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農家の暮らし(6)

   

                ☆つぎはぎだらけの衣服

 赤ん坊のおむつは今のように紙ではなく布であり、それも自分の家で、木綿の反物や古くなった浴衣などをほどいてつくった。いろいろな模様のおむつで万国旗のようになっている物干し竿を見ると、あそこの家には赤ちゃんがいるなとほほえましくなったものだった。
 赤ん坊のころは着物が普通であり、私のそのころの写真も着物姿である。走り回るようになっても着物だった。もちろん洋服も着たが、着物姿で遊んでいる子どもが多かった。小学校に入る頃になると洋服である。都会ではもう洋服になっていた。しかし農村部ではまだ着物が多かった。もちろん山形市内でも昭和初年のころの小学校の記念写真を見ると多くの子どもが着物を着ていた。
 宮城県の農村部の町で育った家内が小学一年のとき(一九四一年)祖母に連れられて東京の親戚の家に行った。そのときは着物を着て行ったという。一番上等の訪問着だったというが、親戚の家ではあわててそれを脱がせ、その家にあった洋服を着せてくれた。それが強く印象に残っているという。着物を着るなどというのはもはや都会ではなかったのである。私のところでもそうで、外に行くときはいつも洋服だったし、五歳で祖父母に連れられて函館の親戚に行ったときも洋服だった。だから家内の話を聞いたときは思わず笑ってしまった。そしたら家内はちょっとだけいやな顔をした。
 それはともかくとして、一九四〇年ころは学校への通学はみんな洋服になっていた。寝るときだけ着物の寝間着に着替えさせられた。

 新品の衣服などめったに着られなかった。兄姉や叔父叔母のお下がりや中古の同じ服を何日間もくりかえし着るのが普通だった。
 高くて買えないからである。食うのがせいいっぱいのとき、服などに金をかけていられない。私の幼い頃の少女雑誌に載っていた中原淳一の描く美少女が着る西洋人形のようなきれいな洋服など、まさに夢のまた夢だった。
 ましてや戦時中から戦後にかけては買おうにも服を売っていなかった。たまに服の配給があるが、くじ引きで当たらないかぎり、今までの服を着ていなければならない。当然服にほころびが出てくる。転んだり、けんかしたりで穴があく。母や祖母は子どもを怒りながら、つくろってくれる。だからつぎはぎだらけの服を着ているのが当たり前である。
 今のように洗濯機があるわけでないので、洗濯にはかなりの時間がかかる。これも何日間も着ている理由だ。だから泥だらけにしたり、汚したりするとさんざん怒られる。
 しかし、つぎはぎだらけでも、毎日同じ服を着ていても、それで他の子どもからいじめられるということはなかった。みんな同じだからである。ただし、ぼろぼろだったり、垢だらけだったりしたとき、要するにだらしないかっこうをしているときだけは、子どもの間での悪口の対象になった。
 縫い直し、編み直し、染め直し、打ち直しは当たり前だった。母や祖母は暇さえあれば針をもってつくろっており、冬には古くなった毛糸をほどいて編み棒で毛糸の服をつくっていた。衣服を捨てるなどということはほとんどなかった。ぼろになってもう使えなくなったら雑巾にするなど、最後の最後まで使い切った。こんな時代に生きてきたからなのだろう、流行遅れになったからといって、ちょっと切れたからといって簡単に捨てる、私にはどうしてもそれができない。

 ファッション雑誌に出てくるような服を着ている若い女性が最近のテレビでこんなことを言っていた。「服を買うのに毎月十万から二十万円使っている」、「服を買うために給料を稼いでいるようなものだ」と。何という時代の違いだろう。これまでは「食うため」に働いてきた。それが「着るため」に働くというのである。恵まれた社会になったものだ。まず食の確保を考える、そんなことがなくなり、特別に食のことを考えなくとも生きていけるようになったことは、それだけ豊かになったことを示すものであり、喜んでいいことだろうと思う。
 しかし疑問も感じてしまう。こうした女性はまともな食事をしているのだろうかと。ファッションを着られるようにするための、痩せて外見をよくするための食事は考えても、栄養とか何かは考えないのではなかろうか。食のお金を節約して、ろくなものを食べないで外見を飾ることのみ考えているのではなかろうか。そして身体を自らむしばんでいるのではなかろうか。ファッションにのみ身をやつし、食の重要性を十分に考えないこういう女性に育てられる子どもはどういう子どもになるのだろうか。
 デパートに行くと有名ブランドから無名までともかく女性の洋服を売る店がずらっと並ぶ。ファッションビルまである。こんなに買う女性がいるのだろうかと思うくらいに若い女性向けの服屋がある。その前を通るとき、ついついそんなことを考えてしまう。

