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もち米、赤飯、餅搗き



               水田と水稲・補論(6)

               ☆もち米、赤飯、餅搗き

 女満別空港から東に網走に向かっていく途中に、わずかだが田んぼがある。そこは女満別町(現・大空町)で、網走市に入ると水田は一切ない。70年の減反以降なくなったそうである。一方空港から東の方向、つまり北見の方に向かうと、けっこう田んぼが見える。こうした田んぼを経営している農家からお米を買っている地産地消の婦人グループが網走市内にあった。このうちの何人かと家内は友だちになったが、「東北の米はおいしいものねえ」と、さすがに家内には参加を勧めなかった。私たちが行って2~3年してその産直グループは解散した。うるち米をすべてもち米に切り換えることにしたので供給できなくなったと農家から丁重に断られたという。安くしか売れないうるち米からよく売れる「はくちょうもち」という品種のもち米に全面積切り換えることにしたというのである。そうなのである、網走管内は稲作地帯の上川管内(旭川周辺)に次ぐもち米の産地となっており、北海道は国内第一位の生産量を誇るにいたっていたのである。
 うまい米を誇る東北の各県と新潟ももち米の産地、もち米は北国に適するのだろうか。と思ったのだが、そのときふと九州の熊本を思い出した。考えて見たらここももち米の産地になっていた。
 97年秋、熊本での文部省の用事が終わった後、熊本の研究者仲間の一人が農村地帯を案内してくれた。20年ぶりの熊本農業、大きく変わっていた。たとえば広大な干拓地に水田がひろがり、イグサと米の産地として有名だった八代地域は、中国からの輸入でイグサの生産は落ち込み、米の減反もあり、それに対応して野菜が導入されるなどしていた。もちろん米も生産していたが、それはすべてもち米になっていた。米どころとして有名だった八代地域、それがどうしてこうなのかと聞いたら、八代の米は食味が今一つであまり売れない、そこで全面積もち米に切り換えることにしたというのである。でも自家飯米用のうるち米はつくっているのだろうと聞くと、それもやめて飯米はすべて農協が別の地域から買って供給することにしたのだという。何という思い切った転換と驚いてしまった。なお、同じく九州の米どころで食味の問題も抱える佐賀県でももち米への転換を進めたと聞いている。このように、南でももち米の主産地となり得るのである。もちろん、こちらの主な品種はヒヨクモチというように異なるが。
 かくして現在のもち米の主産地は、北海道・東北と九州、つまり北と南に位置するようになっている。

 米には「粳(うるち)」と「糯(もち)」の二種類あり、通常主食として食べているのがうるち米、餅や赤飯などに用いるのがもち米である。こんなことは日本人であればほとんどみんな知っている。しかし、トウモロコシ、アワ、キビ、ヒエなどの穀物にも「うるち」と「もち」があることを知ってる人はさすがに少なくなる。
 このうるちともちの差異は穀物の主成分デンプンの組成の差異によるもので、デンプンの一成分のアミロースが含まれているものが「うるち」、まったく含まれていないものが「もち」なのだそうである。そしてもち米はアミロペクチンというデンプンだけで構成されており、そのために粘っこく、うま味も強くなるのだという。
 この粘っこさを利用して餅を搗(つ)いて、あるいはそれに加えてのうま味も利用して赤飯などのご飯にして、日本人は昔から食べてきた。
 そのさいには、うるち米のように煮るのではなく、蒸してご飯にした。もち米を普通につまりうるち米のように水を入れて炊くとアミロペクチンが糊のようになってきて米粒がお湯の中を動けなくなり、熱が均一に伝わらなくなるので、炊き上がりにむらができ、下の方は焦げるなどおいしく炊けないため、熱の通りがよい蒸気を利用するつまり蒸すという方法をとったとのことである。
 そして日本人は、こうして蒸してできあがったものをそのまま赤飯などご飯の形で食べ、あるいは杵と臼で搗いて餅にして食べてきた。
 ただし、赤飯と餅はうるち米のように毎日食べるものではなく、おめでたいときに食べるものだった。それで疑問となる、なぜ毎日食べなかったのだろうかと。
 それはまず、もち米の収量がうるち米よりも低いことからだったのだろう。主食として毎日食するには安定多収のうるちの方がいいからである。また、もち米では甘すぎて毎日食べるのではあきてしまう、餅を搗くのも大変ということもあったと思われる。
 それならもち米をつくるのはやめてすべてうるち米にした方がいいとも考えられる。だけど、たまには甘いもち米のご飯を食べたいし、餅にしても食べたい。そこで、お祝いのときに食べるということになったのではなかろうか。
 さらに赤飯については次のような理由もあったろうと考えられている。そもそも縄文時代に日本に渡ってきた米は赤米だったと言われており、したがってそのころは赤飯を食べたのだろう。しかし当時は米はめったに食べられない貴重な食べ物、祝い事など何か特別のときにしか食べられなかっただろう。したがって、米つまり赤いご飯はお祝いなど重要なときに食べるものだった。やがて白い米の多収品種が栽培されるようになり、それを普通に食べるようになったが、その昔の習慣が残り、お祝いのときには赤飯を焚いて食べるということになったのだろう。そのさいには、うるちよりも収量が低くてそう日常的に食べることはできないが、うるちよりも甘みのあるもち米に小豆もしくは赤色のささげで色をつけて赤飯として食べるということになったのではなかろうか。

