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水の汚れの存在意義と限度



            東北・日本の風土と農林業(8)

            ☆水の汚れの存在意義と限度

 前回述べたように考えてくると、汚れは必ずしも悪いことではなく、不要ではないことになる。

 そもそもこの世の中にいらないもの、不要物などというものはないのかもしれない。
 たとえば、我々が何となく気持ちが悪い、あんなものはいらないと考えているばい菌も自然にとって不要物ではない。もちろんなかには人間に悪さをするものもいる。しかしそれも自然にとってはもちろん人間にとっても必要である。たとえば、ものを腐らせるばい菌のなかには病気を引き起こすものがいるが、それがいなかったら、その結果としてものが腐らなかったら、世の中はゴミと排泄物だらけになってしまうし、植物も育たない。人間に悪さをするばい菌だって必要なのだ。それを食べることで生きているいいばい菌もいるのである。
 ついでに言うと、寄生虫、これも悪さをするばかりではないらしい。私たちの子どものころは回虫とかサナダ虫とかおなかのなかに入って悪さをする気持ちの悪い虫がいた。この寄生虫を体外へ出す「虫下し」という薬は家庭の常備薬だった。今はもうこんな虫はほとんどいない。ところが、それは別の問題を引き起こしているらしい。最近の花粉アレルギーの多発は人間が寄生虫をもたなくなったためだという説があるのである。だからといって寄生虫をお腹に飼っておきたくはないが。
 やはり悪いばい菌や寄生虫はいない方がいい。人間が病気になってしまったり、必要なものが早く腐敗したりしては困る。そこで必要となるのが、こうしたばい菌や寄生虫といかに上手につきあい、それによって害を受けないようにしていくかということである。
 もう一つついでにいえば、人間の劣性遺伝子も必要である。これは農大の畜産研究者IMさんに聞いたのだが、アフリカの諸民族がかかる病気に鎌状赤血球貧血症という血液が固まる遺伝病があり、何十万人に一人発現するという。一般的に考えればこんな悪さをする遺伝子はいらない。しかしそれは人間にどうしても必要なもので、血球をこわすマラリアの菌が簡単に移動できないようにするために必要な遺伝子で、マラリアの発症を抑えるのだそうである。ただ、その遺伝子をホモでもつと、血液を固めるという性質が優性化して現れ、病気となるのだという。
 そうなれば、この劣性遺伝子を排除、排斥するのではなく、いかにそれとうまくつきあっていくか、人間に害を及ぼさないようにしていくかを考えることが必要となる。そしてこの劣性遺伝子で病気になった人、避けることのできない何万分の一かの犠牲者は、我々のかわりの犠牲者であり、我々としてはいかに医学的に救い、社会的に大事にしていくかを考えることが必要となる。
 ところが、最近の子どもたちはいじめのさいにバイキンとか寄生虫とかいう言葉を使うと言う。そしてちょっと姿形が変わっているといじめる。それがいかに誤りであるか、それを自然とのつきあいを通じて、教育を通じて直していく必要があるのではなかろうか。ばい菌は必要なのだ、自然には不要物はなく、人間にもいらない人間はいないのだという教育こそ必要なのである。
 しかるに大人は除菌・抗菌グッズに狂う。また市場原理万能主義を振り回して弱者を排除する。この考えが子どもにも反映して、バイキン、寄生虫という言葉でいじめる。こうした除菌、抗菌の思想はまさに排除の論理であり、ヒトラーの優性思想、クローン人間の思想につながるものである。さらに、何でも不要物として環境に排出して環境を汚染し、資源を枯渇させてしまうことにもつながる。
 あらためて自然には不要物というものはない、存在するかぎりそのものにはその存在の意義があるのだということを認識する必要があろう。

 水の汚れもそうである。現に人間はそれをそのまま受け止め、汚れの程度に応じて利用の仕方を変えながらこれまで生活してきた。
 飲料水としては浄化されている地下水を利用し、あるいは川や湖沼の水を浄化して利用し、地域によっては上流の汚れの少ない水をその他の生活用水として利用した。
 また、流域の山林の土壌やそこに育つ植物の生産する有機物を溶解しながら流れる川の水を利用して田畑を灌漑し、豊かな土壌にして作物を育ててきた。こうした田畑や人々の住む町から川に流れ込む水はやがて海に到達し、そこでまた多様な動植物や微生物を生育させる。それをまた人間は利用して生活してきた。

