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麦ご飯、臭いメシ、麦雑炊



                  麦談義(1)

             ☆麦ご飯、臭いメシ、麦雑炊

 麦とろがおいしいと前回言ったが、牛タンに麦ご飯もおいしい。なぜなのだろうか。
 そもそもなぜ牛タンが仙台名物なのか。仙台は豚肉文化地帯なので、牛タンを食べる文化など育つわけがない。不思議に思っていたのだが、それは次のようなことからだそうだ。
 仙台は旧日本陸軍の第二師団の所在地、戦前は日本軍の兵舎や練兵場などがたくさんあった。戦後こうした施設はすべてアメリカ占領軍によって接収され、そこにかなりの数のアメリカ兵が駐留した。彼らはぜいたくだった。仙台市民が水道の断水で困っているときにアメリカ軍のキャンプのプールには満々と青い水がたたえられ、3~4人がのんびりと泳いでいた。彼らの食事もぜいたくだった。当然牛肉も大量に消費した。ただし日本は食糧難、しかも今のように肉牛飼育などやっていなかったので、アメリカから直接大量に牛肉を持ち込んで食べた。だけど彼らは牛の舌は食べない。当然捨てることになる。米軍に雇用されている日本人の料理人はそれを毎日見ていた。そのうちの一人が考えた、食糧のない時代、これを捨てるのはもったいない、何とか食べられるようにできないだろうかと。そしていろいろ工夫してできたのが今の牛タン、米軍基地から不用の牛タンをもらってきて屋台等で売り始めた。それが大好評、やがて仙台名物にまでなったと言う。
 さて、この牛タン、たしかに麦ご飯にあう。麦ご飯はさっぱりしており、若干口の中で抵抗感があるので、牛タンの味とその舌触りが引き立つのである。
 ところが白米のご飯だとちょっと甘すぎ、するするっと入ってしまう。これでは牛タンも、前に述べたとろろも、引き立たない。こういうことから麦飯となっているのだろう。私の素人考えでしかないのだが。

 しかし、麦とろや牛タンといっしょに出る今の麦ご飯は、かつての麦ご飯とは違っている。かつてはもっとまずかった。とはいっても私は母の実家で食べる麦ご飯は嫌いではなかった(註1)。生家ではいつも白いご飯だったのでめずらしいこともあったからだろう。しかしちょっと臭みがあり、固くて粘り気のない麦が口の中でごそごそし、やはりおいしいとは言えなかった。米に比して麦が多かったりしたらましてやおいしくなかっただろうと思う。
 私が網走にある農大のキャンパスに7年間勤めに行くと聞いた人たちの何人かが「7年の刑で網走監獄に服役ですか」と冷やかした。東北の地方紙『河北新報』の当時の編集局長OMさんなどは「政治犯でいよいよ『臭いメシ』を食うことになりましたね」と言って笑った。何しろ網走は政治犯を収容した監獄があることで有名、しかも私は昔でいえば政治犯で捕まるような発言や行動をしてきており、こう言われてもしかたがないのだが、この「臭いメシ」とは実は麦飯のことだった。刑務所では麦のたくさん入った飯(「ごはん」というより「めし」と言った方がいいだろう)、まさに麦飯=「臭いメシ」を食べさせるところだったのである。
 町でも村でも、貧しい家は、また気象条件等から米をつくれない農家は、こうした麦飯を食べた(註2)。臭くてまずかったが、麦飯を食べるといいこともあった。戦前の日本で大きな問題となっていた病気の「脚気」にならなかったことだ。麦に含まれるビタミンB1がそれを防いだのである。だから貧乏人はかからず、脚気は金持ちの病いだった。もちろん、貧乏人はそれを知っていて麦飯を食べたわけではなく、米を買う金がないから麦を食べただけだったのだが。
 それはそれとして、この麦飯をおいしく腹の中に押し込むのにはトロロがいい、かくして麦とろとなったのではなかろうか。また戦後の食糧難のなかでのまずい麦飯、これを抵抗なく食べるのには牛タンが合う、こうして牛タンと麦ご飯が結びついたのだろう。
 今の麦ご飯、かつてと違って食べやすく、おいしくなった。「押し麦」に加工された麦が用いられるようになったからである。麦とろ、牛タンと麦ご飯、ますますおいしくなっている。ぜひ仙台に来て食べていただきたい。ただ一つ気になるのは、牛タンの大半が輸入物だということである。しかし、外国では食べずに捨てるものを有効利用しているだけであり、世界の食糧問題や環境問題を悪化させることもなく、しかも日本人が開発した食文化、これは許せるものと考えている。ただし、BSE感染の恐れのある牛の舌の輸入だけは勘弁してもらいたい。

