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「ミツパ」、密吸い、ままごと




                 子どもの遊び・楽しみの今昔(1)

                 ☆「ミツパ」、密吸い、ままごと

 食べ終わって要らなくなったハマグリの貝殻、それをもらい、その表裏の殻二枚をピタッと合わせてしっかり手に持ち、その頭(蝶番のある方)を大きな固い石に当ててごしごしこする。そしてそこに穴を空ける。固いのでかなり時間がかかるが、やがてそれぞれの貝殻に一つ、計二つの穴が空く。その貝殻を合わせて片一方の穴に口をつけて息を吹きつけるともう一つの穴から空気が抜け出る、そのときに口笛のような音が出る。つまり貝の笛をつくったわけだが、時間はかかる上に失敗する場合もあり、今考えるとよくやったもの、おもちゃのない時代だからこんなことで遊べたのだろう。
 笛と言えば、草葉でもつくった。

 春先、田んぼ一面じゅうたんを敷き詰めたようにスズメノテッポウが群生する。これは私の好きな景色だったのだが、ほぼ乾いて固くなっているその田んぼのなかに入ってスズメノテッポウを一本採り、穂をスポッと抜いて鞘だけ残し、それを笛にする。のだが、今やろうとしても作れないだろう、完全に忘れてしまった。ともかく春に田んぼに何か用事があっていくと、その笛をつくり、吹いて遊んだものだった。それからササの葉っぱで笛をつくった記憶もある。
 ササといえば笹船もつくった。川のところにくると、笹の葉っぱを採って笹船をつくり、川に浮かべて競争をする。船がつくれるような葉っぱがないときはみんなそれぞれ自分の好きな葉っぱや木切れをとり、それをそのまま用意ドンで川に流す。どっちが先に行くかの競争だ。渦に巻き込まれて見えなくなってしまうもの、よどみに入ってまったく動かなくなったもの、大騒ぎしながら川の流れに沿って走る。
 草、これは農作物にとっての邪魔者なのだが、子どもたちはそれも遊び道具にした。食用など人間に役立つ雑草もあり、それを採るのは子どもの仕事だったが、子どもたちはこれも遊びの一つにした(註1)。

 何回も言ってきたが、私の子どものころの道路は主要国道以外ほとんど舗装されていなかった。いうまでもないが、土の道であれば草が生えてくる。しかし、さすがに町の中の道路には生えない。しかし、町はずれになると、人と車がたくさん通る道の真ん中以外、つまり道の両脇には草が生える。
 その草は背の低いものが多い。やはり道路の土は硬いから、またたとえ両端でも人があがって踏み歩くものだから、柔らかく伸びる草などは育たないのだろう。背が低くて踏まれ強い草が残ることになり、なかでも多かったのがシバとミツパでこれがびっしり広がり、そのなかにベッキグサ(オオバコ)などが生えていた。
 シバ(芝)については説明するまでもないだろうが、ミツパについて若干説明しておこう。
 道端に密生して生えている草の一つ、高さ約数㌢の細い葉柄の先に小さい葉っぱが3枚ついている背の低い草を、私たちは「ミツパ」と呼んでいた。3枚の葉=三つ葉からこの名前がつけられたのだろう(ただしなぜミツバでなくミツパなのかはわからない)。そのミツパに小さな毬状の白い花が10㌢くらいの高さの細い花柄の上に独特の匂いを発してびっしりと咲く。その花が団子と似ているからだろうか、私たちはそれをダンゴッパナ(だんご花)と呼んでいた。その花は、編んで首飾りにしたり、冠にしたりするなど、子どもたちのいい遊び道具だった(註2)。また、たまに四つ葉があり、それを見つけるといいことがあるということで、その探しっこをするのも遊びだった。
 このミツパがクローバーと呼ばれるものであることを知ったのは小学校の6年ではなかったろうか、学校で連れて行ったくれた映画の中にクローバーの歌が出てきたからである。
  「青い四つ葉の クローバたずね ともに歩いた 君恋し‥‥‥‥」
 この最初の歌詞しか覚えていないし、曲名もだれの作詞・作曲なのかもわからないのだが、何かものすごく気に入り、それでミツパがクローバーであることを知ったのである。とはいっても、トランプのクラブを私たちの小さいころはミツパと呼んでいたのだから、気が付かなかっただけなのだろうが。
 ミツパは私の育った地域の言葉で、正式には「シロツメクサ」だということを知ったのは研究者になってからのことだった。オランダからの船が積んでくるガラスなどが壊れないようにクローバーの乾草が緩衝材として詰められていたことからそれは「詰め草」と呼ばれ、その種子が落ちて全国に蔓延した帰化植物だったのである。 
 なお、私の生家のある地域では野菜(セリ科の植物で、山地の日陰などに自生もする)の「ミツバ」もミツパと呼んで売っていた。そうなると、雑草のミツパとどう区別したのだったか、記憶にない。最近では、共通語が普遍化してくるなかで野菜のそれをミツバと呼ぶ場合が多くなっているようだが、雑草のミツパは相変わらずミツパなのだろうか。これを書きながらちょっと疑問になってきた。

