Entries

麦どぶろく、大麦、麦わら細工



                   麦談義(2)

               ☆麦どぶろく、大麦、麦わら細工

 北上山地の岩手県葛巻町では大麦でどぶろくもつくっていた。「麦どんべ」と呼んでいたとのことだが、麹屋から種を買ってきて冬期間つくるのだという。
 同じ北上山地の川井村で麦のどぶろくをごちそうになったことを前に紹介した(註1)が、かつて米がほとんどつくれなかった北上山地では麦でつくるしかなかったのだろう。
 税務署はこの葛巻の山奥にも密造の摘発に来たという。とくに密売しているわけでもないのに(売るほどの大麦もつくれない地帯なのだ)、こんな山の中に(ましてや当時の道路や車の事情からして来るだけでも大変なのに)よくもまあ来るもの、「お役人」の鑑と誉めたくなる(註2)。
 それはそれとして麦どぶろくはおいしかったと言う。当然のことだろう、何しろ大麦の近い親戚にビール麦がいるのだから。もちろんどぶろくは普通の大麦でつくっていたのだが。
 この麦どぶろく、もう一度飲んでみたい。何とか復活して地域特産として売り出せないものだろうか。

 ところで日本の大麦には6条オオムギと2条オオムギがある(註3)。
 6条オオムギには皮麦=カワムギと裸麦=ハダカムギの二種あり、前者のカワムギが一般にオオムギあるいは6条オオムギと呼ばれている。ともに麦ご飯に使われるが、カワムギは現在麦茶の原料として、ハダカムギは麦味噌や焼酎の原料としても使われている。
 2条オオムギは明治以降日本に入ってきたもので、ビールや焼酎の原料として用いられ、「ビール麦」と一般に呼ばれている。
 この大麦は、戦前、戦後には100万㌶も栽培されていた。東北でも、岩手、宮城、福島を中心に7~8万㌶、畑面積の4分の1に作付されていた。なお、東北ではそのほとんどがカワムギであり、ハダカムギはきわめてわずかしか生産されていない。ハダカムギは適期の幅が狭いので東北の気象条件からして栽培が難しかったからのようで、四国・九州の水田裏作用として栽培がなされていた。
 このように大麦はきわめて重要な位置にあったのだが、1960年以降激減した。米の生産が急増して欲しいだけ安く手に入れることができるようになったこと、小麦の輸入でパン等が安く大量に手に入るようになったことから、米の補填的役割をしていた大麦の需要が減少したのである。もちろん家畜の飼料としての需要はある。ところがそれはアメリカなどから大量に輸入されており、その低価格に太刀打ちできない。かくして1973年ころにはかつての10分の1以下の8万㌶にまで減ってしまった。東北ではわずか3千㌶、大麦の畑を見つけるのが大変という状況にまでなってしまった。
 やがて政府は、米の減反に対応して78年から水田への麦の作付を推奨するようになった。それで気象条件からして大麦しかつくれないところでは大麦を水田に栽培した。しかしその価格の低さからしてその作付面積は減らざるを得なかった。
 ビール麦についていえば、その需要は戦後激増し、作付面積も12万㌶にまで伸びたが、これも70年代から大量に輸入されるようになり、減少せざるを得なくなった。
 かくして現在は、6条オオムギが2万㌶、ビール麦は4万㌶弱しか栽培されなくなってしまった。東北では6条オオムギがわずか千㌶強、ビール麦はほぼ壊滅状態になっている。

