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ニカメイチュウ、ホタル、水生動物




               野生動物と子どもの頃(6)

            ☆ニカメイチュウ、ホタル、水生動物

 電灯に集まってくる虫はさまざまいるが、カブトムシやコガネムシは少数派、多かったのはツマグロヨコバイ、ウンカ、ニカメイガ(ニカメイチュウの成虫の蛾のことを言うが、一般には成虫・幼虫ともにニカメイチュウもしくはメイチュウと言っているので、以下そう呼ぶことにする)だった。これらは稲の害虫であり、ツマグロヨコバイ、ウンカは稲の養液を吸収、稲の伝染病を媒介し、幼虫時代のニカメイチュウは稲の葉鞘や茎の内壁を食い荒らして米の収量を大きく減らす。
 とくに多かったのが体長5㍉程度の緑色をしたツマグロヨコバイだった。これはそれなりにかわいく、横に這って歩いたり、跳ねたりして面白い。それで捕まえてコクゾウムシみたいにならないか試してみるなどして遊んだものだった。しかしあまりにも量が多いのですぐあきてしまう。
 ウンカはセミとバッタの中間のような感じの5㍉程度の小さな虫だが、遊びの対象にはならない。
 ニカメイチュウなどはなおのことだった。体長2~3㌢の小さな蛾で、鱗粉をまき散らしはしないが、おつゆの中に飛び込んだりするものだから嫌われ者だった。しかもそれは稲の大害虫である。何しろ稲の生育期間中2回も産卵して2回も稲の茎葉を食い荒らすのだからたまったものではない。この2回も発生することから「二化螟虫」と名付けられたのである。
 生家は田んぼから2~3百㍍も離れているのにこうした虫は大量に電灯の下に群がった。このことはいかに多く発生し、稲にいかに大きな被害を与えているかを示すものだった。
 同時にこれはこうした虫が電灯の光が好きという習性をもっていることを示す。こうした害虫の習性を利用して駆除しようと戦後すぐに設置されたのが前に述べた誘蛾灯(註1)だった。
 やがてパラチオンを始めとするきわめて強力な殺虫剤が普及し、これは虫害を回避して収量を確保するうえで大きな役割を果たした。
 とくにその効果が大きかったのが九州などの南国だった。何しろウンカは中国南部やベトナムから海を越えて飛来してくるもの、東北などとはその発生量が違う。まさに「雲霞(うんか)の如く群がる」で、江戸時代に飢饉を引き起こしたことすらあったという。
 またメイチュウの場合は、暖かい九州では3回も発生して被害を与える(だから「三化螟虫」ともよばれた)。このメイチュウの害を軽減するために田植えを晩くした。つまり3回も発生しないようにするのである。これで虫の害は軽減できるが、そうすると台風の被害をまともに受ける。台風の被害を避けるためには早く植えて早く収穫した方がいいが、そうすると虫の害がひどい。ここに九州の稲作の悩みがあった。
 これを解決したのが戦後導入された殺虫剤のパラチオンである。
 こんな風に学生時代教わった記憶があるのだが、ともかくパラチオンを始めとする殺虫剤の普及は西日本の収量を大きく高めた。東北もやはり殺虫剤の恩恵を受けた。ウンカやニカメイチュウはほとんど見られなくなった。ツマグロヨコバイはどこで生き延びているのか時々見かけたが、それにしても少なくなった。
 同じくその時期から見られなくなったのがホタルだった。

 ホタル、その光は本当にきれいだ。しかも小さくてかわいい。だからみんなに好かれる。私も好きだった。田んぼのなかを群れ飛ぶホタルの光、本当に見事だった。家の近くに飛んでくるホタル、これを竹ぼうきで捕まえて蚊帳の中に入れてその光るのを楽しみながら寝たものだった。
 このホタルの光、もう何年見ていないだろうか。たしか1967年、仙台市郊外にある小さな沼(今は市街地になっている)で子どもといっしょに見たのが最後だったと記憶している。直接見たことがないという若い人たちも多い。『蛍の光』も卒業式で歌う学校も少なくなった。
 ところがホタルの漢字「蛍」は1960年代からしょっちゅう見られるようになった。「蛍光灯」が普及したからである。虫のホタルの光にかわってお目見えするようになったのは蛍光灯の光だった。
 蛍光灯、たしかに白熱灯からみるとその色はホタルの光の色に近い。しかも何となく冷たそうな光である。だから「蛍光灯」と言っていいのかもしれない。しかし、あれはホタルの光の色ではない。ホタルの光はもっと黄緑色である。しかも蛍光灯はやはり熱い。それでも、白熱灯よりも電力は使わずに(電気料金が安くて)すみ、しかも明るく、光は柔らかく、放射熱が少ない。それで急速に普及した。
 問題はスイッチを入れてから実際に明るくなるまでに時間がかかることである。それで反応の鈍い人を「蛍光灯」と言ったりしたものだった。しかし最近はすぐに点灯するようになった。だから「蛍光灯」は悪口としてはもう死語になってしまった。
 さらに最近は蛍光灯という名前すらなくなろうとしている。より省エネのLED電球に切り換えようとしているからだ。電灯からもホタルが消えようとしている。
 しかし、もう一方でホタルの復活運動が各地で起きてきた。農薬の種類や散布量が違ってきたし、下水等による川の汚染も少なくなるなかで、自然復活したところ、カワニナなどの巻貝とホタルの幼虫を育成放流してホタルの再生を図るところが出てきたのである。うれしいことだ。もう一度舞い飛ぶホタルを見てみたい。できれば、保護している地域だけでなく、かつてのように全国どこでも見られるようにしてもらいたい。しかし、過疎化の進展、減反等で田んぼが荒れ、用排水路が荒れ、保護運動の担い手も少なくなり、ホタルの里が消えてなくなろうとしているところもある。
 何とかならないものだろうか。日本中の子どもたちにホタルをまともに見せてあげたいのだが。