 ミツパは日本在来の植物だと私は思っていた。九州から北海道まで、どこにでもある雑草だからだ。帰化植物であると知った時にはショックだったが、すでにそれは子どもたちの遊びに使われ、家畜の餌としてもかつては使われ、日本の風土に定着したもの、まあこれくらいはいいだろうと思っていた。ところが戦後、とんでもない植物がさまざま帰化していろいろ悪さをしている。困ったものだ。
 なお、外国から来た植物、これだけでは帰化植物と言わないのだそうで、そのなかの野生化して繁殖している植物、これを言うのだそうである。
 それを聞いたとき疑問になったのがラベンダーだ。わが家の庭のラベンダーがすごく成長しているが、放っておいたらこれも野生化するのだろうか。でもそんな話は聞いたことがないので大丈夫なのだろう。そう思って安心して観賞しているのだが。

 ラベンダー、この名前を初めて聞いたのが1972年、小学生だった子どもといっしょに毎週楽しみに見たNHKのテレビドラマ「タイム・トラベラー」(原作:筒井康隆『時をかける少女』)でだった。ラベンダーの匂いを嗅ぐとタイムスリップする、どんな匂いなのだろうか、そもそもどんな花なのか、いつか確かめたいものだと思ったものだった。
 そのうちあちこちで見られるようになり、とくに北海道のラベンダー畑が有名になってなじみが深くなってきたが、私の住んだ網走の家の庭にも植えてあった。仙台に帰ってくるとき、記念に一株持ってきて庭に植えたら、何とも見事に大きくなり、毎年初夏になるといい匂いを庭中にまき散らしてくれる。それに誘われてか、ミツバチを始めさまざまな虫がくるが、とくに多いのがハナアブで、何十匹もわが物顔に飛び回る。
 これを見て思い出したのが私の生家の庭にあったツツジである。樹高1.5㍍、枝葉の周り直径2㍍、幹の太さ直径20㌢くらい、樹齢は二百年以上と言われている大きなツツジが小さな池をはさんで2本あったが、春になると白い花をびっしりと咲かせて庭中を独特の匂いで充満させた。それに誘われてミツバチ等々たくさん集まってくる。とくに目立つのがハナアブだ。身体がでかいからだ。しかもそれがどこにこんなにいたかと思うくらいたくさん飛び回る。その羽音がうるさくてしかたがない。人間に悪さをしないので安心だが、それにしてもやはり子どもは近づきにくい。花の蜜を吸いに来るのだ、蜜はすごく甘く、花の真ん中にあるのだなどと聞くと、その蜜をなめて見たくなる。それでハナアブを避けながら花を採り、その底をなめてみるが、全然甘くない。それでもこりずにまた花を採る。たまにちょっぴり甘く感じるときがある、そうすると大喜び、自慢する。みんなも真似するが、なかなか甘いのがない。
 こうした当たり外れのないのがオシロイバナだ。近くの友だちの家の庭にあったのだが、その季節になると遊びに行き、花を採らせてもらい、なめながら吸ってみる。甘い、一瞬のうちになくなってしまうので、また別の花を採る。なぜか知らないがハナアブなどは集まって来ないので、安心して吸ったものだった。甘いものに餓えていたからおいしかった。

