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工夫・協力した遊び、替え歌



               子どもの遊び・楽しみの今昔(4)

                 ☆工夫・協力した遊び

 ある時期から突然玉コロ(ビー玉)が子どもの間に流行りだす。どうしてそうなるのかわからないが、いつの間にかその玉コロがすたり、ある時からパッタ(メンコ)が突然流行りだす。そのうちまたそれがすたって玉コロが流行りだす。これが繰り返される。
 玉コロが流行りだすと子どもたちは、パッタをどこか隅におしやり、前に流行った時にしまっておいた玉コロを取り出し(どこにおいたか忘れてしまい、泣きたくなることもしばしばあったが)、さらに小遣いをもらって一銭店屋に駆け込み、玉コロを買って補充する。
 そして何人か集まると、庭先や道路、家の中で玉コロ遊びが始まる。
 言うまでもなくその遊びは、自分の玉を相手の玉に当て、当たったらそれを自分のものにする、その逆であれば相手から取られるというものだが、それは基本ルールであって、当て方を始めやり方はさまざま、集まったメンバーで適宜決める。たとえば転がして相手の玉にぶつけてとるやり方、投げてぶつけて取るやり方などがあり、また範囲を決めてたとえば道路に線を引いて四角をつくり、その四角の中で勝負をするやり方、範囲を決めないやり方があり、それをみんなで相談して決めて、それから遊び始める。
 玉コロのもう一つの遊び方は、ゴルフ方式だ。庭や道路に何か所か穴を空け、そこに玉ころを順次転がして入れて行って、もっとも早く終点の穴に入れたものが勝ちとなるというやり方である。そのさいにも、穴の場所や通る順番などみんなで相談して決める。また、穴に入れたらもう一度やれるとか、穴に他人の玉コロが入っていたら他の人はその穴に入れられないとか、途中で他人の玉コロに当てたら自分のものにできるとか、こんなこともみんなで相談して決めた。こんな風にして遊んだものだった。

 パッタ(メンコ)、これは玉コロ(ビー玉)と並ぶ二大遊びの一つだった。
 基本ルール、つまり参加者が交互にパッタを張って地面に置かれた相手のパッタをひっくり返そうとする、もし裏返しにしたらそのパッタは自分のものとなる、これは同じだが、それ以外にもいろんなルールを付け加えた。
 たとえばこれに「刺しこみ」を加えることがある。自分のパッタを張ってそれを相手のパッタの下に差し込んだら、その相手のパッタは自分のものとなるというやり方だ。さらに、小さな四角を石かチョークで書き、そのなかにパッタを張ることにし、今言ったやり方のほかに、相手のパッタをその四角の外に出したら自分のものにできる、ただし自分のパッタがいっしょに外に出たらだめというルールでやる場合もある。なお、こうして外に出てしまったパッタはそのまま外におかれ、次に誰かのパッタを取った人のものになる。それから、相手のパッタを出しやすいように自分のパッタの端を折ってもいいとか悪いとか、相手からひっくり返されないようにあるいは出されないようにパッタを折り曲げてもいいとか悪いとかも適宜みんなで決める。
 なお、年齢の低いものからはたとえ勝っても取り上げない、まともな勝負は一定の年齢に達したものだけでやるというルールを入れる場合もある。これは玉コロでも同じだった。

 ルールを適宜みんなで相談して決める、これはおはじき、お手玉、毬つき、ゴムとび、かくれんぼ、鬼ごっこ、雪玉割り(註)、手ぬぐい外しなど、みんなそうだった。自分たちの好きなようにルールを変えて遊んだ。家の中でやるのか外かなどの場所、参加者の人数や年齢、時間等々を考え合わせて、もちろん好みによって、しかも飽きないように、みんなで話し合って、その場でルールを決めるのである。なお、ガキ大将がいるときはその言うことをきかなければならない場合もあったが、よほどのことがないかぎりガキ大将もみんなの意見を聞いて決めた。ルールが不満なら参加しなければいい、そうすると人数が減る、それでは困るので、そうならないようにみんなで知恵を働かせたのである。

