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ソバ、救荒作物・主食、金次郎



                 雑穀談義(4)

             ☆ソバ、救荒作物・主食、金次郎

 「秋ナスは嫁に食わすな」
 これは昔から伝わる有名な言葉だが、これに二通りの解釈があることもよく知られている。
 まず、秋ナスは非常にうまい、こんなうまいものを憎らしい嫁には食わせたくないという「嫁いびり」の言葉だという解釈である。
 もう一つは、秋ナスはおいしくて食べ過ぎてしまい、身体を冷やす恐れがあるので、大事な嫁には食べさせない方がいいという「嫁思い」の言葉だというものである。
 この両者のいずれが正しいかは別にして、たしかに秋ナスはうまかった。皮が固くなり、身が締まってうま味が増したような感じがしたものだった(年中店に並ぶようになった最近はあまり感じなくなったが)。

 今から二百年も前の初夏のこと、ある農家が二宮尊徳のところにナスを持ってきた。うまい。秋ナスのようなうまさだ。尊徳はすぐに村の農家を集めて言った、今すぐに稲を刈れと。稲はまだ青々していて穂も出ていないのにである。続けて言う、刈り取った後にソバを植えろ、今年はまちがいなく冷害になる、ナスが秋ナスと同じくらいうまいことはそれを示していると。半信半疑ながら農家はそれにしたがった。たしかにその夏は寒く、米はほとんどとれなかった。しかし、ソバはある程度の収量が得られ、おかげでみんなは餓えないですんだ。
 こういう話を、小学五年のとき(敗戦の翌年)、子供向けの週刊新聞(『少年タイムス』という名前ではなかったろうか)の連載小説で読んだ記憶がある(もしかすると記憶違いかもしれないが)。実際には、田んぼの稲ばかりでなく畑の綿も刈り倒せ、そして田んぼにはヒエ、畑にはソバを植えよと言ったとのことらしいが、なぜか私は田んぼにソバととしか記憶していない。それはそれとして、ソバというものは寒さに強い作物、短期間で育つ作物なのだということを私はそれで知った。
 そしてこうしたソバのような作物を「救荒作物」と言うことを知ったのはかなり大きくなってからだった。ソバは「天候不順で不作になる年でも短期間で一定の生産量が得られるので、不作時に飢えをしのぐために、主食となる作物の代わりに栽培される作物」と位置付けられていたのである。

 宮城県北の米どころ金成町(現・栗原市)の農家出身のAKさん(中国研究者)はいう。
 小さいころ(1950年代)、3年に一度ソバを畑に植えたものだった。収穫して一定量の種子を採って保存しておき、何かあったときはそれを植える、何もなく3年間過ぎたらその種子を撒いて新しく種子を採り、また3年間保存する。つまり何年もおくと種子が古くなって発芽率が悪くなるので、3年に一度種子の更新をしながら冷害などのときに植えられるように保存しておくというのである。
 こうして種子を採り終わった後に残ったソバの実でお祖父さんがそばを打ってくれた、これはおいしかった、今でも忘れられないとAKさんはいう。そうかもしれない。まさにそれは混じりけなしの新そば、3年に一度のごちそうだからだ。大人にとっても、何かあってソバを植えたりしなくともすんだということなのだから、味は格別だったろう。
 こうして凶作に備えた。まさにソバは救荒作物として位置付けられていた。ソバは冷涼な気候でもよく育ち、生育期間は2~3ヶ月と短かく、夏も秋もとれたからである(註1)。

 このソバ以外に救荒作物として位置付けられているものには、ヒエ、アワがあった(註2)。しかし、そう位置付けられているのは気候の温暖な地域においてだけであり、山間高冷地帯、積雪寒冷地帯などではそれらは主食として位置付けられてきた。
 ヒエ、アワについては前節まで述べてきたが、ソバも主作物の一つ、主食の一つであった。冷害常襲地帯の岩手県北上山地では毎年冷害は来るものとして植えておかなければならなかった。もちろん主食はヒエである。しかしヒエだけを植えるわけにはいかない。ヒエも天候不順に強いという意味では救荒作物なのだが、米と違って連作できず、それだけ植えるわけにはいかないのである。そこで輪作作物として入れられたのが大豆とソバだった。 ソバは土壌をあまり選ばず、適応性があったからである。それでヒエ―麦―ソバの輪作体系はヒエ―麦―大豆と並んで北上山地の主要な作付体系となり、ソバはヒエ、ムギと並ぶ主食の一つとなったのである。

