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五穀・雑穀、ヒエ、アワ、キビ



                   雑穀談義(1)

              ☆五穀・雑穀、ヒエ、アワ、キビ

 豊年満作、その昔は村の人はもちろん町の人もそれを祈った。農産物は人間が生きていくうえで必要不可欠なものだからである。とりわけ穀物は最低限必要なものであり、そうしたことからとくに「五穀豊穣」を神仏に祈ったものだった。この場合の「五穀」は主要な穀物と言う意味であり、したがってとくにきまったものではなく、地域によりまた年代により違うとのことである。
 それはその通りだろうが、でも私は「米、麦、アワ、キビ、ヒエ」の五つのことをわが国では言うとずっと思っていた。五穀の穀は穀物のことであり、穀物は「イネ科植物の種子」のことだと考えていたからである。実際にそのように書かれている書物も多い。
 ところが、日本では「米、麦、アワ、キビ、豆」が一般的なのだと東北大で作物学を教えていたHKさんは言う。たしかに豆はきわめて重要である。しかし、豆はマメ科、たんぱく質を主体とする種子であり、でんぷん質を主体とするイネ科の種子とはその性質を異にする。それを五穀に入れるのはちょっと疑問になる。
 もちろん、穀物には「人間がその種子などを常食とする農作物」という意味もあるそうだから、種子を食料とする豆科の植物が入ってもかまわないことにはなるが。
 しかしそうなると、なぜ「キビ」が五穀のなかに入って「ヒエ」が入らないのかが疑問になる。東北の山村ではキビ以上にヒエを重要な作物として栽培していたからだ。
 さらにもう一つ、なぜソバが五穀のなかに入らないのかが疑問になる。ソバはタデ科の植物だが、種子を食べるということからすれば穀物であり、そば屋さんの多さから考えても現代でも重要な食べ物だと思うからである。
 こんな疑問をついつい持ってしまうのだが、日本では米麦以外の穀物はそばも豆類も含めてすべて「雑穀」という。いうまでもなく米麦は食料としての重要性は極めて高く、それに対応して生産量が多い穀物である。これに対して雑穀は人々の暮らしにとってそれほど重要ではなく、生産量もそれほど多くない。だから「雑」穀と呼ぶ、これもやむを得ないと思う。
 しかし、地域によって、また時代によって、雑穀は主穀と言っていいほどの非常に重要な地位を占めていた。

 戦前、つまり稲作技術が発達しておらず、交通条件も整備されていない時代には、土地条件や気象条件から米がとれない地域、たとえば山間高冷地域や水不足地域などでは、ヒエ、アワ、キビ、ソバが麦と並んで非常に重要な作物であった。東北の場合は緯度の高さから寒冷気象となるためになおのことだった。
 北上山地などはその典型であった。たとえばその中心部に位置する岩手県葛巻町には水田はほとんどなかった。やませによる常習冷害地帯、米の低収量地帯だったからである(註1)。したがって畑作を中心とせざるを得ず、畑にヒエ、麦、大豆、ソバ、アワ、キビ、ジャガイモ、自家用野菜を栽培し、馬の子取り、炭焼き等で生活してきた。だから米など食べることはできなかった。と言うと、畑作物や子馬、炭などを販売して米を買って食べればよかったではないかと言われるかもしれない。しかしそんなゆとりはなかった。畑作物の生産力は平坦部にくらべて低かったし、雑穀の価格は低いし、だからといって商品作物などは当時の交通条件と技術水準からしてつくれず、さらに山林大地主の収奪があったから、米は買えなかったのである(この地主に関しては次回述べる)。
 それで、麦と雑穀、とくにヒエを主食としてきた。ヒエは比較的低温に強く、痩せ地でも育つなど環境への適応力が強いために、気候が冷涼で稲の栽培が難しかった岩手県の山間部や青森南部の畑作地帯で主食用として、これまで何度か紹介してきたヒエ―麦―大豆あるいはヒエ―麦―ソバの二年三作体系のなかに位置づけて、あるいは焼畑で、大々的に栽培された。明治期の岩手では畑の2割を占める2万㌶、青森は同じく7千㌶、東北全体では3万㌶、全国の7~8万㌶の4割近くをしめる大生産地帯だった。その後全国的にはヒエの栽培面積は減少して戦後は3万㌶となったのに対し、岩手・青森は2万2千㌶とあまり減らず、かえって比率を高めている。
 このように、ヒエは東北が主産地だった。もちろん、宮崎県椎葉村の民謡の『稗搗(ひえつき)節』に見られるように、ヒエは全国の山村で食べられていたのだが、東北以外ではキビがヒエよりも多く栽培されており、そのために一般に言われている五穀のなかにヒエが入らず、キビが入るということになったのだろう。

