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雑穀作から酪農へ、そして今は



                  雑穀談義(3)

             ☆雑穀作から酪農へ、そして今は

 前回紹介した歌の中に「ソイ」という魚が出てきたが、釣り好きの友人から聞くと非常においしい魚だそうである。しかし、山形内陸の山に囲まれて育った私はその魚を知らなかった。仙台に来ても魚屋で売っているのを見たことがなかった。
 ところが私の生家よりも山国の葛巻町の唄のなかにその「ソイ」が出てくる。なぜなのだろうか。
 もう一つ不思議に思ったのは、川魚をほとんど食べないことだ。きれいな川にイワナなどが泳いでいるのが見えるが、捕って食べたりはしないと言う。生臭いからとのことだ。しかし魚の少ない山国では海の魚が少ないのだから川魚を捕るのはもちろんたとえば鯉のように育てても食べる。私の生まれたところではそうだった。それをなぜ葛巻ではしないのだろうか。
 それから塩魚、干魚の話もあまり出てこない。また、野兎などの獣を捕って食べてもいない。集落のなかに一戸だけ罠を仕掛けて捕る人がいたそうだが。
 それでは動物蛋白はどうやってとったのだろうか。
 こんな疑問をもったのだが、それはまさに愚問だった。葛巻町は三陸海岸の久慈市からわずか20~30㌔、しかも海岸から九戸・盛岡に抜ける主要道路が走っている交通の要衝、行商の人が海の魚を運んできたのである。険しい山道ではあるが早朝出発すれば昼過ぎには葛巻に着く。だから生魚も食べられた。と言っても一般庶民はイワシであり、ソイなどは地主しか食べられなかったのだが。山の中に囲まれているから、私が北上山地に行くときは盛岡などの内陸から行っていたから、ついつい海は遠いものと考えてしまっていたのだった。
 そうなるとまた考えてしまう。どうしてこんなに交通条件に恵まれ、文化交流もあるところ(もちろん相対的なものだが)で農家は貧しい暮らしを送らなければならなかったのかと。夏のヤマセと冬の寒冷、それに山間傾斜地という自然条件の厳しさから来る生産力の低さがその一因であることは言うまでもないが、山林大地主の支配、人身的従属関係の存在がその主因となっていたのである。

 戦後の農地改革で、前にも述べたように、農地と林野の一部が解放された(註1)。T集落でも各戸が借りていた林野(A家の場合は6㌶)は農用地としてそれぞれに解放され、また3集落の農家が共同で借り入れていた86㌶の採草放牧地もみんなの共有地となった(註2)。ただし、集落の入会地50㌶は解放されなかった。それでも農家はかつてのような労役と地主の支配から解放され、農家の暮らしは以前よりかなり良くなった。
 また米をつくっていない農家には米がわずかだが配給されるようになった。
 それでも生活水準はやはり低かった。山間高冷地のためにそもそも農業生産力は低く、現金収入源の薪炭林はすべて地主のものだったからである。
 だから主食はやはりヒエだった。子どもたちの弁当もヒエ飯、あるいはヒエのたくさん入った米の飯だった。しかも「おもすぺ」なので、みんなの弁当は黒かった。男の子はそれで平気だったが、女の子はヒエだけの黒い弁当を恥ずかしがってふたや手で隠して食べたものだったと言う。そうした子どもたちの気持ちがわかる親は、ヒエと米を混ぜないでヒエのわきに米を入れて炊き、米の部分をそっくりとって子どもの弁当に入れてやったり、ヒエを弁当の下の方に入れて上に米のご飯を載せ、白いご飯に見せようとしたり、いろいろ工夫してやったという。