 それでは、ソバはどうやって食べたのか。
 「そば」(註3)というと、われわれはざるそばだとかかけそばだとかをまず思い浮かべる。当然こうした「そば切り」にしても食べたが、「かっけ」、「はっと」にして食べるのが多かったようである。これの方が簡単だからであろう。
 まず「そばかっけ」だが、そば粉に水を加えて良く練り、薄く延ばした生地を三角形に切ってゆがき、にんにく味噌や醤油などをつけて食べるというものである。
 次に、今述べたような薄く延ばした生地を1〜1.5㌢の幅に切って麺状にし、それを野菜などを入れた味噌・醤油汁に入れて煮て食べるのが「そばはっと」である。なお、その麺の長さが10〜15㌢と短いものは「だんぎりはっと」もしくは「さいばんはっと」と呼んだという。
 それからそば粉を練ってちぎって汁に入れて煮た「そばがき」も食べた。
 また、「そばもち」がある。そば粉を練って、厚さ1㌢、直径10㌢くらいの円盤状にして、中にみそを入れて囲炉裏で焼いて食べた。
 これは葛巻出身の研究者NK君に聞いたのだが、他の地域でもそうだったのかはわからない。なお、彼の地域では「むきそば」は食べないようである。

 山形にある私の生家ではそうした救荒対策はとくにせず、米を備蓄しておくだけだった(註4)。だから栽培しているソバを見たことはなかった。ただし、買うかもらったかしたそば粉を祖母が大きなまな板の上で練り、これまた大きな包丁で細く切って麺にしていたのは覚えている。しかしこの灰色のそばがうまいと思った記憶がない。それよりは黄色い麺の「しなそば」の方がおいしかった。なにしろ脂肪分に餓えていた幼いころ、麺よりもあのスープがおいしいからだったのだろう。
 そばを最初にうまいと思ったのは山形の庄内の料理屋でごちそうになった「むきそば」を食べたときだった。殻をむいてゆでて薄皮をとったそばの実に、冷たいつゆをかけて食べるというものだが、これは絶品である。それから突然そば好きになってしまった。
 大阪に行ったとき、そばを食べたくなってそば屋に入ろうとした。そしたら先輩研究者でそば好きのKTさんが「関西でそばなど食べるものではないよ」と笑う。そういえばそうだった。関西は二毛作・麦作地帯、うどんが主体だった。あらためてソバは冷涼地帯の作物なのだと思ったものだった。

 そば屋さんは全国各地にある。そして日本人はその昔以上にそばを食べている。つまりソバの需要はある。したがって、ソバの栽培はヒエやアワのように減らないはずである。ところが1960年代から激減した。アメリカや中国からの輸入が激増したからである。それでも国産のソバ粉に対する需要は根強く、徐々に栽培面積が復活している。また、地域で栽培したソバを地域で食べてもらおうという努力も続けられている。山形内陸の「そば街道」の創設などはその典型例だ。それでもまだまだ自給率は低い。国産国消の運動をもっと展開し、ソバの自給率を高め、地域農業の活性化をさらに進めていく必要があろう。

 ところで、私の生家ではソバを栽培したことがないと言ったが、70年代ころではなかったろうか、母が家の前の畑にほんのわずかソバを植えていた。実を採るためではない。茎葉が20㌢くらいに伸びたころに採って、お浸しにして食べるのである。赤い茎がきれいで、特別な癖もなく、さっぱりしておいしかった。残念ながら、このソバの苗はどこでも売っていない。山形内陸の「そば街道」にあるそば屋さんなどではあるいはそのお浸しを出しているかもしれないが、どうなのだろうか。
 ソバの大産地北海道では食べたことがない。間引きした苗を商品化すること、あるいはお浸し用として栽培することも考えていいのではなかろうか。
 北海道で思い出したが、農大のゼミ卒業生で十勝平野士幌町で農業をいとなんでいるST君がときどき自家産のそば粉を送ってくれる。家内がそれを打ってごちそうになっているが、やはり国産そして手打ちのそばはおいしい。本当にそばの味がする。各家庭でも国産そば粉で手打ちをして食べてもらいたいものだ。

