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おんぶと人形



               子どもの遊び・楽しみの今昔(2)

                  ☆おんぶと人形

 私の子どもも孫もおんぶされるのが好きだった。背中を向けると喜んでおぶさってきた。おんぶして大人と同じ高さからいろんなものを見るのが楽しいからかもしれない。珍しいものを見たり、小学生たちが遊んでいるのを見たりすると、一生懸命伸びあがって見ようとする。大人の大きな背にぴったりくっつくことでの安らぎ感もあるのかもしれない。ゆっくり歩いているうちにそのリズム感の心地よさのせいか、こっくりこっくりし始め、やがて熟睡してしまう。
 そんなことから考えると、幼い子どもはみんなおんぶが好きなのではなかろうか。きっと私もおんぶが好きだったのではないかと思う。
 そもそもその昔ははおんぶが普通だった。私の子どものころ弟妹をおんぶした話を前にした(註1)が、もちろん私もおんぶされて育った。といってもそのことをほとんど覚えていない。幼いから当然のことなのだが、それでもいまだに覚えていることがある。そのうちの父におんぶしたことについては前に書いた(註2)が、それ以外に二つある。

 幼いころの冬の寒い朝、私が目を覚ますと、母や祖母は台所に立っている。冬なので農作業がなくて家の中にいる祖父が起きてきた私の寝巻を脱がせて裸にし、自分の背中と着物の間に私をそくっと入れておんぶしてくれる。普通はおんぶ紐を使うのだが、そのときは使わず、祖父の着物・帯と祖父の手で背中の私を支える。祖父の裸の背中が温かい。祖父も私の裸の体温で温かいのではなかろうか。お互いの肌のぬくもりで温めあうのだろう。祖父は私をおんぶしてあちこち歩きながら何か雑用をしている。私も背中からそれを覗き見る。退屈は全然しない。
 朝飯の準備が終わるころ、母は炬燵に入れて温めていた私の下着などの服をとりだし、「どうもありがとさまでした」と言いながら祖父から私を受け取る。そして服を私に着せる。私は自由に歩き出す。
 いろりにかけてある味噌汁の鍋がぐつぐつと煮立ち、いい匂いが立ちこめている。大きな方形の卓袱台(ちやぶだい)に漬物などが並んでいる。もうすぐ朝飯である。
 この記憶はきっと2歳くらいのことではなかろうか。3歳も過ぎると大きくなって背中の着物のなかにすぽっと入れるなどということはできなくなるはずだからだ。
 いうまでもなく、おんぶ紐(いわゆる兵児帯もしくはおんぶ用につくられた紐)で子どもを背中にくくりつけ、冬は「ねんねこ」、春や秋は「亀の子」(袖のないねんねこと言えばいいのだろうか)か綿入れの半纏をその上に着て保温する、これが普通である。でも、今述べたようなおんぶのしかたもあった。弟妹がこうしておんぶしてもらっているのを何回か見た記憶もある。
 もう一つの記憶、それはもう少し大きくなってからのことだ。

 いうまでもなく、歩けるくらいの年になるとおんぶはしなくなる。そして子どもも歩く。問題は、当時は乗物が今のようにない時代、延々と歩いていると疲れてしまうことだ。大人になるとこんな距離と思うが、子どものころは遠かった。泣きたくなってしまう。転んだり、眠くなったりしたらなおのことだ。
 すると、連れて行ってくれた大人がおんぶしてくれる。大人がいないときは小学生であろうとも年長者がおんぶしてやる。兄や姉であればなおのことだ。私もそうしたものだった。もちろんおんぶ紐はない。背中におんぶして両手で尻を支え、おんぶされた方はおんぶしてくれる人の首に両手を巻きつけ、落ちないようにする。
 あるとき、私はK叔父と2人で道路を歩いていた。何で出かけたのかわからない、生家から200㍍くらい離れたところの道路であることは覚えている、そこを歩いて生家に帰ろうとしていた。きっと私が疲れたと言ったのかもしれない、K叔父が私をおんぶしてくれた。しばらくぶりのおんぶ、うれしかった、楽だった。私のお尻を叔父が手で支えている、両手を叔父の首のところから離しても大丈夫と、ついつい調子に乗って手を離してまっすくに伸びあがってみた。高いところからまわりが見える、そう思って喜んだとたん、バランスを崩して後ろにそっくり返ってしまった。叔父はびっくりして私の脚を強く抑えたので下には落ちなかったが、逆さまに宙づりになってしまった。あわててもとに戻ろうとしても戻れない。叔父は両手で私の脚を持っているのでもとに戻すことができない。叔父は重さに疲れて支える力がずんずん弱くなってくる。私の頭はずるずる下がり、今にも地面に落ちそうになる。叔父も困ってしまった、どうしていいかわからない、きっと叔父も泣きたくなったのではなかろうか。
 幸いなことに、ちょうどそこを近所の小母さんが通りかかって、「あらあら大変」と走ってきて助け起こしてくれた。
 これで助かったのだが、K叔父が北海道に奉公に行く前だったから(註3)叔父は高等小学校(今の中学校と同じ)の1年か2年、私が満3歳の頃だったと思う。K叔父がどんなに困ったことだろうと思うと今でも悪いことをしたと思っている。戦死したので謝ることもできなくなってしまったが。

