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ありあわせから既製の遊び道具へ

      


                子どもの遊び・楽しみの今昔(5)

               ☆ありあわせから既製の遊び道具へ

 小学2年(戦時中の1943年)のころだったと思う、学校で使うノート(なかなか手に入らなくなっていた)の1頁と鉛筆を利用した「飛行機撃墜ごっこ」(何と呼んだか正確には覚えていない)が流行った。
 4人以内でするのだが、わかりやすいように2人のゲームとして説明しよう。まずノートの1頁の上と下の斜めに向かい合った隅にそれぞれ小さな四分の一の円になるように鉛筆で線を描き、それを自分の陣地とする。続いて、その陣地の中に「士」を書き入れ、それを自分の飛行機とする(士は飛行機の姿と似ているのでそうしたのだろう)。その飛行機を何機持つかは話し合って決めるが、たとえばお互いに3機もつということになったならば、士を三つそれぞれ自分の陣地のなかに書く。そしてその飛行機を動かして相手の飛行機と戦いながら相手の陣地に向かい、そこに先に到着した=攻め入った方が勝ちというゲームである。
 さて、戦い方だが、まず自分の飛行機「士」のてっぺんに鉛筆の芯をつけ、鉛筆の頭の方を左の人差し指の先で押さえて真っ直ぐに立てる。その鉛筆の下の方を右手の人差し指もしくは中指で、相手の陣地の方向に向けて、思いっ切りはじく。すると鉛筆は倒れるが、それにともなって動いた鉛筆の芯がノートに軌跡=直線を描く。これを飛行機の航跡とし、その端に飛行機の印、つまり「士」を書き、そこまで飛行機が飛んだことにする。次に相手が同じことをする。こうやって、航跡を描きながら少しずつ相手の陣地に近づき、そこに飛行機を突入させる。もしもうまく航跡が相手の陣地に入ったら勝ちである。
 そうさせないために相手の飛行機をやっつけようとする。近づいてきた飛行機に向けて鉛筆を倒し、その芯の軌跡が相手の飛行機の上を通ったら、相手の飛行機は撃墜されたことになる。もし撃墜されたら2機目を発進させる。もちろん順番にではなく、3機代わる代わる発進させてもよいのだが、飛ばす機数や方向を考えながら攻撃する。もしも相手の飛行機すべてをやっつけたら、当然のことながら陣地に攻め入らなくとも勝ちである。
 やがてそんな遊びはできなくなった。戦争が激しくなる中でノートがなくなってしまったからである。ましてや遊びなどに1頁たりとも使うわけにはいかなくなった(註1)。

 戦後も学用品は手に入らなかった。あらゆる物資が不足し、食うだけで精いっぱい、もちろんおもちゃどころではなかった。
 ようやくノートが出回り始めたころ、中学に入ったばかりのころ(1948年)だったと思うが、こんな遊び(「陣取り」と言ったような気がする)が流行った。
 ノートに鉛筆の芯でたくさんの点を打つ。じゃんけんで順番を決め、かわるがわるその点を直線で結ぶ。そして三角形をつくっていく。相手の引いた直線を利用して三角形をつくってももちろんいい。この三角形が自分の領土・陣地である。三角形をつくったら、そこにそれぞれ自分なりの印をつけて自分の領土・陣地だと言うことがわかるようにしておく。なお、相手や自分のひいた直線に触れるあるいはそれをまたぐような線はひいてはいけない。また、点を三角形のなかに残してはならない。こうしてお互いにいくつかつくっているうちに、今いった禁則に触れないと三角形がつくれなくなる場合が出てくる。これは三角形をすべてつくり終わったことを意味する。これでゲームは終わり、それからみんなで自分のつくった三角形がいくつあるかを数え、その数の多い方、つまり陣地の多いものが勝ちということになる。

 冬もしくは雨で外で遊べない日の休み時間などにこうやっても遊んだのだが、ノートを利用して遊んだといえば連珠(私たちは「五目並べ」と呼んだ)をしても遊んだ。ノートの一部に縦横に6~7本の線を引いて碁盤のような升目をつくる。その升目(縦横の交点)に、たとえば自分の石は○、相手は×として、打って(書いて)いく。そしてどちらかが四三になったら勝ちとなる。
 こんなことは碁将棋ではできない。将棋は駒をやったり取ったりするので駒がないとできず、囲碁は多くの升目が必要となる上に石を取ったり取られたりが紙の上ではできない。ところが連珠ならノート一枚で何回も升目をつくってやれ、時間も短くてすむので休み時間で十分遊べる。
 なお、こんな風にしてノートで遊んでいると親や先生にいやな顔をされたものだった。ノートは勉強のために使うもの、しかも貴重品、それを遊びで使うなどはもっての他だったからである。それでもみんなはやった。遊び道具がなかったから、ノートや鉛筆などありあわせのものを遊び道具にして遊んだ。
 晴れた日の休み時間は野球だが、グランド等校内の空き地のあらゆるところ(何ヶ所かあるが、どのクラスがどこを先に占拠するか競争、お互いの外野手が交錯することになる)で、既製品はボール(ゴムまり)1個のみ、バットは棒っきれ、当然素手、ベースは電信柱もしくは板っきれ、ファウルラインは棒っきれで土に線を引いた(註2)。家に帰っても同じようにして近所の仲間と道路もしくは境内で遊んだ。
 何はなくとも子どもたちは遊びが好き、身近にあるありあわせのものを利用し、遊び道具にして遊んだのである。