 そうこうしているうちに、ムギや大豆は輸入の影響で安くしか売れなくなってきた。また1954年には厳しい冷害に遭った。こうした状況から脱却すべくまず取り組んだのは乳牛の導入だった。冷涼地帯でも飼料作物であれば栽培できるし、草地にできる林野は多いので、まさに適地だからである。それで畑の雑穀を飼料作物に切り替え、また林野の草地造成に取り組むようになった。
 もう一方で、エネルギー革命とかで薪炭生産が落ち込み、それにかわるものとして出稼ぎが増えてきた。
 私が葛巻町を初めて訪れたのはちょうどそのころの1970年、農地改革の成果がようやく定着して酪農などの新たな農業への取り組みが始まり、もう一方で出稼ぎが本格化し始めた時期でもあった。そうした収入があることから、米を買って食べることができるようになっていた。ヒエ飯の時代はほぼ終了し、あの古い歴史をもつヒエは町から姿を消して行ったのである。

 あれから40年、当時と現在の葛巻の景観でどこか変わったことがあるかとNK君に聞かれた。高台に上って葛巻の景色を眺めたときのことである。かなり以前のこと、当時の景観をきちんと思い出せるわけではないので印象だけだがと断わって、次のように答えた。
 ①かつては雑木林、広葉樹林しかなかったような気がするのだが、カラマツなど針葉樹林がかなり増えて山々の景色が大きく変わったような気がする。その樹齢も30~40年という感じなので、私の来たころから植林が本格化したのではないか。
 ②前に着たときはあまり見なかった水田が見られる、かなり飼料畑化しているようだが。
 ③当時ようやく草地造成が始まっていたが、その当時とは比較にならないほど草地や飼料畑が増えている。
 ④かつてまったく見られなかった廃屋があちこち見られる
 私のこの印象はほぼ正しかった。あちこち歩いたり、調査させていただいたりしているうちにそれがわかった。

 まず山林についてであるが、山林地主に聞いてみると、かつては薪炭生産とパルプ材生産が中心だったのでほとんど植林しなかったとのことである。したがってやはり当時の山は自然の雑木林・広葉樹林に覆われていた。
 しかし薪炭は家庭燃料の変化で需要はなくなり、パルプ材は輸入で売れなくなってきた。それで70年ころから山を持っている人はカラマツなどの針葉樹の植林に取り組むようになったのだそうである。
 その樹木がそろそろ伐採の時期を迎えている。この前行ったときも伐採しているところがあった。そうなると、大山林地主は大儲けだ。と思ったのだが、何しろ材木は外材の輸入自由化で安い。下手すると赤字になってしまう。そのせいだろう、手入れが十分になされていない造林地が多々見受けられる。伐採適期にちょうど入っているのに放置されているのも多い。製材所等も少なくなり、林業関係者の数も減っているとのことだ。全国どこでも同じなのだが、このままいけば葛巻の山々も荒れ果ててしまうのではなかろうか。山林地主に大儲けさせるのはしゃくではあるが、少なくとも赤字にならないように、山間地における林業での就業機会を増やすために、そして環境の保全のために、きちんとした林業保護の政策をとってもらいたいものだ。

 米を食べたい、そのためにも米をつくりたい、昔から北上山地の農家はそれを望んできた。これは稲わらの必要性からもきていた。前にも述べたが、稲わらは生産・生活面で必要不可欠だった(註3)。もちろん、たとえば縄はクズの蔓を使うとか、麦わらで代替したりはしたが、限界がある。そこで、どうしても必要な分だけ隣の九戸村の稲作農家からイタドリ(註4)と交換して手に入れていた。この稲わらで、夏は草履、冬は爪子(つまご)をつくった(註5)のだが、それ以外にも稲わらは不可欠、こうした面からも稲作の導入を強く望んでいた(註6)。
 戦後の寒冷地稲作技術の発展はその望みをかなえるものだった。そこで60年代後半からほとんどの農家が畑の開田を進めた。T集落でも各戸10~20㌃の水田をもつようになったという。しかし、もう田んぼなど持たなくとも米は食べられるようになった。酪農収入があり、出稼ぎ等の農外収入があるからである。また零細面積の稲作の不利もある。そこで、減反政策を契機に田んぼはほとんど飼料畑に変わった。それでも一部は水田のまま残り、今も稲を栽培している。それで水田のある風景が見られるようになっていたのである。