 なお、母におんぶされた記憶はない。次々に生まれる弟妹をおんぶするだけでせいいっぱいだったからだろう(かわって父がよく私や妹をおんぶしてくれたものだった)。
 家事と育児を担当していた祖母におんぶされた記憶もない。これも当然、幼い弟妹のおんぶだけでせいいっぱい、子守り歌を口ずさみながら(註4)、家の前の畑仕事や台所で家事をしながら、よくおんぶしていたものだった。ただ、祖母の実家のお祭りに祖母に連れられて行ったとき、おんぶしてもらったような気がする。山形城(=当時陸軍の連隊の所在地)の西に広がる広い野原(=当時練兵場=陸軍の軍事演習場、現在は住宅地)の真ん中を通る細い長い道、歩くのに疲れておんぶをねだった記憶があるからだ。

 あのころはおんぶは誰もがするもの、されるものだった。おんぶ姿はどこでもいつでも見られた日常だった。
 だからかもしれない、女の子はお人形をおんぶして遊んだ。
 私の1歳下の妹は、背丈30㌢くらいの西洋人形を紐でおんぶして遊んでいた。
 家内は、こけしをおんぶして遊んだという。大きくて重かったあのこけし、今ならかなり高価で売れるのではないかと家内は言うが、当時は今と違ってかなり安かったようである。
宮城県の鳴子温泉出身で北海道で農業経済研究者になったOMさんがこんな話をしてくれたことがある。その昔は山麓に住んで木製品をつくっている農家が自分でつくったこけしを背負って温泉旅館の部屋を回って売り歩いたものだった、それを湯治に来ていたお年寄りがいっしょに連れてきた孫に買ってやったり、孫へのお土産に買ったりしたもの、だから安かった、こけし工人などと言われてこけしが高価で売買されるようになったのは戦後かなり経ってからのことだと。とすると、家内のこけしは、幼いころ祖父母が遠刈田温泉の湯治に毎年連れていってくれたとのことなので、きっとそのときに買ってもらったのではなかろうか。こんな風に私は推察している。
 なお、家内は昔はこけしと呼ばず、「きぼこ」と呼んだものだという。その通りで、宮城では戦前は「きぼこ」と言っていたようである。ところで、私の生家の山形では幼い子どものことを「んぼこ」と呼んでいた。とすると、きぼこは「木」+「んぼこ」=木の子どもということなのではなかろうか。そう考えた私は家内の生家のある宮城県南では幼子をどう呼んでいたかを聞いたら、「ぉぼこ」と言ったという。やはりそうだ、きぼこは木の子どもという意味だったのだ(と私は確信している)。

