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農家の暮らし(4)

   

            ☆線路と歩き

 不便といえば交通もそうだった。もちろん列車やバスは走っている。とくに主要な都市、地域をつなぐ国鉄の鉄道はほぼできていた。一九五〇年頃は、国鉄線路のない郡は全国で二つだけとなっていた。そのうちの一つが家内の生家のある宮城県伊具郡だった。ところがその郡内に駅がある。線路も通っていないのにと不思議に思ったら、国鉄のバスが通っており、その主要な停留所、職員のいる停留所を駅というのだという。このように鉄道のない主要な道路は国鉄がバスを走らせた。仙台から古川、築館を通る国道四号線、ここは鉄道が平行して走っていないので、やはり国鉄バスが走っていた。それ以外にも民間のバスがあった。
 しかし、路線は少なく、本数も少なく、運賃も高かった。しかも駅や停留所まで行く交通機関がない。そこまでは歩かなければならない。だから遠くに行くときとか、特別のときしか乗らず、基本的には歩きだった。
 近くはもちろん歩きしかなかった。私の生家のある山形市内でもそうだった。バスは市外に行くときしか乗らなかった。仙台、秋田、福島などには市電があったが、山形にはなかったからなおのこと歩きが普通だった。函館の親戚に行った五歳のとき、生まれて初めて電車を見た。興奮した私は電車が通るたびに二階から身を乗り出し、大きな声で「電車が来た」と騒いでいたそうである。
 自転車はあったが、当時の所得からすると現在の乗用車並みの価格で、持っている家などはまだ少なかった。だから歩くのが当たり前だった。当然のことながら子どももそう考えており、歩くことには慣れていた。

 五歳の春のことである。祖父に連れられて薬師神社のお祭りに行った。すぐ下の妹といっしょに家から街の中を通って三㌔くらい歩き、神社近くの親戚の家で休んだ後、お祭りを見に行った。山形一のお祭りでたくさんの人が出ている。サーカスのジンタを聞きながらあちこち露店を見て歩いた。ふと気が付いたら祖父と妹の姿が見えない。人混みのなかだし、こちらは背が小さいので捜せない。迷子になってしまった。涙を抑えながら親戚の家まで戻った。着いたとたん泣いてしまった。おやつをもらって待っていたが、祖父はなかなか帰ってこない。今考えてみたら当然のことである。祖父は私を必死になって捜し、さらに警察署にも届けたりしていたからだ。しかし私は退屈してしまった。親戚の家は店をやっていたし、お祭りで忙しかったからなおのことである。それで私は帰ることにした。親戚の小母は心配して止めたが、それを振り切って、子どもにとっては遠い遠い道をとことこと一人、歩いて家に帰った。祖母は迷子になって一人で帰ってきたことを聞いてびっくりしたが、今のように電話があるわけでもないので、祖父と連絡がとれない。夕方近くになって祖父が帰ってきた。私を見て安心し、すぐに引き返した。警察署に行って迷子届けを取り下げるためである。何回も往復させて祖父には悪いことをしたと当時は思ったが、孫を持つ身になって初めて祖父がどんなに心配したかがわかった。今考えると本当に申し訳なかったと思う。それはそれとしてともかく幼児でも二~三㌔歩くのは普通だったのである。
 小学校に入ると低学年でも遠くまでお使いに出された。もちろん歩いてである。私が小学三年、妹が二年だったとき、戦争による列車不足で母の実家に行く切符が取れず、しかたなく母方の祖父といっしょに約十二㌔も歩いて行ったこともあった。友だちといっしょに三~四㌔先まで歩いて遊びに行くときもある。そのときだけは家の許可を得なければならなかったが、簡単に許された。
 今のように自動車が走っていないので交通事故の心配はない。しかし街を離れると肥壺からまむしから危険はいっぱいである。それでも平気で子どもを遠距離歩かせた。子どももそれに何の疑問も感じなかった。疲れるけれどもそれしかなかったからである。

 なお、家内の故郷にも一九六〇年代後半に待望の鉄道が敷設された。しかし、完成当時は車社会になっていたので乗客は少なく、全国最高の国鉄赤字路線として有名になった。それでもともかく路線は残り、現在は民営の阿武隈急行線となっている。よく廃線にならなくてすんでいると思う。
 それに対して北海道の廃線はすさまじかった。九九年、網走への転勤のために片づけをしていたとき、一九六八(昭和四十三)年の北海道の地図が出てきた。それを見て改めてその当時いかに鉄道が道内を走っていたかを感じた。ところが今は当時の半分以下の線路しかない。都市を結ぶ主要幹線以外ほとんど廃線となっている。網走に行ってそれを実感した。知床斜里から網走を通って稚内までのオホーツク沿岸を走る線路の建設はもう少しで全線つながるというところまで行きながら中止され、それどころか網走から湧別までの湧網線はサイクリング道路となるなど、その大半は廃線となっていた。阿寒湖のすぐ近くまで行く美幌から相生までの相生線もなくなり、終点の北相生駅が記念に遺されているだけになっていた。この話を農大オホーツクキャンパスのMTさんにしたら、彼はこう言った、「北海道の鉄道路線は明治時代に戻ってしまったんですよ」と。私が網走を去った〇六年にも北見から帯広までいく池北線(ちほくせん・民営化された後のふるさと銀河線)が廃線となった。
 東北は北海道ほどではないが、JRから切り離され、いつ廃線になるかわからない運命にある赤字路線がたくさんある。かつての東北本線でさえ、盛岡~八戸間は新幹線ができたから廃線だと騒がれている(民営化されて路線は何とか残ったが)。
 かつてはローカル線の赤字を大都市の黒字で補ってきた。そして少なくとも一九六〇年代までは国鉄の線路の整備を進めてきた。それで都市と農山村、中央と地方の交通格差を縮小してきた。しかし今は何かと言えば費用対効果を言い、農山村地帯の不採算路線を切り捨てる。
 もちろん、自動車の走る道路は整備されてきた。このこと自体はいいことだが、こんなにまで鉄道をなくし、過疎化に拍車をかけていいのだろうか。囚人やタコ部屋労働者の血と汗でつくられた北海道の鉄道、国民の資産である線路をここまでなくしていいのだろうか。こんなことをいうのはかつての鉄道マニアのノスタルジアなのだろうか。
 さらに最近では、道路でさえ農山村を切り捨てようとしている。北海道の高速道は車よりもヒグマの通る方が多い、税金の無駄遣いだなどと騒ぐものもいる。しかし数は少なくともそこに人は住んでいる。しかも大都市に行かなければ用をたせないことが多くなっており、医者に緊急に行かなければならないこともあり、道路は不可欠である。こうした人は見捨てていいのか。不便だからと農山村を見捨てて都会に行く、そうすると過密問題に拍車をかけ、たとえば都市の交通渋滞、公害問題に拍車をかけてかえって税金がかかるということもあるではないか。人口のバランスのとれた配置こそ必要であり、そのために税金を使うのがどうして無駄遣いなのだろうか。ヒグマが通ったっていいではないか。「人間とヒグマの共同利用道路」、これも面白いではないか。経済大国と称する日本だ、これくらいの遊び、ゆとりがあってもいいではないか。
 そんなことを考える今日この頃なのだが、話をまた昔に戻そう。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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