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イモ掘り、イモ拾い、ダンプカー



               イモ談義(2)

           ☆イモ掘り、イモ拾い、ダンプカー

 ジャガイモの掘り取り、その日が休日なら私たち子どもも手伝った。イモに傷をつけないように注意しながらイモを植えてある畝の下を大人が鍬で深く起こす、こうして柔らかくした土の中から家族総出でイモを手で掘り起こすのだが、けっこう人手がかかるものだったからである。
 ましてや栽培面積の大きい北海道、子どもたちも総動員でイモ掘りを手伝ったことだろう。たしかにそうだった。学校行事としても子どもたちは手伝ったという。それを聞いたのは、1950年代後半に釧路周辺の小学校の先生となり、そのままそこで退職まで勤め上げた私の中学・高校時代の同級生の女性からだった。私が網走で勤めることになったのを聞いてご主人といっしょに訪ねてきてくれ、車でいろいろ周辺の案内をしてくれたとき、こんな話をしてくれたのである。
 北海道ではジャガイモの収穫時期がいわゆる農繁期なので、当然のことながら子どもたちも手伝う。小学校も学校行事として収穫の手伝いをさせる。ところが、それを「イモ掘り」の手伝いとは言わない、「イモ拾い」という。穫り残してたまたま畑に落ちているイモを「落ち穂拾い」のように拾うのを手伝うだけなのだろうか。「イモ掘り」ならわかるが、その程度の作業なら学校を休んでまで手伝うほどのことはないではないか。そう思いながら子どもたちについて畑に行った。そこで初めてわかった。「イモ掘り」は馬の仕事だったのだ。馬が曳く掘り取り機でイモの植えてある畝を下から掘り起こす。するとイモが土の中から顔を出す。それを拾うのだからやはり「イモ拾い」なのである。なるほどと思ったのだが、東北人としては感覚が合わず、ついつい笑ってしまったという。
 もちろん、落ち穂拾い的なイモ拾いもかつてはやったようである。取り残したらもったいないから当然のことであろう。
 ところで、馬が曳く掘り取り機は何と呼んでいたのだろうか。そもそも「イモ拾い」は本当に私の記憶通りでいいのか。ちょっと不安になって網走管内育ちで農大オホーツクキャンパス元事務部長のFMさんにメールして聞いてみた。そしたらFMさんの子ども時代(1950年代)の「イモ拾い」のイメージが目の前に浮かぶような返事が返ってきた。非常に貴重な証言なので原文のまま引用させてもらうことにする。

 「イモ掘りの機械は確か、通称『ガラガラ』とか言ってたようでした。ジャガイモの収穫作業に竹製の『イモカゴ』を持たされて『イモ拾い』を何度もさせられました。
 馬2頭引きのガラガラで一畝(うね)づつ掘り起こすンです。馬の歩く速度に合わせて5、6本の鍬のようなモノがガラガラ回り、イモを土ともども2間(4㍍弱・筆者註)ほどの幅にモウレツな勢いで飛ばすンです。
 通り過ぎた直後に大人も子どももイモカゴを持って、次ぎに回って来るまでにそれこそモウレツな勢いでイモを拾い集めるのです。
 1頭引きですと、馬も疲れてタマに休むのでイモ拾いも楽でした。2頭引きですと馬は休まないし、足も速くなるので、拾う作業は汗だく。子どもだったせいもあるけど。
 イモカゴは重いし、手袋なんて無く、手は泥だらけ。靴はゴム制の短靴。靴下なんて洒落たもの履いてないので、靴のなかは汗でヌルヌル、何回も脱げたものです。それこそ手も足も泥だらけ。
 イモ拾いは農作業のなかでも人手が多くいることから農家にとって『一大事業』だったようです。作業が終わって『ぼたもち』をご馳走になるのがとても楽しみでした」

