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水田の機能向上の取り組み



                 水田と水稲・補論(3)

               ☆水田の機能向上の取り組み

 いうまでもなく水田を造成するのは容易ではない。畦畔をつくり、耕盤をつくり、表土を均平にすることが必要なので、畑地の造成に比べたら何倍もの手間暇がかかる。しかもわが国は起伏、急傾斜が多く、そこで表土の均平を図り、土壌の流亡を防いでいくのは容易ではない。それに用水路、排水路の整備が必要である。だから、土木技術の発展していない段階ではなおのこと大変だった。水田の区画は零細、不整形とならざるを得なかった。ましてや起伏、急傾斜の多い日本では区画は小さくせざるを得なかった。畑でさえ土壌の流亡を抑えるために段々畑のように傾斜に応じて区画を小さくしなければならないのに、水田の場合はそれに加えて地表の均平化が必要となるからである。すなわち畑なら若干の傾斜があってもいいが、さきに述べたように水田は水をためておかなければならず、地表の均平化が必要となる。しかし地表が均平な大区画の水田を造成するのは当時の技術水準では無理である。それで小区画にせざるを得なかったのである。しかもそれをあちこちに分散して耕作していた。こうした零細分散耕地制の問題点と利点については前に述べたので省略するが(註1)、問題点を解決しつつ水田の能力をさらに向上させるために私たちの先祖はさまざまな努力を積み重ねてきた。とくに、稲作にきわめて重要な役割をを果たしている水を必要な時期に供給し、不必要な時期には排除できるようにと水田の灌排水施設の改良に努めてきた。

 前にも述べたが、このことを農大の学生に説明しようしたときに困ってしまった(註1)。大半の学生が都会出身、農業に強い関心を持っているが、田んぼは見たことがあるだけ、基礎的な知識をもっていないものが多いからである。言葉だけではわかってもらえないかもしれない。そこで田んぼの模式図を使ってみようと考えた。前回掲載の図もそういうことから書いてみたのだが、こうしたことは私の不得手(子どもの頃図工は全然だめだった)、しかも農業土木の専門家でないので不正確、それでもやはり言葉だけで説明するよりは理解してもらえるかもしれないと思ってつくってみた。それなりにわかってもらえたのではないかと思っているのだが、ここではそれを使ってみたい(こんなことは不必要かもしれないが)。

