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かき餅・くだけ餅、牡丹餅、ちまき


                水田と水稲・補論(7)

              ☆かき餅・くだけ餅、牡丹餅、ちまき

 旧正月に搗く「かき餅」については前に述べた(註1)が、山形市周辺で言うかき餅とは「薄く四角に切って外に干し、からからに乾燥させ、焼くか油で揚げるかしてふくらまして食べる餅」のことで、保存食として搗いたものである。
 もう少し詳しく言うと、前回述べたようにして蒸かしたもち米に黒ごまあるいはゆでた大豆、それに砂糖あるいは塩を入れて搗く (何も入れずに搗く場合もある)。搗いた翌日あるいは翌々日、のし餅にしてあるそれを長方形に本当に薄く切り、わらで編んで連にして外に干す。一週間くらい干したのではなかったろうか、からからに乾いたその餅、つまりかき餅を連から外して家の中で保存しておく。普通の切り餅のように湿っておらず、乾燥しているのでかなりの期間保存しておける。そして、たとえばおやつのときなどにかき餅を火鉢の炭火で焼く。網の上に載せ、膨らんで来たら火箸でその部分を圧して伸ばす。また別のところが膨らんで来たら伸ばすというようにしてせんべいのように膨らませ、当初の姿の1.5~2倍の大きさに伸ばす (「芭蕉せんべい」というお菓子をご存じだろうか、子どもの頃お祭りの時などに露店があぶりながらのして売っていたものだが、あれを思い出していただければいい)。かりかりしておいしい。私がとくに好きなのはごま塩が入っているかき餅だったが、当時は糖分に餓えていたころ、砂糖が入っていてほんのり甘いのも好きだった。しかし焼き方が失敗すると固くてまずい。なかなかうまく焼けず苦労したものだった。

 この旧正月には「くだけ餅」も搗き、これもかき餅にした。これはこういうものである。
 収穫後のうるち米の調整の過程で売り物にならない米が出てくる。米選機で選別された屑米(未熟粒、細粒、小粒)や砕米(籾摺りなどの過程で砕けた米)、つまり売り物にならず、精米して白米にすることも難しく、ご飯にして食べるのも難しいうるち米がどうしても出るのである。これを捨てるのはもったいない。
 そこでその屑米や砕米のうちの相対的に粒の大きいうるち米に餅米を少し入れ、普通の餅搗きと同じように蒸かして臼で搗く。精米していないつまり玄米のままだから、餅の色は灰色になり、米粒の形も少し残る。それを私たちは「くだけ餅」と言ったのだが、それをこのまま餅として食べても全然おいしくないし、切り餅にして焼いて食べてもおいしいものではない。そこでかき餅にする。つまり薄く切って外に干し、さっきかき餅のところで述べたようにして焼いて食べる。そうすると何とか食べられる。
 春先、暖かさと湿気でもうこのまま保存しておけなくなるころ、祖母は残ったかき餅全部(くだけ餅も含めて)を油で揚げる。ふわふわさくさく、香ばしくてうまかった。砂糖があるときはそれを上にかけてくれる。脂肪不足、甘味不足の戦前戦後の子どもにとってこれは最高のごちそうだった。
 また、ちょうどそのころに回ってくるバクダン(ポン菓子)屋に頼んでバクダンにしてもらう(註2)と、これまたおいしかった。

 お盆、お彼岸にも餅を搗いた。しかし、臼と杵では搗かない。
 蒸したもち米を大きなすり鉢に入れ、すりこ木でつぶして餅にした。これも子どもが手伝わされた。最初はおもしろく、こっちの米を搗こう、あっち側に寄ってしまった米を潰そうなどと楽しみながらやっているが、なかなかうまく潰れず、そのうち手が疲れ、やめたくなったり、飽きてしまったりしたものだった。
 いうまでもないが、すり鉢ではどうしても完全には搗けない。もち米の粒粒が少し残る。そのためだろう、こうして餅を搗くことを「半殺し」ともいった。何とも物騒な言葉だが、ご飯粒が完全につぶれないで半分くらい残るということからなのだろう。山形だけの言葉かと思ったら全国的に使われているらしい。
 こうして搗いた半殺しの餅を餡子、黄な粉、納豆などで食べる。私たちはそれを「牡丹餅(ぼたもち)」と呼んだが、臼で搗く餅とはちょっと違った味、食感、それはそれなりにうまかった。
 なお、お盆の時にはそれを「ぬた餅」(註3)にしても食べた。お盆はちょうど枝豆のとれる季節、畑から取ってきてゆで、すり鉢で砂糖を入れて潰し、それを半殺しの餅につけて食べるのである。まさに季節料理、おいしく食べたものだった。
 この盆、彼岸以外にも牡丹餅を搗いた記憶があるのだが、どういうときだったかは覚えていない。

 それから春になると草餅をつくった。ただし、これはこれまで述べてきた餅とはちょっと違う。もち米を搗くのではなく、うるち米の粉でつくるものだからである。つまり米の粉を練って蒸し、「もずんくさ(餅草)」つまりよもぎの新芽を細かく刻んで混ぜ合わせ、それを薄い皮状にしてそのなかに餡を入れて包んでつくったものである。この「もずんくさ」を田畑から採ってくるのは私たち子どもの仕事だったが、あの苦みとよもぎ独特の匂い、私はどうしても好きにはなれなかった。甘いあんこには魅力があったのだが。
 もう一つ、柏餅、これも草餅と同じく米の粉を練ってつくったもの、もち米とは関係ない(註4)。
 しかし、同じく五月の節句に食べる「ちまき」はもち米でつくったものである。もち米を笹の葉で三角形に巻き、それをイグサで縛り、そのまま蒸したもので、葉をむいて食べる。黄な粉や醤油につけて食べるが、何もつけずにそのまま食べてもおいしい。笹の葉に巻いておくと悪くならないとのことである。ただし、二日くらいおくと中のもち米はササの葉の色を吸って黄色くなる。でも、それはそれでおいしい。