 私の生家では神社の祭りには必ず赤飯だった。結婚式、出産、齢祝い等々、何かあると赤飯を炊いた。なお、山形市周辺では赤飯を「おふかす」と言った。これは「お蒸(ふ)かし」のこと、焚いたのではなく蒸(む)した、蒸(ふ)かしたご飯であるということから名付けたのだろう
 内祝いなどで赤飯を炊いた日、できあがると祖母から言われる。
 「となりのうづさ おふかす もてんげ」
 (隣りの家に) (お蒸かし) (持って行け)
 自分の家で食べるだけでなく、お祝いのおすそ分けで、 隣近所や親戚に赤飯を重箱に詰めて配るのである。遠くの親戚へは自転車で大人が持っていき、隣近所に配るのは子どもの仕事である。持っていくと、そこの家の人が「ありがどさま」と言いながら、風呂敷に包んだ重箱を受け取り、台所に持って行って大きな皿にそっくり赤飯を移し、空になった重箱を洗い、そのなかにお返しの「付け木」(註1)を入れ(そもそもはマッチだったはずだ、戦争が激しくなってマッチが少なくなってきたころに付け木に変わったのだと家内は言うのだが)、蓋を閉めて風呂敷にまた包んで返してよこす。それといっしょに、「ご苦労さま」と言いながらお菓子やお小遣いを子どもの私にくれる。帰りの重箱は軽い上にお小遣い、どうしてもうれしくなって走ってしまう。なお、南天の葉っぱを取って重箱のなかに入れたような記憶があるのだが、はっきりしない。
 それが終わると、自分たちも食べる。熱々のお赤飯にごま塩をふりかける、これがまたもち米の甘みを引き立てる。しかも飽きさせない。塩味があるのでおかずなしでも十分に食べられる。毎日食べていたら飽きるかもしれないが、たまに食べると本当にうまい。
 ただし私は小豆が苦手、もっといやなのは赤いささげが入っている場合、でかくてごそごそして赤飯のうまさを損ねる感じだった。それで子どものころは、ささげを一つ一つ取ってご飯だけを食べようとしたものだった(大人からは怒られたが)。
 なお、北海道では小豆などのかわりに甘納豆を入れるという。最初それを聞いたときは冗談で言っているのかと思った。そもそももち米が甘いのになぜ甘納豆なのか、信じられない。北海道は甘納豆の原料のインゲン豆等の大産地、これも有りかとは思うが、私は食べる気はしない。

 赤飯と祝いの関係については今述べたように考えているのだが、餅についてはなぜそれがめでたい日なのかよくわからない。「餅」は「持ちがいい」、「長持ちする」に通じるので縁起がいいからだという説があるが、ふかして搗くのはけっこう大変な労働だし、毎日これを食べるわけにもいかないし、切り餅にして長くおけばカビが生じる危険性があるなどということでめでたいときだけに搗くことにしたのではないかと私は考えている。
 とは言っても、まともに臼と杵で餅を搗くのは正月と旧正月、それに稲の刈り上げの時だけだった。例外的に特別に搗くことはあった。たとえば、一歳の誕生日に一升餅を搗いてお祝いをする、建前のときの餅まきのために餅を搗くなどということがあった。