 その昔の技術水準の低かった時代、水路を十分に整備できず、水量を十分に確保できなかった。それで、最初は排水路を用水路としても利用していた。つまり排水した水を用水としても利用したのである。それで第1図のような用排水兼用の水路がほとんどであった。水路の上流の灌水用の水口(みなぐち)から灌水し、不必要になればその水口を泥や石でふさいで水が流入しないようにし、下流にある排水用の水口を開けて排水するのである。
用排兼用水路
 さらに、用水路の水量がわずかであること、用水路のために使う土地がもったいないことなどから、田圃の高低差を利用して上の田圃から順次下の田んぼに直接水を流して灌漑排水する「掛け流し」灌漑をする場合も多かった。つまり上の田んぼが利用した水を水口から下の田んぼに直接流し、下の田んぼはその水を利用し、さらにそれをそのままもっと下の田圃に直接排水し、下の田圃はその水をまた灌漑に利用するのである(第2図)。このような上の田の排水を直接下の田の用水にするという掛け流しは山形内陸の私の生家の田んぼにもあったが、その姿形がよくわかるのは棚田である(第3図)。山間傾斜地では、均平化しやすいように、また水を貯めやすいように、小さい区画の田んぼを土地の高低にしたがって作っているが、そのいわゆる棚田の高低差を利用して上の田から下の田へと水を掛け流しているのである。
 棚田平面
棚田断面
 このように水利技術が未発展で水が豊富に供給できない段階では、排水を用水として再利用して、つまり少ない水の再利用でもって対処するより他なかった。
 しかし、他人の田圃を水が通るこのような掛け流しでは自由な十分な水管理ができない。稲の生育や農作業に必要な時に水を落とそうとしても上の田から自分の田に水が流れてくれば思うように排水できないし、水をかけたくとも上の田んぼの水口が閉まっていれば水は来ないからである。水路を利用している水田にしても、用排未分離では用水と排水の水口の間の高低差があまりないので十分に用排水ができない。
 そこで必要となるのが「用排分離」、つまり前回の掲載記事に書いた水田模式図のように用水路と排水路をそれぞれ別につくり、排水路の川底を用水路よりも低くして排水がうまくいくようにすることである。
 しかしそれでも不十分である。単に水口から排水するだけでは十分に水を落とすことはできないからである。とくに地下水位の高いところはそうである。これでは水稲の収量はあがらないし、稲刈りなどの作業もしにくい。だからといって水田のなかに多くの排水路をつくったら稲を植える面積がそれだけ減る。また区画も小さくなって作業もしにくい。
 それを解決すべく明治期に開発されたのが「暗渠排水」だった。土の中に排水路をつくるのである。つまり第4図に例示したように、水田に何メートルかおきに細長く溝を掘り、そこに排水管を敷設する。現在の工法で説明すれば、トレンチャーで約80㌢の溝を約10㍍間隔で掘り、そこに小さい穴を空けた直径5~15㌢のパイプ(かつては粗朶・柴、土管だった)を埋設する。そしてそのまわりを籾殻で包んで埋め戻す。そうするとその管に地下水や浸透してきた地表水が沁みこむ。その沁みこんだ水がパイプを通って排水路に流れこむ。この地下の目に見えないパイプ=水路のことを「暗渠」と言う(これに対比して目に見えるつまり地表を流れる水路を「明渠」と呼ぶ)のだが、これも使って排水するのである。
暗渠
 なお、こうした用排分離や暗渠排水をするためには、これまでのような不整形で小さい水田の区画を改良しなければならない。方形に整備し、その区画も大きくしなければならない。そのさい長方形にすると畜力や機械による耕起・代掻きなどの作業が効率よく行えるので、畜力段階のときは10㌃、機械化段階になってからは30㌃以上の長方形の区画に整理するようになってきた。 そのさい問題になるのは各農家の零細な水田が分散していることである。たとえばこれまでの1㌃区画の土地10枚をまとめて10㌃区画にしようとする時、それがすべて自分の土地ならいいが、そのうちの何枚かが他人の土地なら、自分の都合だけで一区画にまとめることはできない。たとえまとめたとしてもその10㌃を所有権に応じて細かく分けてばらばらに耕作するのであれば整理する意味がない。そこでなされたのが「交換分合」であった。つまり分散している土地の所有権をおたがいに交換し、何箇所かに耕地をまとめるのである。
 また、この区画整理といっしょに「客土」(前回掲載記事の註5参照)をする場合もあった。とくに泥炭土壌地帯や漏水しやすい水田などでこうした客土が行われた。このように区画整理のさいばかりでなく、個人もしくは共同で用排水路や湖沼などの泥土を水田に入れ、流出した養分を補給して土壌を若返らせる客土も行ってきた。

 こうして水田それ自体の整備改良を進めると同時に、水路に水を引いてくるために川に堰をつくったり、ため池や大きなダムをつくったり、大雨、大水で被害が起きないように堤防を整備するなど、多くの人の共同協力で取り組んできた。また、畦畔や水路、堰等の平素の維持管理、補修もみんなの力で行ってきた。耕地整理や用排水路整備にさいしては、関係者みんなで土地を出しあい、あるいは交換分合したりもしてきた。そして今にいたっている(註2)。
 このように水田は、何百年あるいは何千年にわたる何百人何千人の力でつくられ、また維持されてきたものであり、まさに文化遺産なのだが(註3)、この水田と水、そして稲作にかかわる諸技術の発展を基礎にして日本の稲作は今日の生産力水準を獲得したのである。

(註)
1.11年6月22日掲載・本稿第二部「☆水田の基盤整備の進展」参照
2.こうした土地改良の努力の一端を下記の掲載記事で紹介しているので参照されたい。
  11年3月8日掲載・本稿第一部「☆ヒデリノナツの緩和」、
  11年6月22日掲載・本稿第二部「 前 掲 註1 」(2~7段落目)
3.前に下記の掲載記事で棚田を文化遺産と言ったが、普通の水田もそうなのである。なお、畑地も同じで、人間が作り上げ、育て上げてきた文化遺産であることはいうまでもない。
  11年11月9日掲載・本稿第三部「☆土地基盤整備と農村景観」
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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