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植物工場と資源環境問題




               日本は「資源小国」?(9)

             ☆植物工場と資源環境問題

 いうまでもなく植物は土地、水、空気、熱、光があってはじめて育つものである。
 植物の生育にとって土地がどのような役割を果たすかについては前回述べたので省略するが、水について言うと、それは植物に吸収されて植物体の不可欠の一部をなし、また植物の養分となるものをそのなかに溶解し、可給性養分に変え、植物体内に運搬する役割を果たしている。
 空気は、まず植物の成長のための空間を与えている。植物が地上で茎を伸ばし、葉を伸ばし、実をつけることを可能にする手段となっており、また光合成や呼吸作用を行う場を与えているのである。つまり大気は植物の地上での容器、植物が成育するための装置として機能している。さらに、空気のなかの二酸化炭素、酸素等は植物の光合成、呼吸作用を通じて植物に吸収され、それがそもそももっていた姿を変えて植物体の一部を形成する。
 また、光と熱は植物体の光合成、呼吸のさいのエネルギーとして機能する(註1)。
 この熱と光は太陽によって与えられ、土地と水、空気は地球にそなわっており、まさにそれは「自然資源」である。そしてそれらは管理が良好であれば無限の長期間にわたって利用できる。つまり枯渇せず、更新して利用できる。したがってそれらは「更新資源」と呼ばれる(註2)。
 こうした更新資源の利用によって農業は営まれてきたのであるが、植物工場はそれとまったく逆のやり方で植物を生産しようとする。

 植物工場は、その外とは完全に遮断され、太陽エネルギーはまったく利用せず、電気の光で植物に必要な光をコントロールし、石油・電気により冷暖房し、二酸化炭素を加えて空気の組成も変えるなど、完全に人工的に生産環境をつくった上で養液栽培をする。つまり、土地資源ばかりでなく、光、熱、空気の気象資源まで、つまり自然的生産手段のすべてを人工的生産手段に完全におきかえ、思うように生産しようとするのである。
 これは大きな進歩であるように見える。気象や土地条件に左右されず安定した生産量を得るということは人間が農業を始めて以来追求してきたものであり、植物工場はそれを実現したといえるかもしれないからである。しかも農薬や除草剤は使わなくともいいので身体にも安全である。まさにこれは夢の農業だ。マスコミはこう言って派手に取り上げ、消費者も新しい農業としてこれに注目し、生産者の中にもその導入に取り組もうとするものも出てきた。
 同時に、大企業の中には、この生産に農薬が使われないことに着目して植物工場の生産物の取り扱いや経営に乗り出し、食の安全をうたい文句にして販路を確保・拡大しようとしている。そして消費者の中にはそれに踊らされ、植物工場の生産したものは安全だとして購入するものもいる。

 しかしここで考えなければならないことがある。
 そもそも農業は太陽エネルギーという地球外から来る資源を利用する産業だということである。そして農業は植物という新たな資源・エネルギーを創出して地球に新たに付け加える。また、地球上の資源・エネルギーを反復・循環して利用し、それでもって環境を保全し、さらには修復する。
 ところが植物工場はそれとはまったく逆であり、化学肥料を多投し、石油・石炭等のエネルギーを多く消費し、施設や機械に有限の資源を用いる。つまり地球上の資源・エネルギーを消耗し、枯渇させる。さらには二酸化炭素を増やす。そして資源枯渇問題、地球環境の汚染問題を深刻化させる役割を果たす。
 土地がなくなったわけではないし、太陽エネルギーもまだまだあるにもかかわらずである。なぜそんなことをしなければならないのだろうか。
 もちろん、われわれは自然条件による影響からの脱却に努力してきたし、これからも努力していかなければならない。しかし、それは容易でないことはいうまでもない。土は難しく、気象の克服も難しい。そこで植物工場はその難しさを避けて通ることで、つまり土を使わず、変動する気象を遮断することで解決しようとする。
 しかしその難しさにたじろいではならないのではないか。現にこれまでそれにまともに立ち向かい、自然を克服、活用する技術を発展させてきたではないか。その伝統を受け継ぎ、技術と技能の力で自然を克服、活用していくことこそがわれわれに課せられた課題なのではなかろうか。
 ところが学生諸君のなかには植物工場こそ未来の農業だと考えるものがいる。はたしてそうなのか、改めて疑問をもつべきであろう。ましてや世界の食糧問題を考えるべき学生は、植物工場で世界中の人々にその必要とする米や麦を生産できるかどうか、もしできたとしてもそのために資源やエネルギーをどれだけ使い、環境をどれだけ悪化させるかを考えるべきではなかろうか。
 もちろん植物工場を全面否定するわけではない。地域によってはそうしたものも必要であるし、研究も大いにやるべきである。たとえば植物の生理生態の精密な研究、太陽エネルギーの一層の活用による極地での植物生産の可能性の研究等々のために、生産の施設化・自動化の研究も必要である。また、ウィルスフリー苗の組織培養・増殖などの農業生産においても必要である。しかし植物工場をこれからの農業のあり方だと考えてはならないのではないか。