 餅、私の子どものころを例にして見てきたが、もち米は日本人の暮らしの不可欠の一部をなしてきた。
 しかし、臼を持たない家があつた。とくに町場の一般庶民はその居住環境からしても持てず、餅は買って食べるものだった。
 農家でも経済的理由から臼を持てないものがいた。たとえ持っていても餅を搗けない農家もあった。
 何しろもち米は単収が少ない。したがって面積が少ない農家、とくに収穫した米の半分を年貢として納めなければならない小作農家は、多収のうるち米をつくって小作料を収め、何とか家族の食料を確保するより他なかった。それならもち米を買って臼で餅を搗けばいいのだが、買う金などなかった。
 米のつくれない地帯の農家も餅は食べられなかった。うるち米でさえなかなか買えないのに、もち米など買えるわけはなかった。それで、前に述べたいも餅やかぼちゃ餅、もちアワをつくってのアワ餅で我慢するより他なかった(註5)。
 しかし、戦後の民主化と稲作生産力の向上でみんな餅を食べられるようになってきた。
 ところが、農産物輸入の増加とともに食生活は変化し、1970年代から餅の消費量は減ってきた。電気餅搗き機ができてどの家庭でも餅が搗けるようになったにもかかわらずである。

 それでも、お正月にはほとんどの日本人が餅を食べる。お彼岸やお盆には「おはぎ」を食べる。結婚式など何かめでたいことがあるとお赤飯を食べる。こうした食の伝統はまだ残っている。
 しかし、自分の家でお赤飯を焚いたり、餅を搗いたりする家は本当に少なくなった。
 町のど真ん中になってしまった私の生家でも臼で餅を搗くのはかなり前にやめてしまったし、隣近所もとっくにやめた。電気餅搗き機ができたのでそれで搗いている家もあるが、多くは店から買っているようだ。
 量販店の食品売り場に行けば必ず切り餅は売っているし、お正月近くになれば鏡餅も売っているので、無理して自分の家で搗かなくともよくなっている。コンビニによってはお赤飯弁当も売っている。
 その点では便利になった。重い杵をもって臼で餅を搗く、こんな重労働から解放された。
 でも何かさびしい。生活にかかわる農家調査、これをしなくなってからもう20年以上にもなるのでわからないが、村々でも臼で餅を搗かなくなっているのだろうか。
 1月10日に開かれる山形の初市(註6)では山村集落の方がつくった臼や杵をたくさん売っていたが、今はどうなっているのだろうか。臼や杵をつくる技術は伝承されているのだろうか。

 臼で搗けなくともやはり自分の家で餅を搗きたい。それで私と家内は毎年お正月に電気餅搗き機で餅を搗いている。ただし家内の家のしきたりにならって大晦日に餅を搗く(註7)。
 もち米が蒸しあがると、前回述べたようにまずおにぎりをつくり、それから餅搗きのスイッチに切り換える。そして声をかける、「おにぎりができたよ」、二階で遊んでいた孫たちがあわてて下に降りてくる。孫たちの大好物、フーフーしながら、私たちもいっしょに食べる。
 搗きあがると孫たちは鏡餅つくりだ。またのし餅もつくっておく。これが毎年の慣例となっている。
 蒸かしおにぎりと鏡餅・切り餅つくりだけは最低限孫たちに伝えていきたいものだと思っている。

 五月の節句、今各家庭でちまきをつくっているだろうか。そもそも食べているのだろうか。柏餅は売っているが、ちまきは見たことがないからだ。
   「柱の傷は おととしの
    五月五日の 背くらべ
    ちまき食べ食べ 兄さんが
    はかってくれた 背のたけ ……(後略)……」
 この『背くらべ』(註8)の歌はあまり歌われなくなっているが、ちまきも忘れられてしまうのだろうか。
 家内は私の生家でちまきの作り方を教わったのだが、ずっとつくらないでいるうちにイグサでの縛り方を忘れてしまったという。母も亡くなってしまったので聞くに聞けなくなった。私の大好物、何とか思い出してつくってもらいたいものである。
 なお、笹、柏、朴など山野の木の葉で食べ物を包む、よもぎなど雑草を食べる、ここで述べたこと以外多々あるが、こうした古来の伝統を今後ともまもり育てていく、こうしたことも考えていく必要があるのではなかろうか。
(次回掲載は5月1日とさせていただく)

(註)
1.11年1月27日掲載・本稿第一部「ひとときのゆとり(4) ☆二回あった正月」(1段落目)参照
2.11年1月26日掲載・本稿第一部「ひとときのゆとり(3) ☆季節の行事、祭り」(2段落目) 参照
3.宮城県では「ずんだ餅」というが、今それを宮城の名産品として売り出し中である。
4.前掲・11年1月26日掲載稿(3段落目)参照
5.13年1月28日掲載・本稿第五部「イモ談義(5) ☆じゃがバター、いももち、かぼちゃもち」(1、2、4段落目)、
  13年3月4日掲載・本稿第五部「ムギ・雑穀談義(5) ☆五穀・雑穀、ヒエ、アワ、キビ」(4段落目)頁参照
6.前掲11年1月27日掲載稿(4段落目) 、
  11年5月27日掲載・本稿第二部「変わり行く生産と生活のしくみ(5) ☆農村と山村の結合の解体」(1段落目)参照
7.前掲 11年1月26日掲載稿(2段落目)参照
8.作詞:海野厚 作曲:中山晋平 1923年
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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