 餅搗きの日、これは子どもたちにはとっても楽しいのだが、大人はけっこう大変だった。正月の餅搗きでそれを見てみよう(註2)。
 まず餅搗きの前の日、もち米を研ぎ、翌日搗く直前まで水に浸けておく。正月に食べる餅、鏡餅・切り餅、何しろ大家族それに加えて分家など親戚の分まで搗くのだから、研ぐもち米の量は膨大、母は本当に大変だ。手は真っ赤になっている。
 翌朝早くから、かまどに火を熾し、それにかけた蒸(ふ)かし釜でもち米を蒸かす。釜の上のせいろは二段になっていて、上と下それぞれに蒸かし布に包んだもち米を入れ、蒸気が上下両方に行くようにし、直接釜の上に載っている下のせいろのもち米が蒸かし終わると上のせいろと交代し、また上に新しいもち米を入れたせいろを上げる。餅が搗き終わったころにすぐに次の餅が蒸かしあがっているようにしてあるのである。
 蒸かし終わったもち米は蒸かし布に包んだまま運んで大きな臼に入れ、蒸かし布を外す。
 それでいよいよ餅搗きが始まるわけだが、その前に、母はふかふかと湯気を立てている熱々のもち米をへらでご飯茶碗に入れ、塩をちょっとまぶし、茶碗をくるくると回しながらおにぎりをつくる。手で直接握るにはご飯が熱過ぎるからだ。できあがるとそれを小皿の上におく。そしてまた握りながら、子どもたちを呼ぶ。こたつのところで遊んでいた私たち子どもはそれを聞いて争って走っていく。もう奪い合いだ、待ってましたとばかりに小皿を取り、おにぎりにぱくつく。うまい、もち米の甘さと塩がぴったりだ。ただしちょっと時間をおくと固くなってしまう。それで熱い熱いと言いながら急いで食べる。このように、搗く前の蒸したもち米をおにぎりにして塩をつけて食べるのが楽しみだった。家内も、そうだった、これを食べるのは搗き上がった餅を食べるのとはまた違った楽しみだったと言う。

 さて、子どもたちがおにぎりを食べている頃、父は大きな杵を臼の中に入れてもち米をこね始める。ある程度粘るようになったら、その杵を振り上げて搗き、母はそれに合わせて餅を返す。ときどき手を水でぬらす。これを繰り返してようやく搗き上がる。
 それをまず、米粉をたくさん撒いた大きな板の上で祖母が丸め、大小さまざまの鏡餅をつくる。神棚、床の間等々あちこちに飾るのでけっこうな数が必要である。
 もう一方では、また蒸かしあがったもち米を臼に入れて搗き始める。こうして次に搗きあがった熱々の餅を縦50㌢、横30㌢、深さ10㌢くらいの長四角の木の箱(大きさは正確なものではない、なお大小さまざまあった)の中に入れる。もちろんその前に箱の中に米の粉が撒かれている。箱にくっつかないようにするためである。すると餅は箱の形に合わせて平らになる。こうしてできた「のし餅」を翌日適宜切ってつまり「切り餅」にして冬中保存し、焼いたり、煮たりして食べる。
 こうしたのし餅づくりのための餅つきが何回かなされた後、そのまま食べる餅が搗かれることになる。熱々の柔らかい餅を母や祖母が手でちぎってお雑煮に入れ、あんこ、納豆などに入れてみんなで食べる。

 なぜか知らないが、生家の臼は大きく、杵は重かった。何しろ一回で3升のもち米を搗く(家内はもっと多かったはずだというのだが)のだから。小学生のころ杵をもって振り上げようとしても、とてもじゃないが、できなかった。中学生になってからは何とか一臼搗けるようになり、高校の頃は一人前に餅つきをやれたが、けっこう大変だった。
 それだけではない、餅つきが終わった後の臼や杵の片付け、杵や臼に付いた餅をとったり、洗ったり、この水仕事、けっこう大変だった。それは母の仕事だったが、その後に臼を片付けて小屋に運ぶ等の力仕事は父がやった。
 なお、これは正月の餅つきで、刈り上げのときなどはその日に食べるだけの餅つき、のし餅をつくらないので早く終わった。
 ただし、旧の正月には、「かき餅」「くだけ餅」も搗いたので、新正月ほどではないが、それなりに大変だった。このことについては次回述べることにする。
 (次回は4月25日掲載とさせていただく)

(註)
1.「付け木」とはどのようなものかについては下記の記事を参照していただきたい。
  10年12月13日掲載・本稿第一部「農家の子どもたち(1) ☆家事の手伝い」(7段落目)
2.11年1月26日掲載・本稿第一部「ひとときのゆとり(3) ☆季節の行事、祭り」(2段落目)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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