 ちょっとここで脱線させてもらいたい。
 今、稲わらとイタドリを交換したと述べたが、このイタドリは尻拭いに使っていたらしい。そういうと何と野蛮なというかもしれないが、その昔は紙などきわめて貴重、これを便所で使うなどと言うことは一般庶民はなかなかできず、稲わらやフキの葉など草木の大きな葉を使っていた。稲わらよりはイタドリの大きな柔らかい葉がいい、山間地帯の葛巻はそのイタドリがたくさん取れる、そこで稲わらとの交換で平坦部の稲作農家が手に入れて使うということだったのではなかろうか。
 私の生まれたころはちり紙もかなり出回っていたが、一般庶民は古新聞や古雑誌を使っていた。私の生家もそうだった。しかし、戦時中や戦後は紙不足となり、昔のように草の葉を使わざるを得なくなった人もいた。こんな時代はもう二度と来てもらいたくないものだが。
 もう一つ、便所の話が出たので、風呂の話もさせてもらいたい。風呂は「やだ釜」という大きな鉄の釜の中に板を敷き、水を入れ、釜の下から火を燃やし、月に2~3回入ったものだという。なお、この「やだ釜」は、冬場の馬の餌を煮るためにも使った。つまりクズ、ハギの乾草、ヒエから、そばがら、センダイカブ、ベコカブ(註7)、大根の干し菜などを「やだ釜」で煮て、それを樽に移して足で踏んだもの(「汁やだ」と言った)を食わせたのである。このように「やだ釜」は馬と人間の共用だった。
 それで思い出すのは、前にも述べた北海道の開拓農家の『開拓の はじめは豚と ひとつ鍋』である(註8)。入植当初は鍋釜もろくに買えず、家族の食べ物を煮る鍋で豚の餌を煮なければならなかった。
 このように、もののなかった時代には、とりわけ遅れた政治経済のもとで貧しくさせられていた地域では、人間と家畜は数少ないものを共用するより他なかったのである。
 もちろん、私が訪ねたころは、ともにそんな状況ではなくなっていたが。

 さて、話をもとに戻そう。
 前に私が訪れたとき、多くの農家が酪農に取り組もうとしていた。前回登場していただいたAさんのお宅も自給的な畑作から脱却すべく60年代に乳牛を導入している。だから草地も見られるようになっていた。しかし、これ以上の発展のためにはさらに草地造成を進めなければならない、そのためにどう開発を進めていくか、私たちが葛巻町やその北部の大野町、南部の遠野市を訪れたのはその調査のためだった。その後町や県が公共放牧場の造成を進め、また農家も草地造成を進めてきた。第三セクターの葛巻高原牧場や袖山育成放牧場等々の草地の風景、これは見事なものである。またデントコーンの畑が多くなった。こうした草地造成と飼料作に支えられて酪農家は多頭化を進めてきた。そして葛巻町はいまや酪農の町としてその名を馳せるにいたっている。

 しかし、やはり北上山地は条件不利地帯、しかも乳価を始めとする農産物価格は低迷、林産物価格も低く、就業機会は少ない。それで若者は流出の一途をたどり、過疎化が進み始めた。それでも高齢者は何とかがんばった。しかしもう限界、亡くなるか、引き取られるかして空き家になっている家屋がどんどん増えている。
 NK君の生家のあるT集落でも人が住んでいなくて屋根に高く草木が生えた家、傾きかけた家が5戸もあり、後3~4年もしたら3戸が同じようになるだろうと予測されている。半分近い家が廃屋になるのである。
 さわやかな緑の自然のなかにぽつんぽつんとと散在する廃屋、40年前はこんな風景がまったく見られなかった。こんな風になるなどと考えもしなかった。私だけではない、ここに住む人たちもだれも考えなかっただろう。
 何世代、何百年にもわたって苦労してきて、戦後もかなり過ぎてようやく人並みの暮らしができるようになった、それからわずか半世紀、家が、集落がなくなってきている。何とも言いようがない。
 何とかならないのだろうか。