 もう一つ考えなければならないことは、土から離れるものは資本に支配される、土から離れれば土地から離されるということである。
 土があるから、土耕が難しいから、これまで資本は農業に入り込めないできた。連作障害にはなるし、土地と一言で言ってもさまざま異なるし、経験と技能なしでは土を使いこなすのはきわめて難しいからである。しかし、土から離れた、工業生産と同じような植物・動物生産であれば資本は十分に入り込める。ということは土から離れた養液栽培には、ましてや気象からも切り離された植物工場には、資本が入り込む可能性があるということを意味する。そして、その巨大な資本力で大量の雇用労働力を用いて大規模な植物工場を経営し、市場を支配していく可能性がある。それが現実のものとなれば、農家の経営する養液栽培や植物工場は資本力、販売力のある企業の植物工場に負けてしまって、潰されるか、企業の下請けや実質的な労働者にさせられてしまうか、いずれかの道をたどらざるを得なくなるであろう。
 かつて農基法農政が推進した養豚、養鶏がどういう結末をたどったかを考えればそれがわかるであろう。さきにも述べたように、戦後の養豚、養鶏は輸入飼料に依存し、土から切り離されるようになった。そして施設設備のために巨額の資本投下を必要とする分野になった。こうした畜産であれば企業の進出が可能である。もちろん当初は、生物生産であり、飼育に特殊の技能が必要とされる状況にあったのでなかなか入り込めなかった。しかし、養豚、養鶏農家は、さまざまな失敗、成功を繰り返しながら規模拡大を進め、大規模飼育の技術を確立した。そのとたんに企業が生産に直接進出するようになった。そして企業養豚、企業養鶏は巨大な資本力と販売力をもとに農家養豚、農家養鶏をインテグレーションの支配下におき、さらには駆逐して、中小家畜の生産から流通まで支配するようになった。こうしたなかで、先進的に取り組んだ農家は巨額の負債をかかえて離農せざるを得なくさせられ、構造改善事業等でつくられた立派な畜舎が蜘蛛の巣の張った廃屋となっているという風景が各地でみられるようになった(註3)。
 この二の舞を養液栽培や植物工場で繰り返してはならないだろう。多額の資本を投下した立派な温室が使われなくなり、ガラスが何十カ所も破れているようなハウスが各地でみられるというような荒廃した風景にしてはならないのではなかろうか。
 さらに考えなければならないことは、もしも資本が農業を支配した場合のことである。環境をまもる京都議定書に一番反対しているのがアメリカや日本の巨大資本、多国籍企業であるが、こうした資本が農業生産を押さえたらどうなるかを考える必要があろう。
 ともかく農業は土と太陽が基本であることを忘れてはならない。土と太陽の難しさにたじろいではならず、それを農学と農業者の力、技術と技能の力でいかに克服していくか、そして土と太陽を活用しながら労働が軽減されるような技術をいかにつくりあげていくかということを考えなければならないのである。

