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小麦粉、代用食、パン食


                   麦談義(3)

               ☆小麦粉、代用食、パン食

 「うどん粉」、「メリケン粉」、私の子どものころ生家の炊事を担当していた祖母がよくこの言葉を使っていた。うどん粉は若干灰色がかり、メリケン粉は真っ白だったので、まったく違うものだと私は思っていた。実はともに小麦粉であり、メリケン粉はアメリカから輸入したもの、アメリカンがメリケンと聞こえるのでメリケン粉と呼ぶようになったのだと知ったのは、かなり大きくなってからだった。このメリケン粉からわかるように、小麦は戦前も外国から輸入されていた。
 でも、小麦・小麦粉、これは私たちになじみの深いものだった。農家のほとんどは多かれ少なかれ小麦を栽培して販売し、一部は石臼や水車などで挽いて粉にして自給してきたものだったからである。そしてうどん、そうめん、すいとん、てんぷらの衣、ゆべし等々、主食やおかず、おやつとして、さらには子どもの遊びにも小麦を使ったものだった(註1)。なお、この小麦を粉にする場合に取り除く小麦粒の果皮や胚芽の部分は「麸(ふすま)」と呼ばれ、これは家畜の餌として大事にされた。
 ただし、農家はパンはつくらなかった。それは買って食べるものだった。戦火のいまだ激しくならない幼いころそのパンを食べたという記憶はあるのだが、いつどんなパンを食べたのか、うまいと思ったのかそうでないのかなど覚えていない。
 パンに関して今も強烈に残っている記憶は、私が小学二年、戦争真っ最中の1943(昭和18)年(ではなかったかと思う)のときのことである。
 ある朝、祖母が配給券(註2)を私に渡し、近くの米屋でパンの配給があるからもらってこいと言う。なぜ米屋でパンなのかだが、米の「代用食」としてのパンの配給だったから米屋さんが販売したのだろう。
 米屋さんに行ったら近所の人がずらっと行列をつくって店の前に並んでいる。近所のおばさんにもらい方を聞き、かなり長い時間待って、配給券何枚かと交換にパン2個(だったと思う)を米屋さんからもらった。
 実は、このときが配給の行列に並んだ最初にして最後の体験である。生家が農家であったため食糧の配給がなかったから並ぶ必要がなかったのである。だから、なぜパンの配給券が生家にあったのかわからない。隣近所の人が生家の農産物と交換によこしたのかもしれない。当時物々交換が盛んだったが、その一種だったのかもしれない。
 なお、衣料の配給は隣組にまとめてくるので、行列をつくるということはなかった。いうまでもないが、衣料も品不足、みんなで希望を出しあい、ある品物に対する希望が競合したらくじ引きをするなどして分けていたのを記憶している。
 さて、こうして手に入れたパン、楽しみに食べたが、もそもそしてまずかったという記憶しかない。
 このようにパンが配給されたのだが、この配給はあまりなかったのではなかろうか。戦前のことだからパン屋さんがそんなにあるわけではなし、パンに適する小麦粉がそんなにあったとは思えないからである。
 そして配給されたのが小麦粉そのものだった。多くの家庭はこの小麦粉でよくいわれる「すいとん」などをつくって食べた(註3)。なお、戦時中のことだったか戦後のことだったか忘れたが、配給の小麦粉を膨らし粉でパンにして食べる方法などが雑誌に書いてあり、祖母がそれを聞いてつくったパンを食べたことがある。これもうまいとは言えなかった。

 このパンが自由に買えるようなったのは1950年を過ぎてからではなかったかと思う。アメリカ産の小麦が大量に輸入されるようになったからだろう。
 といっても生家ではたまに小昼(おやつ)として食べるだけだった。当時のパンは甘かったからかもしれない(糖分の不足していた時代、甘く感じただけなのかもしれないが)。
 私がパンをまともに食べたのは大学の学生寮に入ってから、1954年からである。もちろん寮の食事はご飯(ただし麦ご飯)だったが、食堂の炊事をしてくれる職員の方の休みの日曜の朝食だけはパンだったからである。また、寮のご飯で足りなくなると (何しろ若い、腹が減って困ったものだ)、10円のコッペパンを寮の売店から買って腹を満たした。米は配給なので手に入らず闇米は高くて買えないからだ。生家は農家だから米を送ってもらえばいいが、それは食糧管理法違反、見つかったら没収された上に罰金をとられてしまう。それでも家に帰った時リュックなどに入れて持ち帰る。しかし警察に見つからないようにするためにそんなに多く持てない。だからあっと言う間に食べ終わってしまう。それなら飲食店で食べればいい。しかしそのときには外食券(註4)が必要となる。しかしこれは旅行などやむを得ず外食しなければならないときに使うもの、腹が減ったからと言って簡単に使えるようなものではない。それで外食券なしで食べようとするとそれはヤミ米、きわめて高価となるので貧乏学生は食べられない。だから夏とか冬の休みになって寮の食事が出なくなると大変だった。金のないときは毎日コッペパン、ちょっと金があればマーガリンをちょっぴり塗り、さらに金があると牛乳を飲んだものだった。パンはまさに貧乏学生の食べ物だった。