 もちろん、こうした状況から脱却すべく、北上山地の人々はがんばっている。葛巻町もそうだ。
 町内に数多くある雄大な放牧場を基礎にした牛乳の生産、山ぶどうワインの生産、それらと白樺林などの山林を活用したグリーンツーリズム、風力・太陽光・バイオマス発電などの新エネルギー開発(註9)等々に取り組み、「北緯四〇度 ミルクとワインとクリーンエネルギーのまち」として知られるようになってきた。ぜひがんばってもらいたいのだが、同時にこうした動きをつぶすようなTPPなどはやめて積極的に政策的な支援をしてもらいたいし、さらに平坦部・都市部の人々もここを訪れ、いろいろ学びながら景観を楽しみ、また支援してもらいたいものだ。
 ところで、葛巻町内にはこの村おこしのなかでそば屋さんやレストラン、宿泊施設がかなりできているが、そこでぜひ新しいメニューとして導入してもらいたいものがある。それは「ミルクかけご飯」だ。
 ご飯に牛乳をかけて食べるとおいしいと酪農家の息子である前出のNK君からかなり以前に聞いたことがあった。そのときは何とまあまずそうなと一笑に付したものだった。先日彼の家におじゃまして朝飯をごちそうになったとき、彼がご飯に牛乳をかけて食べ始めた。朝忙しいときこうやって食べて学校に行ったものだという。白いご飯に白い牛乳、色もなく、味も合わないようなのだが、いっしょに行った院生が真似をして食べ始めた。そして食べられますよと言う。その上に醤油をかけて食べてもいいとNK君が言うので、また彼らはそれを試してみた。そしたら異口同音に「うまい」というではないか。私も食べてみた、何と「卵かけご飯」とそっくりの味、たしかにうまい。搾りたての牛乳だからおいしいのだろうか。色もそれなりにきれいである。これを酪農家だけ食べるのはもったいない、もっと多くの人に食べてもらい、米と牛乳の消費拡大を図っていくことも考えていいではなかろうか。そのためにはまず、町内の食堂で出してもらいたい。この提案、取り上げてもらえないだろうか(もしかするとすでにやっているところがあるかもしれないが)。
 もう一つ、特産の山ぶどうワイン、これもおいしくていいが、これまで何度か述べてきた「麦どぶろく=麦どんべ」、これを地域特産品として復活して飲めるようにしてもらえないだろうか。もう一度飲んでみたいし、みんなにもぜひ味わってもらいたいからだ。ついでに、前々節で述べた「アワどぶろく」、「ヒエどぶろく」、これも復活してもらいたい。一度は味わってみたい。
 もう一つおまけに、前に述べた「麦雑炊」や「いも餅」、「アワ餅」や「アワ粥」、この作り方を経験した高齢者の知識と経験がなくならないうちに継承して復活し、地域特産として町の食堂等で食べさせてもらえないだろうか。
 そのためには大麦、アワ等雑穀の生産の復活も必要となるが。

(註)
1.11年2月24日掲載・本稿第一部「☆農地改革と岩手の山村」(2~4段落)参照
2.この権利者=借入者のうち数戸が地主にゴマをすって解放を辞退したので土地は64名の共有となったとのことである。
3.稲わらの重要性については下記の記事を参照されたい。
  11年5月25日掲載・本稿第二部「☆消えたわらの文化」
4.スカンポともいうが、タデ科の多年草で、背が高く伸び、葉っぱは大きく、新芽は食用にもする。

5.爪子とは草履の先端に藁製のおおいを付けたもので雪のときに使うのだが、葛巻では、少しでも保温性を高めるために足にワラ屑をつけてズック袋でくるんでから爪子を履いたとのことである。
6.北海道の入植農家がコメをつくりたがった理由の一つに稲わらの必要性があったと前に述べたが、北上山地でもそうだったのだろうと考える。
7.どういうカブなのかわからないが、きっと飼料用カブなのだろう。西欧に飼料用カブがあるのは知っていたが、日本にもあったのだろうか。
8.11年10月7日掲載・本稿第三部「☆北海道の食文化」(3段落)参照
9.町の電力自給率は180%以上、再生可能エネルギーの開発が課題となっている現在、もっともっとがんばってもらいたいし、多くの人々にここに来て学んでもらいたいものだ。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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