 このように水の汚れも存在意義があり、必要物なのだが、何事にも限界がある。「過ぎたるは及ばざるがごとし」である。いくら汚れがあっていいのだと言っても、あまりにも汚してしまったら魚が死んでしまうし、農業用水としても生活用水としても利用できなくなる恐れがある。
 そうなると、水の汚れを取り去ること、つまり水の浄化が必要となる。
 しかし川は、静脈のように汚れた血液を心臓に運んで浄化し、きれいな血液にしてそれを動脈が運ぶというようことはしない。それならどうやって水は浄化されるのか。
 人間がまた自然が利用した結果汚れた水は、まず太陽エネルギーによる蒸散、結晶等の活動で浄化され、こうしてきれいになった水が降雨等で地上に運ばれる。
 また、汚れた水は土に浸透することによって地下水となり、その過程できれいにされ、やがて湧き水や汲み上げでもって地上に出てくる。
 問題なのはこの蒸発、浸透の過程で汚れを地上に残していくことである。その結果蒸発、浸透した水はきれいになるが、水を汚していた物質は蒸発もしくは浸透せず土地に残り、あるいは川や湖沼、海などに残されて水はきれいになるどころかかえって汚くなる場合がある。
 そこで人間は、こうすれば水や土地は汚れ、つまり環境が悪化し、農業も生活も継続できなくなって生きていけなくなる、逆にこうすれば環境を維持できるという法則性を発見してきた。そして、その法則性にしたがって生産・生活あらゆる面で自主規制、相互規制をし、さらには掟、決まり、法律をつくり、また海、山、川、森、田畑、鳥獣等々あらゆるものに神が宿るとして大事にし、生産と生活に必要不可欠の資源、環境を維持してきた。子どもたちにも家族や地域が徹底して教え込み、たとえば農地や水、山を汚したり、荒らしたりすると、親はもちろん隣近所の大人も厳しく叱ったものだった(註)。
 とはいっても、人間が生きているかぎり汚水・排水が出るのは避けられない。できるかぎり汚さないようにはするが、それにも限度がある。しかし、それでもよかった。普通は川などの汚れは自然の力が分解してくれるからである。たとえば微生物等が長時間かけて分解してくれたり、魚や水生幼虫が食べてくれる。自然はそうした処理能力をもっている。しかもわが国は先に述べたように急流、短流、水量豊富であり、悪いものは「水に流す」でかまわなかった。そしてほとんどの川で泳げるほど水はきれいだった。

 しかし、近年の水質汚濁は自然の処理能力を超えている。
 それは環境を大事にするというかつてのような自主規制・相互規制が農林漁業から人間が離れていく中でなくなってきたことからもたらされている。親が子どもの目の前で車の窓から川や道路、農林地に空き缶やペットボトルを捨てるなどというのはその典型例であろう。
 しかし、水質汚濁は個々人の倫理観の問題からだけ引き起こされているわけではない。1950年代後半の高度経済成長期からの社会経済構造が引き起こしたものだった。
 まず、高度経済成長のなかで進められた工業団地、コンビナート形成等は、工場廃液を大量に一ヶ所で川に排出させた。生産の集中・集積は廃液の集中・集積となって川を汚染したのである。
 次に、大量の都市下水の排出がある。大都市への異常な人口集中・集積が下水の異常な集中・集積となり、川を異常に汚したのである。もちろんそれに対応して下水道の整備も進められた。つまり、汚れた水を運ぶ川、人間の静脈といえるものを人工的につくって、自然には存在しない川をつくって解決しようとした。しかしあまりの急速な都市化の進展に追い付いていくのは容易ではなかった。
 こうした集中・集積の害は農業においても現れた。その典型例が多頭飼育された家畜が排出した大量の糞尿の一部の川への流入による汚染である。かつてのように多くの農家が分散して少頭数飼育している段階では、そして田畑に糞尿を肥料として投入していたときには、こんなことはなかった。しかし、畜産物価格の低迷、飼料の輸入のもとで多頭化せざるを得なくなり、その結果が糞尿公害だったのである。また、農薬、化学肥料の多投が川を汚染するという問題も引き起こされた。
 こうしたなかでとくに問題となったのが、河川、海洋の富栄養化だった。
 さらに、洗剤、プラスチック、環境ホルモン等々、自然力による分解が困難もしくは不可能な人工物が川、海に廃棄されるようになった。
 こうしたなかで人間にはもちろん動植物に有害、有毒となる量の汚物、廃棄物が川に流され、その水に含まれて海に流されることになる。命の水が有害物、有毒物になるのだから、人間も動植物も生きていけなくなる。
 こうした事態をいかに打開するか、これが高度成長期以降大きな問題となってきた(資本主義が始まって以来こうした汚染が大きな問題になったのだが、とくに一九六〇年以降緊急の課題となってきた)。そして排出物に対するさまざまな規制がなされるようになり、また住民運動や各人それぞれの自覚による自主規制もなされるようになり、河川や海洋の汚染はかつてほどではなくなってきた。しかし問題はまだ根本的に解決されていない。
 水の質の問題ばかりではない。水の量の面でも考えなければならなくなってきている。

(註)11年10月24日掲載・本稿第三部「☆規制と教育の必要性」(3~4段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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