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地頭・雇い・名子―ヒエ飯の一背景―


 
                  雑穀談義(2)

            ☆地頭・雇い・名子―ヒエ飯の一背景―

 集落から畑そして林野へと通じる幅2~3㍍の道路(もちろん未舗装、かつてはどこもそうだったのだが)の両脇つまり道路と畑との境に2~3㍍おきに背丈の低い桑の木が並木のように植えてある。その桑の木の間に細長い横木を2~3本わたして柵をつくっている。何でこうしているのかと聞くと、採草放牧地に連れて行く牛馬が畑の中に入らないようにするためだという。トラックなどない時代、牛馬は歩いて連れて行くより他なかったから、これはなるほどと思う。
 このような垣根(生け垣と言うべきなのだろうか)が張り巡らしてある道、垣根の間からのぞく畑、ちょっと遠くには緑の山々、そしてさわやかな青い空、何とも牧歌的な風景(ありふれた言葉でしか表現できないのが悔しいが)、非常に強く印象に残っている。
 これは間違いなくかつて北上山地で見た光景であり、岩手県葛巻で見たものだ、と私は思っていた。しかし、今回行ったときはまったく見られなかった。それで前出のNK君に聞いてみた、そうした垣根のある道路に記憶がないかと。そしたら彼は見たことがないという。そうすると、私の記憶違いだろうか、ちょうど同じころに調査した遠野で見たのだったろうか。
 こんな疑問をもって、NK君の父上に聞いてみた。そしたら何と、かつてはみんなそういう道路だったという。そして、桑畑はなかったけれども、その道端の桑の木から採った葉で蚕を飼ったというのである。私の記憶は間違っていなかった。1970(昭和45)年にその何とも言えないきれいな風景を見ていたのだ。しかし、その柵の内側で働いていただろう農家の方々は見なかった。もしかすると山仕事に行っていたのかもしれない。

 このきれいな風景を維持してきた農家の方は、かつてはその畑や山林で厳しい労働に従事し、またきわめて貧しい生活を送ってきた。その話、とくに戦前の名子(なご)の方の話を直接聞いたのは、そのときの調査が初めてだった。もちろん、私が調査に入ったころは戦後の農地改革でかなりよくなってはいたが、戦前の北上山地には前に述べたようなきわめて少数の山林大地主(「地頭」とか「旦那さま」と呼ばれていた)と大多数を占める「名子」(「なんごん」と地元では呼ぶ、土地や家畜はまったく所有しておらず、旦那からすべて借りている家)との間にはきわめて古い形の支配被支配の関係が残っており(註1)、冷涼気象条件から来る生産力の低さとあいまって名子はきわめて貧しい暮らしを送らされてきた。
 NK君の出身地のT集落においても山林地主W家が支配していた。集落周辺の山林原野のすべて800㌶を所有し(註2)、一方集落の農家19戸は山林をまったく持っておらず、W家から借りるより他なかった。しかし、すべての農家が畑と子取りのための馬一頭は所有しており、つまりまったく無所有の名子ではなかった。とはいっても、山村における生存の基礎である山を借りていることからW家の支配に服さざるを得なかったという点では変わりなく、きわめて古い地主小作関係のもとにおかれていた。そして農家はその関係を反映して「雇い」と呼ばれていた。つまりこのT集落は名子ではなく「雇い」の集落だった。その暮らしの状況をA家の例で少し詳しく見てみよう。