 このコッペパンは50年代後半から学校給食の主食となった。好き嫌いを問わず子どもたちはパンを食べさせられた。
 さらに1960年以降、パン食は近代的な食事、健康的な食事、頭のよくなる食事としてもてはやされるようになった。
 こうしてパンは代用食ではなくなり、主食となった。そして食パンを始めさまざまなパンが売り出されるようになり、さらにはアメリカの外食産業の提供するサンドウィッチ、ハンバーガーが若者の日常の主食となってきた。
 わずか30年の間に、世の中変われば変わるもの、パンの需要が急激に増えたのである。それなら日本の農家が米の代わりに小麦をつくって消費者の需要の変化に応えればいい。しかし、そうはならなかった。パンの原料の小麦粉が国産ではなくすべてがアメリカを中心とする外国産だった。そもそもこのパン食の普及はアメリカの小麦販売戦略(註5)によるものだったからである。しかもこれまで日本が生産してきた小麦は「軟質小麦」であり、うどん、そうめん、てんぷら粉はつくれてもパンをつくるのは難しい。
 それなら日本で品種改良を進めるなどして「硬質小麦」を生産できるようにすればいい。ところが日本政府は前にも述べたように小麦の生産を放棄する政策をとって麦の研究への予算は激減させ(註6)、それどころかうどん、そうめん等の軟質小麦の輸入すら進める始末、讃岐うどんでさえオーストラリア産のASW小麦の色の白さと価格の安さにはかなわず、さぬきうどんはASWうどんになってしまった(註7)。かくしてかつて80万㌶もあった小麦の作付面積(大麦とほぼ同じ)は73年にはその10分の1以下の7万㌶にまで減り、まさに日本の小麦生産は壊滅状態(註8)となった。東北の場合はそれがさらに激しく、かつて6万㌶近くもあったものがわずか3千㌶、かつての20分の1以下になってしまった。
 こうした状況になったころの1973~74年、世界は食糧危機に襲われ、小麦を始めとする食料の輸入が途絶し、日本中が大騒ぎとなった。そこで改めて小麦の増産が国民的な課題となり、政府も一定の価格を保障するようになった。また、1978年の第二次減反にさいしては麦の転作が奨励された。それで安楽死寸前にあった小麦生産は何とか命をとりとめ、徐々にその生産を復活させ、現在はようやく20万㌶に、東北でも1万㌶近くになっている。

(註)
1.11年1月31日掲載・本稿第一部「☆豊富だった遊びの材料」(2段落)参照
2.戦前戦後のもの不足時代、必要な者に最低限必要な量がいきわたるようにと政府が物資の流通を統制したが、その手段の一つとして、食料や衣料などの生活必需品を購入することのできる切符を各世帯に人数に応じて政府があらかじめ交付しておき、それと引き換えに物資を渡すことにした。配給券とはその切符のことをいう。
3.11年9月30日掲載・本稿第三部「☆消えていく伝統料理、家庭料理」(5段落)参照
4.戦前戦後の食糧不足時代、たとえば旅行などで外食がどうしても必要となるものに配給米の代わりとして、政府が交付した食券のこと。この外食券がないと飲食店でご飯を食べることができなかった。
5.11年4月6日掲載・本稿第一部「☆忍び寄る小麦色の影」参照
6.11年8月10日掲載・本稿第二部「☆転作麦・豆とソバの花」(1段落)参照
7.11年12月26日掲載・本稿第三部「☆豊作貧乏+凶作貧乏」(4段落)参照
8・11年5月18日掲載・本稿第二部「☆消えた麦畑、菜の花畑」(1段落)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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