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想像力を駆使した遊び



               子どもの遊び・楽しみの今昔(3)

                 ☆想像力を駆使した遊び

 子どもの遊びの対象としての人形というと、まず思い出すのが妹の持っていた西洋人形である。背の高さは30㌢くらい、細長く切った鉋屑を中身にして布で覆って顔や体をつくり、顔は丸い布にまつ毛をつけた大きな丸い目と小さな口を描いてつくり、頭にはフリルのついた帽子をかぶり、ワンピースのような赤い洋服を着ていた。うまい説明ではないが、どこかで見たことがあるのではなかろうか。なお、そのなかに触ったり曲げたりするとママアと泣く人形もあった。お腹のなかに何か入っており、それを押すと泣くのである。これはママー人形と呼んでいた。妹のもそれだったが、こわれてやがて泣かなくなってしまった。
 もう一つ、当時流行っていた人形に、セルロイド製のキューピーの人形があった。これは説明するまでもないだろうが、髪の毛は縮れて茶色、目は大きくて青色、まさに西洋の女の子だった。名前からしてそうなのだが。大小さまざま、裸が普通だったが、洋服を来ているのもあった。なお、キューピーの着せ替えはなかったような気がする。当時衣類はきわめて高価、人間でさえまともに着るものがないときにたとえ端切れでも遊びの材料などにするわけにはいかなかったのではなかろうか。だから着せ替えがあったとしてもかなり高価、一般庶民は買えなかったのではないか、だから私に記憶がないのではないかとも思う。
 代わりに、ではなく「別に」と言うべきかもしれないが、着せ替え人形というものがあった。ただしそれは紙製である。B5版くらいの大きさの厚紙に、10㌢くらいの背丈の着物を来た女の子の姿形とそれに合うようにつくられた着物の姿形がいくつか印刷され、それが切り抜けるようになっており、その着物のどれかを女の子の上にかぶせて着せ替えて遊ぶのである。これは一銭店屋(註1)で売っており、まさに一般庶民の子どものおもちゃだった。
 そもそもセルロイド製のキューピーなどは一般庶民の手が届くものではなかった。
 ブリキのおもちゃもそうだった。当時、ブリキでつくった汽車、自動車、飛行機などが売り出されていた。なかにはゼンマイ仕掛けで動くものもあった。とくに男の子はそれを欲しがった。ブリキの人形もあったような気がするのだが、正確ではない。しかしこうしたおもちゃ屋で売るようなものはなかなか買えなかった。
 セルロイド製、ブリキ製のおもちゃは当時日本の重要な輸出品であり、日本は世界一のおもちゃ輸出国だったにもかかわらずである。近年の途上国、輸出していながらその国民はその製品をなかなか買えない、かつての日本と非常によく似ている。
 もちろん、まったく買えなかったわけではない。行商人や一銭店屋で売っているセルロイドやブリキのおもちゃは何とか買うことができた。

 道端に大きな金盥(かなだらい)を前にして座っている人がいる。そのまわりを何人かの子どもが取り囲んでいる。何かと思って寄ってみると、水を張ったその盥にピンクや赤、青のセルロイドで組み立てられた5㌢くらいの小さなかわいい船が浮かんでおり、それがくるくる回りながらすいすい動いている。押しもしないのにである。何とも不思議である。やがて動かなくなる。するとその船を水からあげてそのお尻に何か白いものをくっつけてまた浮かべる。するとまたもとのようにくるくるまわり始める。白いものは魔法の粉末のような気もする。どうしても欲しくなる。すぐ家に走って帰り、祖母にねだって小遣いをもらい、急いでもどってお金を渡すと、船と白い小さな塊をくれる。大事に家に持ち帰り、たらいに水を入れ、店の人がやっていたように白い塊を少しちぎって船の後ろにつけ、水に浮かべる。くるくる回り始める。しかし、ときどき白い塊が船から外れてしまい、動かなくなる。またつける。そのうち白い塊はなくなってしまう。
 やがて友だちから情報が入る。あの白い塊のようなものは樟脳だそうだ、タンスに入っている樟脳をもらって後ろにつけろと。
 しかし、そんなことをする前に船は壊れてしまう。何しろちゃちなつくり、しかも小さく、組み立ては容易ではない。しかもこの樟脳の船売りの人は1時間くらいしかおらず、後いつごろくるのかなどわからないので、修理をしてもらうわけにはいかない。結局は捨てることになる。だから私は母から樟脳をもらってつけたことはない。