 このように子どもが人形やこけしをおんぶして遊ぶ、こんな姿はあまり見なくなった。私が見かけないだけなのかどうかわからないが、もしそうだとすればそれもそうだろうと思う。子どもを親や祖父母がおんぶして歩く姿は見られなくなっているからだ。そうなったのは家事・育児労働の省力化、少子化のせいなのだろう。子どもは大人や年上の子どものまねをして大きくなるもの、その大人たちがおんぶしなくなれば、おんぶは遊びにはならなくなる。
 でも大人のおんぶ姿はあっていいはずである。ところが最近はほどんど見ない。乳母車に乗せるか、抱っこひもでだっこしているかのどちらかだ。
 抱っことおんぶとどっちがいいのかわからない。でも外を歩くときは抱っこよりもおんぶの方がいいような気がする。
 まず安全だ。たとえばつまずいて転ぶときに倒れるのは一般に前方なので、前に抱いている子どもの身体が親より先に直接地面にぶつかってしまい、子どもがけがをすることになるのではないかなどと不安になってしまう。おんぶはそんなことがない。また、おんぶすると両手が自由に動かせるのも都合がいい。おんぶする方される方、同じ前の方をいっしょに見ている、つまり体験を2人共有できるのもいい。さらにおんぶはあのぬくもりがいい。おんぶする方もされる方も感じたあのぬくもり、今の子どもはこうしたぬくもりを体験しないで終わるのだろうか。もちろん、だっこでそれを感じているからいいのかもしれないが。
 とは言っても今は車社会、乗り降りするときに一々おんぶしたり、おろしたりするのは大変、抱っこの方が楽だということもあろう。これもやむを得ないかもしれない。

 でもついつい考えてしまう、わが国からおんぶはなくなってしまうのだろうかと。
 お人形をおんぶする、こんな遊びはなくなってしまうのだろうか。おんぶを知らない子どもたちが大人になった時の子育て、これはどうなるのだろうか。
 こんな心配をするのはおかしいかもしれない。おんぶなどしないで子どもを育てている国もあるし、おんぶと子育ての善し悪しに相関があるなどと聞いたこともない。ましてや昔のように兄や姉がおんぶさせられる、これもいいことかどうかわからない。
 単におんぶを懐かしがっているだけ、年寄りの懐古でしかないのかもしれない。

 それはそれとして、私の生まれたころの戦前の昭和はこけしから西洋人形で遊ぶ時代へ、自然の動植物を相手に遊ぶと同時におもちゃ屋や一銭店屋(駄菓子屋)などで売られている人工のおもちゃでも遊ぶ時代へと変わりつつあった。さらに、地域独特の遊びのほかに全国共通と思われる遊びもするようになっていた。
 私の生家はちょうど市街地と農地の境界周辺にあるので、自然が豊かであると同時に一銭店屋やおもちゃ屋が近くにあり、だから私たちは自然とも人工物とも遊んだものだった。

(註)
1.10年12月14日掲載・本稿第一部「☆子守り―幼い妹の死―」(2、4段落目)参照
2.10年12月21日掲載・本稿第一部「☆労働力としての嫁」(2段落目)、
  11年1月19日掲載・本稿第一部「☆霜焼け、鼻水、医者」(3段落目)参照
3.10年12月27日掲載・本稿第一部「☆北海道へ、満州へ」(2段落目)参照
4.祖母の口ずさんでいた子守歌はとくに歌詞はなく、「ねんねんこっこや」を繰り返すだけだった。この地域に昔から伝わったものか、誰かの歌を祖母が勝手に子守歌にして歌っていたのかわからないが、ともかく採譜してここに記録しておくことにしたい。なお、祖母はこれに適当な小節(こぶし)をつけて歌っていたが、その採譜は省略した。また、「ねんねんこっこ」のかわりに「一年こっこ 二年こっこ」とか適当に歌詞をつけていた。いつだったか母にこの歌のことを聞いたら、天童出身の歌手佐藤千夜子(日本初のレコード歌手と言われている)が歌った歌ではなかったか、歌詞は「ねんねんこっこ ねんねんこっこ 酒屋の子 酒米とぐどて 川さつっぷらはいた(ここまで最初の4小節のメロディの反復) 医者も手医者もかなわない 母ちゃんな手枕で ちょいとなおた ねんねんこっこ ねんねんこっこ ねんねんこっこや」だったと思うと言っていたが、確認できていない。なお、楽譜作成ソフトが使いこなせず、形の整わない楽譜になっていることをお許し願いたい。


ねん
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コメント

[C31] 久々にコメントします

私もおんぶ派です。
平成生まれの二人の息子もおんぶで育てました。
夕方ぐずった時に抱っこで家事は出来ませんし、出かける時の安全面はもちろんですが、大人と同じ目線の方が頭が発達する気もします。

でももうすっかり見かけなくなりました。
  • 2013-05-30 15:41
  • mayu
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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