな、追随しろということになるのかもしれない。
 いや、もっと昔から日本にはそういう意識があったのかもしれない。大昔は随や唐から、朝鮮半島からさまざまな事物を受け入れ、国造りの一助としてきた。そういうことから、外国、とりわけ大国の言う通りにすれば間違いないという潜在意識が日本人のなかに刷り込まれており、それが何かあると目を覚ますのかもしれない。

 しかしそれだけではなさそうだ。「流れ」というとすぐに納得してしまう日本人の特性は日本の気象条件からも来ているのではなかろうか。
 日本には非常に明確な四季があり、日本人はその流れにあわせて生産と生活をしてきた。この流れには文句を言ってもしかたがない。冬の期間が長すぎるの、梅雨が長すぎるのと言ってもどうしようもない。テレサ・テンの歌ではないが、『時の流れに身をまかせ』るより他ないとあきらめる。それどころか、流れに逆らうよりもそれに乗っかっていく方がいいと自らを納得させる。
 もう一つある。急流の河川に囲まれているという土地条件だ。急流に抵抗しても無駄というもの、流れに身をまかせる、利用する方がいい、いやそれしかないと考える。
 つまり日本の風土がこうした日本人の気質をつくり、そのために抵抗もせずにあきらめ、ずるずると流れに身をまかせてしまう。こうなっているのではなかろうか。

 とはいっても、日本人は流されてきただけではなかった。川の流れについていえば、堤防を築いたり、流れる方向を変えたり、それどころか新しくつくったりして抵抗してきた。また流れに抵抗しながら向こう岸に渡ってきた。気象に対しても、それによって被害を受けないように、あきらめずに抵抗してきた。だから、流れということで納得する、あきらめるというのは日本人の気質だなどということはできないかもしれないし、人間の気質は風土によって決まるというのも誤りなのかもしれない。
 そもそも時の移ろいは変えられないとしても、人の移ろいは変えられるし、実際に人間は自らの意思で変えてきたのである。
 しかし、ついついそういってぼやきたくもなる。

 それはそれとして、流れには逆らえないという言葉が昔からあるということは、日本の川の流れが急であることを意味している。実際にそうである。明治の始めに日本を訪れたオランダ人が川を見て「これは川ではない、滝だ」と驚いたという話を聞いたことがあるが、これまで述べてきたようなモンスーン気象と日本の地形からして日本の川は急流である。しかも水量は豊か、さらに短流である。
 そうなると日本の川の水はきれいだということになる。急流が川の汚れを一気に流してくれること、水が豊かであることは少々のことでは水は汚れないこと、たとえ汚れても川が短いので汚れの蓄積の少ないうちに水は海に流れ込んでしまうことを意味するからである。
 このようにきれいだから、身体の汚れなどは川で洗い流すことができる。だから禊(みそぎ)なるものが古事記に出てくるほど古くから日本にあるのだろう。汚れた水では穢れを清めることはできないし、清めたことにはならないのである。
 また、『すべてを水に流す』などという言葉も生まれることになるのだろう。日本では『三尺流れて水清し』となるので、それでかまわないのである。

 だから日本ではほとんどの川で泳ぐことができた。といっても、浅い小河川がほとんどという地域もかなりあり、たとえば私の生家の山形の旧市内で泳げるところは馬見ヶ崎川の上流の堰のところだけ、私の小学校の場合は山形盆地の真ん中を流れる須川まで約3㌔歩いて学校行事として年一度泳ぎに行くだけだった。この須川は名前の通りに水が酸っぱかった。蔵王温泉の硫黄泉が流れ込むためである。だからそこで泳ぐと身体にいいと言われたが、魚は一切棲めず、川原の石は赤茶けていた。まさにこれは河川の汚染である。しかし、やがて須川が最上川に合流すると、そこで薄められて汚れは弱められ、魚が棲むようになる。このように、上流から中流、下流と下るにしたがって川はいろんなものを含んで汚れるのだが、豊かな水量に薄められ、急流のために滞留しないので、きれいになる。だから下流部でもきれいである。もちろん上流部ほどではないが、泳げる程度にきれいである。
 群馬県出身の大学時代の同級生は小さいころ利根川で泳いだ、対岸まで泳ぎ切れるようになることが子どもの目標だったと言っていたが、その下流部の千葉県銚子市出身の同級生もやはり子どもの頃利根川で泳いだとのこと、約200㌔流れてきても泳げるほどきれいだったということになる。

 宮城県南の海に注ぐ阿武隈川もそうだった。阿武隈川のほとりの町に住む家内は、小学校のときにここに連れて来られて泳いだという。学校にはプールなどない時代だったからである。大きくなってから、阿武隈川が福島県から流れて来るということがわかった。自分の町の、宮城県の川だと思っていたのにとがっかりし、それどころか急に水が汚く思えたという。
 それを笑いながら聞いた私は自慢した、山形県は他県から水は一切もらっていないと。県内のほとんどの水は最上川に集まって日本海に流れており、県の南西に位置する小国町の水だけは新潟県に流れていくが、他県からは水をもらっていないのである。それにひきかえ宮城県は、阿武隈川は福島県、北上川は隣りの岩手県から水をもらっており、水では自立できない県である。こういって家内を冷やかす。
 そういうと、福島県の人はこう自慢するかもしれない。私たちの県は太平洋ばかりでなく、日本海側にも水を流してやっていると。そうなのである、県の東部(中通り、浜通り)の水は太平洋へ、西部にある会津の水は阿賀野川となって日本海側の新潟県に流れ込むのである。
 ところで、太平洋と日本海のちょうど中間にある猪苗代湖の水は太平洋側に流れるのか、日本海なのか、こう聞くと福島県出身以外の人はほとんど答えられない。正解は、両方に流れ込むである。
 ただし、そもそもは日本海側にしか流れなかった。このことは会津地方の水はすべて日本海に流れていたということになる。猪苗代湖は会津の東端にあり、その東側には奥羽山脈があるからである。
 それを変えたのは明治の初めにつくられた安積疎水だった。猪苗代湖から郡山周辺に向けて水路をつくり、この地域の水不足を解消しようとしたのである。そしてそこから流れてきた水は郡山周辺の田畑を潤し、やがて阿武隈川を通って太平洋側に注ぐようになった。それで、会津の水は日本海ばかりでなく太平洋にも流れる、こうなったのである。
 この安積疎水ができる前の郡山周辺は水不足のために田畑があまりできず、「安達が原の鬼婆」の伝説が生まれるような荒涼とした地域だったという。しかし、疎水のおかげで豊かな田畑が開け、製糸工場など多くの工場ができるなどして、伝説を思い起こさせるような光景などなくなった(この中心部の郡山が国鉄の東北線、磐越東・西線、水郡線が交差する交通の要衝となったこともあるが)。
 こんな話をすると、利根川周辺の人はこう自慢するかもしれない、利根川はもっと雄大だ、関東以外の長野を始め、群馬、埼玉、栃木、茨城、千葉さらに東京まで流域としていると。
 このように川は県とか市町村とかの境界をこえて流れている。ただし、国境をこえては流れていない。そして水は国内ですべて自給してきたし、これからもそれができる風土をもっている。ここにわが国の特徴があるといえよう。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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