 このキビ、それからアワ、これは戦中から戦後の一時期、私の祖母が生家の前の畑でほんのちょっぴり栽培していた。ただし、なぜ栽培したのか、どのようにして食べたのかは記憶がない。でもともかくアワとキビは見ている。
 しかし、ヒエは見たことがなかった。前に述べたように、私がヒエを初めて見たのは1970年代の後半、北上山地の調査のときだった(註2)が、そのころはもう農家はヒエを食べていなかった。だから私もヒエ飯をごちそうになる機会はなかった。それでも、ヒエ飯には黒と白の二種類あるというようなヒエに関するいろんな話は聞いていた。この黒い飯と白い飯は品種の違いからくるものだろうと私は思っていた。しかしそうでなかった。この黒と白の差は乾燥の仕方の違いによるものだったのである。
 すなわち、乾燥の仕方にはヒエをそのまま天日で乾燥させる方法と一度蒸した後に火力で乾燥させる方法の二つがあり、岩手県葛巻町では前者を「ひぼす」と呼び、後者を「おもすぺ」と呼んでいた。
 まず「ひぼす」だが、これは収穫し、脱穀したヒエを天日で十分に乾燥させる。それを水車で搗き、ヒエを覆っている頴(えい=米で言えばもみ殻)を剥がし、また糠(ぬか)を除去する。その結果、ヒエの粒は真っ白になる。これはおいしいが、粒のまわりをきれいに取り去ってしまうので粒が小さくなり、また乾燥していて砕けやすいために、食べることのできる量が減ることが難点となる。
 もう一つの「おもすぺ」の場合は、まず収穫したヒエを十分に水に浸した後に蒸す。蒸しあがったヒエを小屋の室(むろ)に入れ、火を焚いて乾燥させる。それを水車の搗き臼で搗いて頴(えい)を剥がす。穎は簡単に剥がれるが、糠は残る。それで黒っぽくなって、見栄えが悪くなる。またうまくない。十分に精白されていない、つまり糠層が残っているからだ。しかし、粒は大きく、「ひぼす」のように量は減らない。
 そうなると、貧乏人は「おもすぺ」にするしかない。うまいまずいよりもまず量を確保しなければならないからだ。だから黒いヒエ飯は貧乏人の飯だった。
 ところで、「ひぼす」は「日干し」のことだろうとすぐわかったが、「おもすぺ」はよくわからなかった。お年寄りに聞くと、葛巻では「蒸す」ことを「おもす」という、それで「おもすぺ」と言ったのだろうとのことだった。なるほどと思ったのだが、実は私の生家のある山形でも「蒸す」を「おもす」と言っていた。これだけ離れているところで共通しているということは「おもす」は東北全体で使われていた言葉なのだろうか。
 それはそれとして、こうしてつくられたヒエは、米のご飯と同じように焚いてヒエ飯として食べた。これが主食だった。さらにおかゆ(「きゃこ」と言ったとのことである)にしても食べ、たまに手に入る米のご飯に混ぜても食べた。

 当然米の餅など食べられなかった。だから、お正月の餅はアワ餅が普通だった。つまり葛巻ではアワは餅用として栽培した。だからもちアワを栽培していたのだろう(アワには米と同じようにもちとうるちがある、これについては後に述べる)。おかゆにしても食べたそうだが。
 なお、このアワでどぶろくもつくった。これは先日(2月21日)の記事で述べた麦どぶろくよりもかなりきつかったという。一度飲んでみたいものだ。ぜひ復活してもらいたい。といっても今はもう栽培されていないが。
 もう一つついでにいうと、ヒエごはんが余ったらそれに糀(こうじ)を入れてどぶろくにしたという。酒飲みと言うのは意地汚いものだ、何でも酒にしようとする習性があるようだ。
 それはそれとして、それらをもういちど復活し、「アワどぶろく」、「ヒエどぶろく」を「麦どぶろく=麦どんべ」とあわせて地域特産として販売することを考えられないだろうか。作り方を知っている人がまだいる今、それを伝承する人をつくる最後のチャンスだろう。

 それから、キビもつくられていた。なお、葛巻ではキビを「チミ」と発音するが、このチミはトウモロコシのこと、本来のキビは「セダカチミ」と呼んだとのことである。漢字にすればこれは「背高黍」なのだろう。これはキビ団子にしたり、糧飯としてご飯に入れたりしたという。

 実は、ヒエの白黒の原因やアワどぶろくなどの話などを聞いたのはつい最近、昨年(12年)の夏のことである。これまで何度か登場してもらった葛巻町出身の若手農経研究者NK君の生家におじゃまし、同じく若手研究者のST君、女性研究者のWMさん、さらに彼らの大学の院生・学生諸君といっしょに調査させてもらったときに初めて知ったのである。私の勉強不足をまたまたそこで痛感したのだが、そのときに学んだことを次に述べさせてもらいたい。今述べたヒエ飯などの背景、東北の山間高冷地帯のかつての農業がさらによくわかっていただけると思うからである。

(註)
1.10年12月6日掲載・本稿第一部「☆米を食べられない村」参照
2.11年3月25日掲載・本稿第一部「☆残っていた焼畑農業」(3段落目)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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