 真夏、冷たい飲み物を飲むとき、ストローを使うことがある。ご存じのように、ストロー(straw)とは日本語の「麦わら」である。実際に私たちは1960年ころまで麦わらのストローを使っていた。やがてそれはプラスチック製になり、麦わらは使われなくなったが、その形はまさに昔の麦わらのストローとまったく同じ、それで今もストローと呼ばれているのだろう。
 そうなのである、麦わらの中は空洞の筒状になっており、またその表面はきわめて固いので、水を吸い上げるのにちょうどいいし、水を通さないので安心して飲め、まさにストローにぴったりである。それでその昔の子どもたちはこの麦わらのストローでシャボン玉をつくって遊んだりもした。
 この麦わらの性質を利用してつくられたのが、麦わら帽子だった。夏になると、大人も子どもも、都会でも農村でも、みんな麦わら帽子をかぶって外に出たものだった。軽いし、空気の通りはいいし、つばが広いので顔や首筋への直射日光も避けられ、雨が降った時もちょっとはしのげる、外で働くときはもちろん歩くときにもよかったし、おしゃれにも使え、本当に便利なものだった。これは明治の初期に日本で開発したらしいのだが、英語でいうとstraw hut、麦作地帯のヨーロッパなどにどうしてなかったのだろうか。
 このストロー=麦わらは麦わら帽子以外にも、屋根を葺いたり、細工物にしたり、伝統的にさまざまな用途に使われてきた。
 麦を多くつくっていた私の母の実家(山形市近郊)でも麦わら細工をしていたようだが、虫かごしか覚えていない。麦わらでつくった真四角の底の上にさざえの貝殻のようにうずまき状に麦わらを編み、一番上は虫の入り口として小さく開けて20~30㌢くらいの高さのかごにするのだが、子どもが遊びでつくってキリギリスなどを入れて遊んでいた。私も実家に行ったときその作り方を教わったのだが、一度だけでしかも生来の不器用、覚えないで終わってしまった。60年代には山形内陸から麦がほとんど見られなくなったので、もうこんなものを見ることはないだろう。
 と思ってこの草稿を書いていたら、何たる偶然、網走のWMさんがその写真をメールで送ってきた。農大オホーツクキャンパスの元事務部長FMさんが新潟からの入植農家の古老から教わってつくった虫かごをもらってきた、初めて見たと感激して送ってきたのである。FMさんによると、その古老は、子どものころ農作業に連れて行かれた時に畑の脇で暇つぶしに編み、虫を入れて遊んだものだったと語っていたと言う。本当に何十年ぶりかでなつかしく見たが、それを網走の人から見せてもらうとは考えもしなかった。生まれ故郷の遊びと技術を入植者が北海道に持ってきたものだろうが(註4)、生まれ故郷で廃れたものが北海道に残る、何とも不思議な感じだ。それでも北海道は麦の大産地、これからもぜひこうした麦わら細工の技術を残してもらいたいものだ。同時に、府県でも麦の生産、そして麦わら細工を復活させ、伝承してもらいたい。
 なお、麦わら細工の原料の麦は主に大麦だったらしいが、小麦・大麦のいずれにせよ麦わらは稲わらと並んで生産、生活資材の原料として非常に重要視された。しかし今は稲わらとともに麦わらも利用されなくなっている。何ともさびしい。何とか活用する方法を考えたいものだ(北海道では家畜の敷きわらとして利用されているが)。
 麦雑炊、麦どぶろく、この復活も考えられないだろうか。それを地域特産物として売り出し、大麦生産の復活につなげたいものだ。

 大麦は小麦とともにイネとほぼ同じころに大陸から伝来して、栽培が始められたと言われている。この麦類は寒い地帯でもつくれる、水が少ないところでもつくれる、米の裏作としてつくれる(東北・北海道は無理だったが)ということから全国的に栽培されてきた。
 もちろん困難はあった。収穫期が梅雨の時期とぶつかるからである。麦は多くの雨に当たると穂の状態のままで発芽するいわゆる「穂発芽」してしまい、品質が低下し、さらには食べられなくなってしまうのである。だから、とくに小麦などは梅雨のある日本に適していないとまで言われた。
 しかし日本人はこうした困難を克服しつつ麦の生産を発展させてきた。ところが大麦は戦後のわずか数十年の間に消え去ろうとしている。小麦もその通りだ。
 こうした事態を何とか打開しなければならないと農業技術者、生産者、消費者一体となって国産麦の増産と消費拡大に取り組んできた。そして今、その成果が少しずつあらわれてきている。とりわけ小麦では一定の成果をあげつつある。それがうれしい。

(註)
1.11年3月30日掲載・本稿第一部「☆どぶろくから酒へ」(3段落) 参照
2.北上山地におけるどぶろくの摘発については下記の記事でも述べているので参照されたい。
  11年1月6日掲載・本稿第一部「☆入会林野」(5~6段落)
3.生物学では作物の名前を片仮名で書くのでこれまではそれにしたがってきたが、米と麦については漢字が一般に使われているので漢字表記とする。ただし、2条オオムギとかカワムギ等の生物学的な用語については片仮名とする。
4.FMさんがこのルーツを知りたくてあちこちと聞きまわったところ、新潟、長野は確認できたとのこと、これに山形が加わったわけである。なお、底が四角の記憶しか私にはないが、五角形、六角形、提灯形もあったとのことである。




DSC_2467_convert_20130221052510.jpg

スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

訪問者

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

QRコード

QR