 ちょっとだけここで脱線させてもらう。
 10年ほど前、私のいた農大の学生のゼミ旅行で、小豆島でイチゴの養液栽培をしている卒業生OK君の家を訪ねて勉強させてもらった時のことである。養液栽培のハウスで学生諸君が話を聞き、さらに見事に実っているイチゴを食べ放題でご馳走になった後、OK君が隣にあるハウスに案内してくれた。そこではイチゴの土耕栽培をしていた。食べて見てくれ、養液栽培と比べて味はどうだと彼がいう。それでみんなで採って食べて見た。学生諸君は異口同音に土耕の方がおいしいといった。彼もそうだろうという。そして自分はいつも土耕のイチゴを食べていると言う。
 ここに水耕と土耕の違いがあるのではなかろうか。なぜそういう差が出てくるのか私にはわからない。養液には含まれていない微量要素が土のなかにあるのかもしれないし、あるいは土のなかの各種養分の微妙な配合の違いがそうさせているのかもしれない。土はたしかに難しいが、土の重要性がそこにあるのではなかろうか。
 このように土耕栽培のイチゴが養液栽培よりおいしいとなれば、当然土耕イチゴの値段が高いはずである。ところが需要の旺盛な季節は値段はほぼ変わらないが、それ以外の季節は土耕の方が安いと彼はいう。養液栽培の方がブランド化しているからだそうである。
 本来からいうとこれはおかしい。品質、味のいい方が使用価値としては高いはずだからである。しかも土耕栽培は栽培が難しく、手間もかかっているので、(交換)価値の面でも高い。だから価格は土耕栽培が高いはずである。
 ところが必ずしもそうならない。現実の市場価格は品質や味、投下労働量では決まっていないのである。一定量、一定品質のものが一定時期に必ず出されるということで市場の評価が定まったもの、いわゆるブランド化しているものの価格が高い。つまり一々品質等を評価する手間、荷を確実に集める手間が省けるものが市場では高く評価される。市場の都合で価格が動かされているのである。消費者優先の時代だ、消費者の要求に応えなければならないなどというが、現実には市場の要求に応えているだけである。生産物のうまみではなく流通資本のうまみでもって価格が決まっているのである。
 消費者も土耕か水耕かなどわからない。見栄えさえよければ買う。味や品質よりも見栄えなのである。これでは土耕栽培の生産物は高く買ってもらえない。当然、低価格で労働のきつい土耕栽培などやっていられない。それで養液栽培にいくことになる。
 こうした消費者の考え方を変え、また現在の市場のあり方を変えて、土を活用してしかも労働が軽減されるような技術をどうつくりあげていくかが課題なのではなかろうか。

 繰り返していうが、日本は資源がないというけれども、日本には豊かな土地、水、太陽エネルギーがある。しかもそれは使ったらなくなるものではない。太陽の光、熱、地球のくれる空気、水、土、地熱等は、再生可能な資源・エネルギーなのである。しかもそれらの利用は地球環境を汚染しないし、かえって環境をまもってくれる。
 そして農業は、それらを利用するきわめて経済的・効率的な産業であり、しかも植物という新たな資源・エネルギーを地球に作り出すものでもある。改めて農業というものを見直し、その発展を図っていく必要があるし、他の産業もそれに学んでいくこと、太陽エネルギーを始めとする再生可能な資源・エネルギーの活用に取り組んでいくことが必要なのではなかろうか。

(註)
1.太陽エネルギーと地球の運動によって基本的に規定される気象を構成する要素も植物の生育を左右するが、これについては省略する。必要があれば拙稿『農業資源経済論』(農林統計協会、1955年刊)を参照していただきたい。
2.これに対して、一度使えば消滅し、そのままの形では生産力の一要素としてふたたび利用できないものは非更新資源といわれる。地下の金属鉱物、石炭、石油等はその例である。
3.11年8月1日掲載・本稿第二部「☆平坦部への施設型畜産の普及」、
  11年8月3日掲載・本稿第二部「☆農業分野への資本の進出―インテグレーション―」参照

(追記・13年8月)
 家の光協会発行の雑誌「地上」13年9月号に『植物工場のいま』と題する記事が掲載されている(12~13、33~41頁)。植物工場の現状がきわめてよく書かれており、その本質に迫っているので、ぜひ参考にしていただきたい。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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