 学校に行くときや遊ぶときの履き物は下駄だった。ズックはあったし、入学式はズックで行ったような記憶があるが、高価なので持っていない人もあった。戦時中には配給でめったに手に入らなくなった。だから持っていてもお出かけとかの特別なとき以外履かなかった。校内での上履きはとくになくて夏は裸足、冬は寒さを防ぐために足袋と草履で過ごした。
 雪が降ると長靴になる。わら靴はほとんど見られなくなっており、祖父母がたまに履く程度だった。当時長靴は高価だし、ましてや戦時中は配給で手に入れるのも大変だった。だから穴があいても大事に履いた。
 冬のさなかになると、学校に長靴の修理をする人が来る。何銭かのお金を出すと、自転車の古くなったゴムタイヤを長靴にあいた穴の大きさに合わせて切り、それをゴムのりで貼り付けて穴を塞ぎ、修理してくれるのである。それから長靴に名前を書いてくれる人が来る。ボールペンのような形をした筆で金色のインクのような液を出して長靴のわきに名前を書いてくれる。盗まれたり、間違えたりしないようにである。長靴は貴重品なのでよく盗まれたり、取り違えられたりしたからである。
 持ち物に名前を書くと言えば唐傘(からかさ)にも書いてもらう。同じように盗まれたり、間違えたりしないようにである。また忘れたりしたときにだれのものかわかるようにということからでもある。唐傘も貴重品だった。ところが、学校帰りに晴れるとついつい忘れてきてしまい、よく祖母に怒られたものだ。こうもり傘はあったが、高価で普通の人はもてなかった。今は駅にこうもり傘の忘れ物が山ほどあり、誰も取りに来ないというが、世の中も変わったものだ。
 長靴の話にもどるが、山形では長靴は冬以外履かなかった。一九五四年に仙台に来たとき梅雨の時期に長靴を履いているのを見て驚いた。しかし道路を見て納得した。泥沼なのである。とても下駄や足駄で歩けるものではない。平坦低湿地、長い梅雨、戦災による道路の荒廃などがそうさせたのであろう。経済的文化的な格差もあったろうが、山形では雨のときは足駄であった。
 冬も足駄を履く。雪が降ると雪ぼっこ(足駄の歯と歯の間に詰まった雪)が付き、歩けなくなり、転んでしまう。電信柱に足駄をぶつけてぼっこを振り落とすが、そうすると電線に積もった雪が落ちてきて頭や肩にかかり、その冷たさに肩を思わずすくめる。
 それから雪下駄がある。下駄の二枚の歯それぞれの下に滑り止めの金具が取りつけられ、汚れと寒さを防ぐための覆いがつま先につけられているものである。これは高価である。この雪下駄をはいて角巻(大きな四角の毛織物を三角に折って肩からあるいは頭から羽織って身体を覆う女性用の防寒具)を肩からすっぽりかけて歩く女性の姿を見なくなってから久しいが、網走の靴屋さんで滑り止めのための金具を底に取り付けているブーツや革靴を見たときは、雪下駄の知恵がここで生かされているのかもしれないと、とってもなつかしかった。
 なお、今まで述べたのは町場のことである。戦前戦中の農村部の子どもたちの多くはまだ草履(ぞうり)で、冬はわら靴で学校に通っていた。
 農作業のときの履き物は地下足袋、自家製のわら草履か草鞋(わらじ)である。子どもたちはわら草履で手伝いに行く。田んぼには裸足で入る。それが当たり前と思っていたので、長靴を履いて田んぼに入る最近の光景を見ると、いまだに何となく奇妙に感じる。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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