 一つのおもちゃをいろんな方法で使って遊ぶ、同じ遊びでも適宜ルールを変える、みんなで協力しながら、みんな参加できるようにしながら創意工夫をこらして遊ぶ、売っているおもちゃの種類も数も本当にわずかだった時代、これが当たり前だった。
 今はどうなのだろうか。あまりにもいろんな遊び物がある。飽きたら他のおもちゃで、他の遊び方のおもちゃで遊べばいい、みんなと話が合わなければ家に帰って個人で遊べばいい、ゲームから何から個人で遊べるものはいくらでもある。こんなことから自分たちでルールをつくってみんなで遊ぶなどということはしなくともよくなっているのではなかろうか。
 それより何より、子どもたちが道路や境内などで群れ遊ぶ、こんなことが交通事情や塾通い等々でできなくなっていること、こちらの方が大きな問題なのかもしれないが。

 それはそれとして、私が小学校に入るころからこのような玉コロやパッタがなかなか手に入らなくなってきた。戦争真っ盛り、物資不足で不要不急のおもちゃの生産は縮小、廃止されたからだ。コマもおはじきも、まりつきのゴムまり、ゴムとびのゴム、折り紙、日光写真等々も一銭店屋にはなくなってきた。ブリキやセルロイドのおもちゃはもちろんなくなった。
 ついでに言うと、お手玉の中に入れる小豆は貴重な食料、袋も衣料不足、母親がお手玉をつくってやることができなくなった。それどころか、お手玉をほどいて中の小豆を食べた人もいたという。新聞紙を折って遊ぶこともできなくなった。ちり紙等の紙はなくなる、新聞の紙面は少なくなるで、古新聞紙はちり紙を始めとする重要な生活用品となったからである。
 もう一つついでにいうと、鉄棒、ブランコなどの遊具、グランドは学校にしかなく、子どもたちは学校でしかそれで遊べなかったのだが、その鉄棒、ブランコすら戦争が激しくなると金属の供出でなくされてしまった。
 今から考えると本当に数少ないおもちゃ、遊具しかなかったのだが、戦争はそれまで子どもたちから奪ったのである。
 ところで、キューピーさんは戦時中どうなったのだろうか。昭和の初めにアメリカから贈られてきた「青い目の人形」が焼かれたくらいだから、西洋風の顔、名前も洋風のキューピーも禁止・排斥されたのではなかろうか。でも記憶にない。当初のキューピーの生産は同盟国のドイツが主だったとのこと、しかも日本で普及しているのは国産、もしかするとそれで何も問題とならなかったのかもしれないが。

 それでも子どもたちは遊んだ。あらゆるものをおもちゃにして、あるいは想像力を駆使して、道路や田畑で遊んだ。豊かな自然はおもちゃを提供してくれた。セミやトンボ、草や花、小石がおもちゃになった。農家だから縄やむしろは売るほどある、それを利用して遊んだ。遊び道具なしでもかくれんぼや鬼ごっこはできた。子取り唄や縄跳び唄を歌いながら遊んだ。
(註) 11年2月1日掲載・本稿第一部「子どもの遊び(3) ☆水浴びと雪遊び」(2段落目)参照


             ☆戦時中に歌った替え歌

 歌で思い出したことがある。替え歌を歌って楽しんだことだ。
 たとえば1938(昭和13)年(私の生まれた翌々年)に国民歌とされて広く歌われた『愛国行進曲』(註1)である。
  「見よ東海の 空明けて
   旭日高く 輝けば
   天地の精気 溌溂と……(後略)……」
 これは次のように替えられた。
   『見よトウチャンの ハゲ頭
   ハエが止まれば ツルッと滑る
   滑って止って またすべる……(この後は忘れた)……』
 それから『紀元二千六百年』(註2)という歌があった。これは昭和15(1940)年が神武天皇の即位から2600年になるということでそれを記念するためにつくられた歌で、この年は毎日何度もラジオから流されたものだった。
  「金鵄(きんし)輝く 日本の
   栄えある光 身にうけて
   いまこそ祝へ この朝
   紀元は二千六百年
   あゝ一億の 胸はなる」
 でも私は最後の2行しかメロディは覚えていない。にもかかわらず、歌詞は最初の方も覚えている。替え歌がタバコの値上げを皮肉っているものだから、きっと子どもなりにそれをおもしろいと思ったからなのだろう。
  『「金鵄」上がって 十五銭
   栄えある「光」 三十銭
   「朝日」は上って ?銭
    紀元は二千六百年
    あゝ一億の 民は泣く』
 この替え歌に出てくる「金鵄」、「光」、「朝日」は当時のたばこの名前で、それがこの歌の流行るころに値上げされたのである(朝日の値段は忘れてしまった)。
 戦争が激しくなるなか、次のような歌がラジオなどで歌われるようになった。
  「この一戦 この一戦
   何が何でも やりぬくぞ
   やりぬくぞ やりぬくぞ」
 これは「贅沢は敵だ」のような戦時国策標語の一つだったのだが、それを歌にしたのである(註3)。それを私たちはこんな風に歌った。
   『この一銭 この一銭
   何が何でも 取りぬくぞ
   取りぬくぞ 取りぬくぞ』
 このように国策的な歌を替え歌にして歌っただけではない。
   「山のさびしい 湖に
    ひとり来たのも 悲しい心……(後略)……」
 高峰三枝子の歌ったこの『湖畔の宿』(註4)もパロディ化された。
   『昨日生まれた 豚の子が
    ハチに刺されて 名誉の戦死……(この後は忘れてしまった)……』