 こうした花や葉っぱ、それをみんなで採ってきてはままごとをした(註3)。晴れた日、子どもたちの話がまとまるとまず一人が小屋に入っているむしろを引っ張り出してくる。農家だからむしろはたくさんあった。必要によっては各人の家にあるおもちゃや人形などを持ってくる。そしてむしろが家屋敷となり、だれがどういう役割をするかをみんなで決める。食事となると、みんなでさまざまな花や葉っぱを採ってくる。そのうちのあるものは皿や茶碗、包丁、まな板となり、あるものはご飯や魚、野菜になる。たまには水を汲んできて土をこね、だんごをつくったり、食べ物に擬したりもする。そしてみんなで食べ、あるいはお客さん役の子どもや人形にごちそうする。
 しかし、ままごとは学校に入る前までのことだった。入った後そんなことをしていたら友だちから冷やかされ、ましてや女の子といっしょにままごとをしていたとなるとその冷やかしはさらにひどいものとなったからである。

 ところで、今家から人形やおもちゃを持ってくると言ったが、私の子どものころはセルロイドやブリキのおもちゃが売られるようになっており、それでも遊ぶようになっていた。人形についていえば、西洋人形やママー人形、キューピーさんなどが出回っていた。もちろんそれなりに高価なのですべての家で買えるわけではなかったが、私の妹はママー人形を買ってもらっていた。そうした人形をままごとに持ってきて、人形をお客さんにしてごちそうしてみたり、子どもにしてあやしたり、寝かせたり、おんぶしたりしていた。
 このように私の子ども時代は自然のものをおもちゃにして遊ぶだけでなく、新しい人工のおもちゃでも遊ぶようになっていたのだが、もう少しこの頃のことを語ってみたい。その頃、つまり戦前から戦後にかけての昭和初期の子どもの頃のことについては本稿第一部を始めとして各所で述べてきたが(註4)、その後いろいろ思い出したことがあるからである。したがってその続編として、とくに子どもの頃の遊び、楽しみを中心に、これから思いつくまま書かせていただきたい。なお、前に書いたことと若干重複するところがあるかもしれないが、お許し願いたい。

(註)
1.10年12月16日掲載・本稿第一部「農家の子どもたち(4)」(1段落目)参照
2.11年1月31日掲載・本稿第一部「子どもの遊び(2)」参照
3.ままごと以外にも花や葉っぱで遊んだが、これについても上記の註2を参照されたい。
4.下記の記事と合わせてこれからの稿をお読みいただければ幸いである。
  10年12月16日掲載・本稿第一部「農家の子どもたち(4)」
  11年1月24・25・26・27日掲載・本稿第一部「ひとときのゆとり(1)~(4)」
  11年1月28・31、2月1・2・3・4日掲載・本稿第一部「子どもの遊び(1)~(6)」
  11年2月21・22・23日掲載・本稿第一部「戦後混乱期の子どもたち(3)~(5)」


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コメント

[C30] 子どもの遊び

さまざまな虫との付き合い方を教えていただいたのに続き、今度は遊びですね。子どもたちに自然との付き合い方をうまく伝えられなかった世代には、まさに教科書です。ラベンダーの庭にはいつか私もと、あこがれていました。あの番組のことを久しぶりに
思い出しました。先生、あした27日夜、よろしくお願いします。渡辺雅昭

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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