 まず田んぼだが、A家はまったく耕作していない。この点は他の農家もみんな同じである(ただし、地主のW家だけは約1㌶の水田を耕作していた。米が不作になっても食っていけるだけの経済的ゆとりがあるからだろう)。
 畑は約80㌃所有し、さきに述べたような麦と雑穀を栽培し、また馬を一頭所有して仔馬を生産していた。ここに名子との違いがある。
 ただし山林を所有していないという点では名子と同じである。しかし山林原野は山村に住むものにとっては不可欠である。それで近くの山林約6㌶をW家から借りている。これも他の農家すべてほぼ同じである。その小作料はお金や生産物ではなく、労役であり、年に13日W家に働きにいくことで支払う。なお、借りているといっても自由に利用できるわけではない。家畜に食わせる草を自由に刈っていいというだけである。したがって13人の労役は草を刈らしてもらうことに対してだけの支払いということになる。しかし、農家にとっては燃料としての薪がどうしても必要である。そこでこの土地の木を伐りたいときにはW家に酒一升を持って行って許可を得る。そのさいには必ず自家用として使うこと、よそに売ってはならないと約束させられる。
 次に、集落の全農家で自然草地(草刈り場)約50㌶を集落の共同利用地(入会地)として借りている。そして決まった日時にみんな一斉に萱を刈り、萩等の草を刈る。刈ったものはすべて自分のもの、萱は屋根ふき等の生活用、炭俵の原料用とし、草は馬の餌とする。なお、炭俵は自家用ばかりでなく販売して現金収入を得たと言う。さすが炭焼きの盛んな北上山地である。この共同利用草地の小作料として農家全戸がそれぞれ7日の人手をW家に提供しなければならない。
 もう一つ、馬の放牧地86㌶をT集落と近くのH集落、S集落(九戸町)を加えた3集落の農家約70戸が共同で借り、春から秋にかけてそこに放牧している。これもいわゆる入会地と利用形態は同じだが、土地は共同の所有地ではなく、地主のものなのである。となると当然小作料を払わなければならなくなるが、それは各戸が8日の労役で支払うことになっている。なお、H集落は徒歩で1時間とかなり遠いので労役での小作料支払いが難しいことから、この集落の農家にかぎって各戸大豆5升を支払うことになっている(註3)。
 このように二か所の入会地(註4)を集落の農家全員で借りているわけだが、この利用や管理については一般になされているような共同利用者=入会権者の話し合いで決めるわけではない。地主のW家がすべて決定する。土地の所有権がいかに強かったかがわかろう。
 たとえば草刈り場の利用開始日=口開け日などの日時は地主が決定し、各戸に連絡され、それに必ずしたがわなければならない。また野焼きなどの管理の日時も地主が決め、必ず一戸一人出役しなければならない。なお、個人的に借りている山林の野焼きについても地主が決める。この野焼き等の管理には合計で年20日近く出役を命じられたという。
 この入会地や個人借り入れ山林の小作料としての労役の日時もまたW家の都合によって決められる。地主の家の畑の耕起、ヒエや麦の種まき、除草、収穫、田んぼの諸作業等々、農繁期のときに働きに来るように命じられる。
 その命に従わなければ草刈り場や採草放牧地の利用が禁止される。そうなればこの村では生きていけない。だから何があっても地主=旦那さまの命令にはしたがわなければならない。
 なお、燃料としてまた山村における現金収入源として必要な炭については、ここからここまでの山の立木をいくらのお金で切らして炭を焼かせてくれとW家に頼みに行き、その許可を得て炭を焼く。その炭は自家用でもよそに売ってもかまわない。
 このように、山村での生産と生活の維持に不可欠の山林原野はすべて地主が押さえている。まさに生殺与奪の権を地主が握っているのである。したがって農家はすべて地主の言うことを聞かざるを得なかった。つまり完全に地主の支配下にあり、人身的従属関係にあったのである。しかも地代は労働地代、これはもっとも古い地代形態であり、地主小作関係はきわめて古い関係にあったということができる。
 しかし、この集落の農家は「名子」ではない。名子は、山林はもちろん畑も馬も屋敷地も一切所有しておらず、地主からすべて借りており、その代償として毎日のように地主のところに働きに行っている農家を言うものだからである。この点ではこのT集落の農家は相対的に自立している。しかし、生産物や貨幣で地代を支払ういわゆる小作人でもない。それではこうした農家は何と呼ばれているのかと聞くと、「雇い」と呼ばれていたという。労働で地代を支払う、つまり地主に雇われて働いているのと似ていることから「雇い」と呼び、呼ばれたのだろう。
 このように、「地頭」、「雇い」、「名子」という関係、中世の言葉が残っているような古い人身的従属関係が、北上山地の中央部には農地改革前まで残っていたのである(註5)。

 そもそも山間高冷地で生産力が低いところに、播種や収穫等のもっとも大事な時期に地主のところに働きにいかなければならないので適期を逃し、ますます生産量が落ちてしまう。
 一方、地主は大量の労働力を使って集約的に適期に作業するのだから農業生産力は相対的に高い。さらに山林からは材木や薪炭用の立木売却の膨大な収入が入り、多数の馬を飼っている上に種馬ももっているので仔馬販売や種付けの収入もある。
 当然のことながら、地主と雇い、名子の生活水準の格差はきわめて激しかった。それを示すものとしてこんな唄が集落内にあったとNK君のお祖父さんが教えてくれた。
    「ソイ(海の魚)のあぶらめ(脂身) 旦那が食って
     頭とおっぱ(尾っぽ)は 雇いが食う」
 おいしいものが食べられるのは旦那=地主だけ、集落で米を食べられるのも地主だけだった。普通の農家=雇いは米など買えるわけはなかった。ヒエなどの雑穀は自家用がせいいっぱい、余った大豆、ほんのわずかの繭、炭俵、そして若干の炭などを売ってわずかの現金収入を得るだけでしかないからだ。
 それでもたまに食べられる。地主のところに働きに行ったときたまに米をもらうことがあったからである。ただし白米で食べるわけではない、麦やヒエなどを混ぜて、つまり糧飯(かてめし)にして、量を増やして食べたものだった。

(註)
1.11年2月24日掲載・本稿第一部「☆農地改革と岩手の山村」(2~4段落)参照
2.葛巻町にはこの程度の中小地主しかいなかったが、隣の山形村(現久慈市)には3戸の大地主がそれぞれ約7千町歩の山林を所有し、村の土地の大半を支配していた。
3.8日の労役の代わりに5升の大豆を払ったことからすると、当時この地域では一日の労賃を大豆約6合と考えていたことになる。
4.入会地に関しては下記の記事を参照していただきたい。
  11年1月6・7・10日掲載・本稿第一部「むら社会(2)、(3)、(4)」
5.こうした名子制度は北上山地ばかりでなく、九州の山地などにも残っていた。これについては後に述べる。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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