 この最後の替え歌は高等小学校にいたころのM叔父から聞いて覚えたという記憶があるが、後は近所の上級生や同級生から教えられたような気がする。当時の暗い世情に対する庶民の鬱憤晴らしのこのような替え歌、当然反戦、厭戦の歌として厳しく取り締まられたと思うのだが、どこからどういうように流行ってきたのかわからない。私たち子どもはまさに愛国少年、だったにもかかわらず、こんな替え歌をみんなで歌った。遊び、笑いに餓えていたのだろう。

 これまで述べた替え歌はすべて全国共通なのだが、たった一つ、私たちの近くの町内だけで通用した替え歌があった。
   「トン トン トンカラリンと 隣組……(後略)……」
 これは戦時中ラジオでしょっちゅう流していた『隣組』(註5)という歌の最初の一節なのであるが、その最初の歌詞を富樫という家に当てはめたのである。
   「トン トン トガシの トンガリばさま(婆様)」
 この後の歌詞は忘れた、これだけで後はなかったのかもしれない。なぜこんな替え歌ができたのかわからない。きっと近所の子どもたちと富樫のお婆さんと何かあったのたろう。この歌の調子がいいので、意味も分からずに私たちも笑いながら歌った。

 思い出した。替え歌ではなく、メロディもないが、みんな声を合わせてこんな言葉を叫んでも遊んだ。
   「ソーダソーダ ソーダ村の村長さんが
    ソーダ飲んで 死んだソーダ
    葬式饅頭 うまいソーダ」
 何でこんな言葉遊びが、またどこから流行ったのかわからないが、ソーダ=炭酸水であるサイダー・ラムネは戦前の子どもたちのもっとも好んだ飲み物、葬式饅頭は甘さに餓えていた当時の子どもたちの好物、しかも言葉の調子がいい、こんなことからだろう、大笑いしながらみんなで叫んだものだった。

 子どもたちは悪口が好き、いたずらが好きだ。単なるお利口ではない、かわいいだけではない。これも人間には必要なことの一つ、それがいじめになったり、悪い方に進んだりしないように、遊びを通じて教育を通じていかに育てていくか、こんなことも考えていかなければならないのかもしれない。

(註)
1.作詞:森川幸雄 作曲:瀬戸口藤吉 1938年。
 『見よトウチャンの』ではなく、『見よ東條のハゲ頭』とする替え歌もあったらしい。東條とは1941年米英
  に宣戦布告したときの首相の苗字、彼の頭に毛がなかったことと彼に対する庶民の反発がこうした
  替え歌をつくらせたのだろう。
2.作詩:増田好生 作曲:森義八郎 1939年
3.歌の正式名称、作詞作曲者名は調べたがわからなかった。
4.作詞:佐藤惣之助 作曲:服部良一 1940年
5.作詞:岡本一平 作曲:飯田信夫 1940年

(追記)
 ここに書いてある替え歌以外に、もう一つ思い出した替え歌があった。
  『四百余州をこぞる 十万余の乞食
   おじさん金をくれ くれないとガンとやるぞ』
 しかし、元歌が思い出せない。それで書かないでいたら、最近ふと思い出した、『元寇』という歌ではなかったかと。パソコンで検索してみた。まちがいなかった。
  「四百余州をこぞる 十万余騎の敵
   国難ここにみる 弘安四年夏の頃……後略……」
 1892(明治23)年、永井建子が作詞作曲したものとのことだが、戦時中戦意高揚のためによく歌われたものだった。それで替え歌が生まれたのだろう。私たち子どもは「十万余の乞食」とか「金をくれ」とかの歌詞が面白くてよく歌ったものだった。(13年8月記)
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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