 いうまでもなく今は機械化され、イモの収穫はポテトハーベスターで掘り取りから収集まで一気になされる。だからイモ拾いの作業はいらなくなり、子どもが手伝う余地はなくなってきた。とはいっても、機械からこぼれたり、掘り残したりしたイモがあるはずであり、その落ち穂拾い的イモ拾いはあるのではなかろうか。だってもったいない、あれだけの面積なら拾うとけっこうな量になるはずだからである。しかし、今はあまりやっていないようだ。それがわかったのは学生の農業実習のときだった。
 農大オホーツクキャンパスに来る学生のほとんどは北海道の農業、農家のことをまったく知らないので、実際に農家に行って手伝わせてもらうことでまず勉強させることにしているのだが、6月の場合は農繁期ではないのであまり仕事がない。しかも学生はまったくの素人である。それで多くの農家は畑の草取りを手伝わせる。農薬や機械で除草しているといってもやはり草は生えるし、その伸び方は都府県よりもずっと早いので、手で取ることが必要なのである。大面積の畑を何百㍍も行ったり来たりして草を取るのはけっこう大変である。私たち教員は学生を引率して行って農家に預けた後、学生がきちんと働いているか、何か問題が起きていないかを車で見てまわる。何しろ広大な畑、学生がどこの畑で働いているのか探すのが大変、全部まわるのに一日十分にかかる。
 ビート畑で草取りをしているところに行ってみる。どんな雑草が生えているかを見ると、いわゆる雑草は少ない。大半がジャガイモだ。穫り残したイモが発芽してビートの畝間に伸び伸びと成長しているのである。これを取って捨てるのが仕事だ。イモの苗を引っこ抜くのが除草、草抜き=イモ苗抜き、何とも奇妙である。大小さまざまだが、大きいもののなかにはすでに小イモがついているものすらある。抜くのは何とももったいない気がする。農家の方にそういったら「そうだなあ」と苦笑する。とは言っても収穫時期は忙しくてイモ拾いなどしている暇がない。一戸平均10㌶のジャガイモ畑、拾って歩くなどというのは容易ではない。農家の方はその後にこう付け加えた。
 「昔は掘り残したイモは一冬越すとみんな凍って枯死したものだった。ところがこの頃は凍らずに残り、春になると芽生えてきて作業のじゃまをする。昔みたいに寒くなくなったからだが、これも地球温暖化のせいなのだろうな」
 流氷の来る日数も量も減っているらしい。さきほどのFMさんもよく言っていた、かつては大量の流氷が押し寄せてきて浜辺に山のようにもりあがり、海沿いの道路から海が見えなかったものだったと。ところが今はそんな景色は見られない。年々減ってきている。私がいた7年の間でさえ毎年流氷は少なくなっていた。農家の方のいう通り、温暖化は着実に進んでいるようである。

 網走市街地から屈斜路湖、摩周湖に車で向かうときは、オホーツク海・釧網線に沿って北浜駅(註)のところまで行き、そこから右折して藻琴(もこと)湖と濤沸(とうふつ)湖の間を通り、広大な畑のど真ん中を貫くほぼ一直線の道路を走っていく。対向車はほとんどない。自分の車の専用道路のようである。
 その途中、道路沿いに高い白色のタワーが建っている。農協の澱粉工場である。
 9月末のさわやかに晴れた秋の日、左側に知床連山と斜里岳を見ながら、その道路を気分良く走っていく(運転は家内だが)と、突然反対車線にダンプカーがずらっと並んで停車しているのにぶつかる。100台以上いるのではなかろうか。荷台にはジャガイモがうず高く積んである。そうだ、今はジャガイモの収穫最盛期だ。ダンプは一台ずつ道路脇の澱粉工場に入り、イモを荷台から降ろしてまたイモ畑に向かって出て行く。しかしダンプの台数は減らない。後から後から続いてくる。こんなに農家はダンプカーを持っているのだろうか。収穫だけではなく運搬までしていたら労力も時間もかなりかかるだろう。
 そんなことを思いながらダンプをよくよく見ると、荷台の横や後ろに運送会社や土建会社の名前が書いてある。そうか、農家はジャガイモの運搬をそうした会社に委託しているのだ。
 澱粉工場ばかりではない。ポテトチップの工場や生食用の貯蔵庫への運搬もある。しかも網走市内だけでイモ畑が3000㌶もあるのだ。ダンプは大忙しだ。それが収穫期間の約一ヶ月近く続く。
 10月末になるとビートの製糖工場への運搬がある。ビート畑も3500㌶ある。農家も共有、個別所有のダンプなどで運搬するが、大半は委託だ。
 後で聞いたら、会社はその運搬受託を勘定に入れて本業を経営しているのだという。つまり農業があって経営が成り立っているのだ。したがって、もしもイモやビートの生産がなくなったら、運送業や土建業の経営が成り立たなくなる。澱粉や製糖などの農産加工や農業機械等の関連産業ばかりではないのだ。自動車会社やガソリンスタンドも潰れてしまう。北海道の産業は農業が支えているのである。
 ところが財界やマスコミは、安い砂糖や澱粉が外国にあるのになぜ農家を保護してビートやジャガイモをつくらせるのだ、もっと輸入を自由化して日本を開かれた国にしろという。もしもその言うことを聞いてこれ以上自由化したら、北海道の畑作地帯は壊滅し、それに関連する産業も壊滅し、北海道の大半は無人の地となるより他ないだろう。自由化は農業、農家だけの問題ではないのである。
 そんなことをしみじみ感じさせる網走の秋だったが、TPPが騒がれている今、ますますその感を強くしている。

(註)
 日本で一番海に近い駅、古い駅舎に風情があってさまざまな映画の撮影場所となってきたことで有名、さらにオホーツク海の向こうに知床半島がきれいに見える、流氷が目の前で見られる、すぐ近くに原生花園がある等々で、観光客の人気スポットとなっている。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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