 一銭店屋で売っている、つまりわれわれも買えるブリキのおもちゃといえば金魚があった。赤を基調にした派手派手な色をしていて、背丈5㌢くらい、横に平たく、空気が入っているので水に浮かぶ。さらに、そのお腹には硬くて薄い鉄板のようなものがくっついており、それを押さえて放すとパチンと音がする。これが面白い。
 それ以外はなかなか買えなかった。おもちゃ屋で売っているブリキの汽車や飛行機等々は、高価だった。一方、親には金はなかった。それでもおもちゃ屋や一銭店屋で何とか子どものために買ってやった。子どももそれを大事にして遊んだ。
 ブリキの機関車、買ってもらったのはその1台、畳の縁(へり)を線路にして手で走らせて遊んだ。
 ブリキの飛行機、これを持っていた友だちはいなかった。私も買ってもらえなかった。紙飛行機は売っており、たまに買ったが、めったに買えないし、すぐに壊れてしまう。そこで折り紙で飛行機をつくって遊ぶより他なかった。一銭店屋に行って、五色10枚入り(だったと思う)の折り紙を買ってきて折る。そんなお金がないとき、あるいは大きな紙飛行機をつくりたいときは新聞紙を使う。もしも今のように新聞折り込みのチラシなどがあればそれもつかったろうし、枚数が多いので何機もつくれたろうが、残念ながら当時はそんなものはない。新聞紙は折り紙のように真四角になっていない、きれいではない、柔らかすぎる等の難点はあるが、大きいのが利点である。もちろん、それでつくった三角飛行機、イカ飛行機等、その姿かたちは現実の飛行機とはまるっきり違う。しかし飛ぶという点では飛行機と同じ(飛ばせないブリキの飛行機からするとそれがいい)、みんなで飛ばしあって競争して遊んだ。また、手に持って上下左右に動かしながら空中戦や爆撃を想像して遊んだものだった。
 新聞紙の折り紙といえば、よくつくったのが兜だった。私たち子どもが頭にかぶれるようにするにはこの大きさがちょうど良かったからである。

 ブリキの電車のおもちゃ、これは記憶にない。現実の電車をみんな見たこともなかった。山形にはなかったからだ(私はたまたま5歳のとき函館で見たが)。だから電車はあこがれだった。この電車は縄でつくった。縄をつないで輪にし、そのなかにみんなが縦一列で入り、その一番先頭が運転手さん、一番後ろは車掌さんの役となり、その間は乗客となり、みんなで縄をもって、『電車ごっこ』という文部省唱歌を歌いながら歩く。
  「運転手は君だ 車掌は僕だ
   後の四人は 電車のお客
   お乗りはお早く 動きます
   チン チン」(註2)
 みんなは電車に乗ったつもり、運転したつもり、停留所を適当につくって乗降しながら遊ぶ。本物の電車とははるかにほど遠い縄を電車だと想像しながら遊ぶしかなかった。

 そうなのである、みんな想像力をたくましくして遊ぶより他なかった。縄を電車に見立て、畳の縁(へり)を線路に見立てて、つまりありあわせのものを利用し、それを何かに見立てて遊んだ。両手をひろげてブーンと声を出しながら走ることで飛行機になって飛んでいるつもりになって、つまり何もなしでも身体を何かに見立てて遊んだ。四角や三角の木製の積み木を適宜重ねて、紙を折って、家だ、自動車だ、飛行機だと自らに思い込ませて遊んだ。さきほど言ったママー人形、キューピーさん等々みんなきわめて抽象的、こけしなどは手足もないが、これも想像力を駆使して現実に近いものにして遊ばなければならなかった。紙に描かれた平面的な着せ替え人形は立体的なものと想像しながら遊び、楽しむより他なかった。
 また、自然のものを想像力を発揮しながら代用した。前々回も述べたように、たとえば草や葉、実を野菜にしたり果物にしたり、皿にしたり茶碗にするなどして遊んだ。むしろを家の代用にし、木切れや泥まで何かの代用品にした。

 しかし今はそんな想像力は必要なくなってきた。人形などはただ小さいというだけで現実の人間にそっくり、ままごとの道具や自動車・列車・飛行機もミニチュアだというだけできわめて精巧、しかもそれがすべてそろっている。私たちの時代とくらべると夢のようだ。もちろんいかに店にそろっていてもそれを自分がどれだけ買いそろえられるかは別問題だが。

(註)
1.11年2月2日掲載・本稿第一部「子どもの遊び(4) ☆一銭店屋」(1段落目)参照
2.作詞:井上赳 作曲:信時潔 文部省唱歌・一年生
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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