 ちょっとだけ脱線させてもらいたい。
 網走刑務所は重罪犯人の入るところというイメージがある。そして網走に悪い印象をもつ人がいる。しかし今は昔と違って割に軽い刑の人が入るそうだ。だから、オホーツクキャンパスの教員仲間のNMさんは私に言う、仙台の刑務所は死刑や無期懲役の囚人が入るところ、仙台の方が重罪犯人がいるところなのだ、網走に対するイメージを変えてもらいたいと。続けて言う、仙台で終身刑で終わるところだった先生を私たちが七年の刑に軽減してやったのだと。軽減してもらったどころではない、網走では本当に楽しい生活を送らせてもらった。「臭いメシ」どころかおいしいオホーツク海の肴で楽しませてもらった。暗いイメージなどは一切なかった。
 さて、話を戻そう。

 いうまでもないが、この麦飯の麦、これは大麦である。つまり大麦は米飯の増量剤として、補助食料として主に用いられてきたのである。
 しかし、大麦を主食の一つとしているところもあった。それがわかったのはつい最近、さきほど「いも餅」のところで述べた岩手県の北上山地の中心部葛巻町においてであった。大麦を雑炊(「じょうすい」「じょうす」と言っていた)にして米飯・ヒエ飯のかわりに食べていたのである。
 煮干しを入れた味噌汁で大麦をじっくり煮こみ、それに好みのもの、たとえばササゲ(紫)、大根の千切り、ゴボウ、ニンジン等を加えてまた煮込んで食べるのである。これはおいしかったが、煮るのにかなり時間がかかるので、雨の降る日、つまり外で働けず、家の中にいるのでゆっくりと煮込める日にしか食べられなかった。だから雨の日は楽しみだったともいう。
 しかし、もう今は食べなくなった。大麦も栽培していない。でも、もう一度「じょうすい」を食べたい、こう葛巻のお年寄りがいうほどおいしかったようだ。ヨーロッパでは大麦を煮た粥状のものが食べられており、古代ローマでは主食として重要なものだったと聞いたことがあるが、日本でも主食の一つとして食べたところがあったのである。他の地域にもきっとあったのではなかろうか。
 できたら私もこの「麦雑炊」を食べてみたい(註3)。何とか復活できないだろうか。そしてそれをB級グルメコンテストに出し、せんべい汁(註4)と並ぶ南部・北上山地の名物料理として全国に売り込んでもらいたいものだ。

(註)
1.10年12月7日掲載・本稿第一部「☆米が食べられなかった稲作農家」(1段落)参照
2.戦後すぐの1950年、当時の池田蔵相(後の首相)が国会で「貧乏人は麦を食え」と発言したことが大問題になったことがあったが、麦飯はそういう位置づけだったのである。もう少し発言について詳しく言えば、国民みんな米を食べたがるから問題なのであって、「所得の少い人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うというような、経済の原則にそった方へ持って行きたい」というものだった。格差があるのは当然などというのは昔の政治家も今も同じこと、しかしそのときの世論の批判が強かったことが今と違うところだろうか。

3.葛巻出身の若手研究者NK君にそう言ったら、自分も食べたことがある、とっても美味しかった、つくれると思うので、ぜひつくってご馳走したいとのことである。楽しみにして待っているところである。
4.10年12月5日掲載・本稿第一部「☆米を食べられない村」参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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