 ホタルの幼虫、これは言うまでもなく川の中にいる。トンボの幼虫もそうだ。その他、川、沼、池、田んぼ等々の水の中あるいは水面で一時期あるい生涯を通じて棲んでいる虫はたくさんいる。
 なじみ深いのはガム(ガムシ、ゲンゴロウを総称して私たちはそう呼んでいた)、よく飛んでくるので我々子どもの狩猟の対象となっていた。池や水たまりにいるミズスマシ、アメンボ、そのすばやい動きを見ているだけでおもしろく、どうしてあのように水面を歩いたり走ったりできるのか不思議だった。田んぼで見かけるタガメ、ゴンボ(ゴボウ)と私たちが呼んでいたミズカマキリ、その他名前の思い出せないさまざまな水生昆虫、何か怖いので手は出さなかったが、よく見つけたものだった。
 このように水生昆虫など水と関わって遊んだものだが、いわゆる川遊びはあまりしなかった。

 最上川周辺で生まれ育った友人たちから子どもの頃はよく川遊び、水遊びをしたもんだという話を聞く。
 しかし、私は彼らのような遊びをしたことがない。旧山形市は扇状地の中腹部、大きな川がないからである(註2)。しかも私の生まれ育った地域は半分が旧市内の市街地で、流れる小川はきれいであっても魚は棲まず、あと半分の田畑には川幅5㍍くらいの一貫清水と言う浅い川が一本あるだけ、後は田んぼの用水路、大きくても幅1㍍にも満たない小川があるだけである。また私たちが「沼」と呼んでいたため池も小さなもの、それも一ヶ所しかない。しかも泳ぎや釣りは禁止だった(こっそりやったが)。川遊びといっても足を入れて冷たくて気持ちがいいなどいいながら歩いたり走ったり、ドジョウ、小ブナ、オタマジャクシを捕えて遊ぶくらいだった。コイとかハヤ、カジカなどの魚は母の実家で見るだけ、ナマズとかウナギとかは本で読み、話で聞くだけだった。カニやエビ、カイなどは海にいるものだと思っていた。
 ところがあるとき、ちょっと遠くの川に行くとサワガニがいると友だちがいう。それでみんなでぞろぞろ歩いていき、浅瀬の石を静かに動かしながら下にサワガニが潜んでいないかをさがした。いた、みんなで大喜びでいじりまわし、もっといないかと必死になって探したが、後一匹捕まえただけだった。これで淡水にもカニがいるものだとわかった。
 近くの沼に行くと小さなエビがたまに捕まる。透き通っていてきれいだ。生で食べられるそうだと友だちが言う。しかし、生きているのを食べるのは何となくこわい。それがうまいのだと言うので食べてみたが、何の味もしなかった。
 その沼にドブ貝がいた。食べられるとか食べたとかいう話は聞いたことがない。かなり大きく、表面は真っ黒、何か汚くて食べたいとも思わなかった。だから私は食べられる貝は海にしかいないものと思っていた。そもそも私たちの地域にはシジミはいない。だからハマグリ、アサリ、シジミなどの貝は魚屋さんから買う。その魚屋さんは海産物を扱っており、コイやフナなどの淡水魚は売っていない。そうなるとシジミは海産物である。こう考えていたからである。
 でも今考えてみるとこの私の思い込みはおかしい。野口英世が子どもの頃家計を助けるためにシジミを採って売り歩いたという話を聞き、感心だと思っていたのだが、彼の家は猪苗代湖の近く、海からシジミを採っていたわけではなく、淡水で育ったシジミを採って売っていたのである。でもその当時はそんなことに気がつかなかった。

 ハマグリ、アサリ、シジミ、これはけっこう食べた気がする。海や大きな川から遠く離れていても生魚と違い運搬、保存が容易だったからだろう。
 この貝殻、これは捨てなかった。金づちで叩いて粉々に潰し、それを鶏に食べさせた(註3)。さらに遊び道具にもした。何でもむだにしなかった。

(註)
1.11年3月4日掲載・本稿第一部「農業生産力の発展(1) ☆サムサノナツ対策の前進」(1段落目)参照
2.11年2月1日掲載・本稿第一部「子どもの遊び(3) ☆水浴びと雪遊び」(1段落目)参照
3.10年12月15日掲載・本稿第一部「農家の子どもたち(3) ☆家畜の世話」(1段落目)参照

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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