 ちょっとここで脱線させてもらいたい。
 さきほど二宮尊徳と言ったが、彼の幼名が金次郎だったことはたいていの方が知っている。とくに私たち世代以上のものは老若男女ほとんどすべての人が知っており、尊徳の名は忘れても二宮金次郎は覚えているはずである。ほとんどの小学校の校庭に、薪を背負って歩きながら本を読んでいる1㍍くらいの高さの金次郎の銅像もしくは石像が台座の上に立っていたからである。前にどこの学校にも奉安殿があったと言った(註5)が、金次郎の像もそうだった。だから私はこれも政府の命令でつくらされたのだろうと長いこと考えていた。そうなると、戦後、奉安殿といっしょに金次郎の像は占領軍か政府の命令でこわされたはずである。実際に戦後あまり見かけなくなった。でも残っているところもあった。なぜだろう、命令でなくさせられたわけではないのだろうかと疑問に思ったのだが、それは次のようなことからだった。。
 そもそも金次郎の像は政府の命令でつくられたのではなく、地元民や卒業生、篤志家の寄付で建てられたものだった(それを私が知ったのはかなり後だったが)。昭和初期の世界大恐慌と凶作で疲弊する農村で「自力更生運動」が展開され、その一つとして「勤倹貯蓄」が勧められた。そのさいの模範として取りあげられたのが二宮尊徳の勤勉・倹約であり、とくに金次郎と呼ばれていた小さいころ薪を背負うなど家の仕事を手伝いながら本を読むなど勉強もした、それを手本にしようと1930年代に金次郎のあの像が全国の小学校に建立されたのである。政府ももちろんそれを推奨した。自主的に国家に献身・奉公する国民の育成に役立つからである。
 戦後、この銅像は校庭から姿を消した。勤倹貯蓄の勧めで戦争遂行に役立てられたのだから、これは占領軍か政府の命令で像が撤去されたのだろうと私は思っていた。しかしそうではなかった。銅像の場合は戦争末期に姿を消していた。軍需品製造のための金属製品の供出で、金次郎の銅像もお国のためということで供出させられ、なくなってしまったのである。
 もちろん石像は残った。しかしその一部は占領軍等がきっと禁止するだろうと地域や学校が考え、占領軍におもねって、奉安殿といっしょにこわしたところもあったようである。なお、私の小学校は敗戦直後に占領軍に接収されたので、占領軍の手で撤去された。
 それでも、戦後も二宮金次郎はお手本として子どもの教材になった。勤倹貯蓄で復興を図ろうと言うことからである。最初に述べた二宮尊徳とソバの話も戦後の少年週刊紙がそういう趣旨で掲載したのではなかろうか。
 だから金次郎の石像は残った。新たに建設されることはもちろんなく、修理費用がなくて撤去したところもあり、少しずつ減っては行ったが。
 勤倹貯蓄があまり話題にならなくなったころ、そして交通事故が多発するようになったころ、この金次郎の像が問題になった。歩きながら本を読んでいたら交通事故にあってしまう、それを推奨するような像は撤去すべきだという動きが出てきたのである。それで実際に撤去されたかどうかはしらない。しかし今は金次郎の石像は珍しい存在になってきている。
 ご存じのように、二宮尊徳は日本における協同組合運動の創始者、忘れないようにだけはしてもらいたいものだ。
 さて、話をもとの雑穀に戻そう。

(註)
1.ソバが救荒作物となった理由について、下記の記事で一つの考えを述べているので参照していただきたい。
  11年8月10日掲載・本稿第二部「☆転作麦・豆とソバの花」(2段落)
2.サツマイモ、ジャガイモも救荒作物として位置付けられており、そもそもはそうしたことから普及したものである。そのことについては下記の記事で述べているが、現在はそのような意味で作付けしているわけではないので、ここでは省略してある。
  13年1月.31日掲載・本稿第五部「☆サツマイモ、食糧難、蔓}(1段落)
3.ソバとそばと二つの言葉を使っているが、植物名として書く場合には片仮名で書くことになっているのでソバとし、食べ物等それ以外に用いる場合には平仮名のそばとする。
4.10年12月7日掲載・本稿第一部「☆米が食べられなかった稲作農家」(1段落)参照
5.12年8月20日掲載・本稿第四部「☆宮城遙拝・勅語奉読」(1段落)参照
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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