 1950年代、ようやくおもちゃ産業も復活し始めた。そして日本はふたたび世界一のおもちゃ輸出国となり、おもちゃ産業は戦後の日本経済復興の立役者となった。下町の零細工場、職人的な技術が、日本の復興に大きな役割を果たしたのである。
 やがて、セルロイドは燃えやすい、危険だということで禁止になったりするなど、いろいろあったが、プラスチックの導入でまた盛り返した。ただし私はもうそのころにはおもちゃなどまったく関心なし、どのようなおもちゃが出たかなどわからない。ただ、子どもが生まれたころは、かつてより精巧で安全になった汽車や自動車、人形などのおもちゃを買ってやった。でも私の父と母が孫可愛さに買ってくれるものが多く、私はあまりおもちゃに関心をもたなかった。ただし、子どもの本にだけは関心をもち、たくさん買ってやった。私の子ども時代の欲求不満のせいだろう(註3)。
 とにかくものは豊富に出回るようになった。三角つくりなどノートに書いてしなくともよくなった。遊び道具は多々あるし、碁将棋連珠は持ち運び可能な小さな盤と碁石・駒があり、最近はパソコンでもできるという。だからノートでの遊びなどは落書き以外やらなくなったのではなかろうか。

 90年前後だったと思う、福島県の阿武隈山地に調査で行ったときのことである、県庁の車で案内してもらっていたら、突然西洋の童話や絵本に出てくるような洋風のお城の建物が目に飛び込んできた。何の建物だろうと思って聞いたら、リカちゃん人形の工場だという。驚いた。あのリカちゃん人形が福島県小野町で製造されていたのである。なお、小野町は小野小町の出生地とか、ここで製造するのはぴったりかもしれない(註4)。
 70年代、リカちゃん人形が大ブームになった。さっき言ったようなママー人形やキューピーさんなどと違い、その体形、顔だちはきわめてリアル、着せ替えの洋服も流行に沿い、しかも多種多様、手に入りやすい価格である。
 それだけではない、リカちゃんの家族の人形もあり、さらには家まである。家にはダイニングキッチンや洋間がある。これまたきわめて精巧、冷蔵庫や掃除機、机や腰掛などの家具も売っている。
 女の子の人気を博するのは当然のことだった。この工場が東北にあったとは自分はまったく知らず、驚いたものだった。

 孫が生まれたころ、90年代半ば過ぎだが、いっしょにおもちゃの店に行った。何十年ぶりだったが、ままごと道具を眺めて驚いた、果物から野菜、寿司、茶碗、箸、包丁、まな板に至るまでのミニチュアのおもちゃが売られている。もちろんフライパン、鍋、レンジまでもあり、しかもそっくりである。その他のおもちゃも多種多様、子どもの欲しがりそうなものはほとんどそろっている。プラスチック製なので危険性はなく、こわれたりもしない。
 積み木もかつてのように木製の単純なものではない。プラスチック製のさまざまな積み木があり、さらにブロックとかレゴとかがあって家から自動車まできわめて現実に近い姿でそのミニチュアをつくることができる。もっと精密なものとしてプラモがある。われわれの幼いころは新聞紙で飛行機を折って遊び、紙と竹ひごの模型飛行機をつくって遊んだものだが、そんなことをしなくともプラモがあり、さらにはラジコン飛行機まである(もちろんこんなものは高価でおもちゃというわけにはいかないが)。
 自分でつくらなくとも、精巧につくられた自動車のミニチュアがあり、多様な種類の汽車・電車やレール、信号、駅舎のミニチュアがある。しかも電池で線路の上を走る。鉄道マニアだった私、幼いころならよだれが出るほど欲しがったことだろう。
 怪獣、恐竜、ウルトラマンのミニチュア、ガンダムのプラモ等々、さらにはゲーム、かつては考えもしなかったおもちゃもある。ボールやバット、グローブなどスポーツ用品も豊富に出回っている。縄跳びも縄を利用しなくともよくなった。
 しかも昔のように高価ではない。子どもでも買える(私の血をひいたせいか孫も列車好き、幼いころお年玉などをトミカのプラレールにつぎこんでいた)。ありあわせの遊び道具などで間に合わせなくともいい。子どもが欲しがるだろうと思うものは既製品としてほとんどそろえられている。幸せな時代になったものだ。恵まれているなあとうらやましくなる。

 定年になって時間ができたので、写真を整理してみた。1960年前後、私の幼い子どもが遊んでいる写真、場所がどこだかわからない。よくよく見て見たら、近所の遊園地である。今はブランコ、砂場、ジャングルジム、鉄棒等々がそろっているのだが、当時はまだ整備中だったようである。このように徐々に住宅地内に小さな遊園地が公的に整備されてきた。また、農村部でも整備され、都市と農村の格差もなくなってきた。木の幹や枝によじ登り、塀や屋根を渡り歩きしなくとも、つまりありあわせのものを利用しなくとも、既製のジャングルジムで危険なく遊べる。
 デパートの屋上遊園地、民間の郊外の大きな遊園地等がつくられ、子どもたちの夢をかなえる遊具がたくさん並ぶようになった。もちろんここは金がかかるが。

 私たちの子ども時代には想像もできなかった。本当によくなったと思う。とはいっても、私たちの幼いころと比べてどっちが幸せなのか、子どもの成長にとってどっちがいいのか、わからない。あまりにも恵まれすぎているからだ。
 もちろん、おもちゃであるかぎり、遊びである限り、その昔と基本は変わりない。たとえば、ミニチュアはあくまでもミニチュア、現実とは異なる。それは子どもたちもわかっている。だから今のおもちゃでも子どもたちは想像力を発揮して遊んではいる。たとえば人形に話しかけ、人形が返事をしてくれたものとして、つまり想像で会話をして遊ぶ。しかし、最近はこちらが話しかけるとそれに適当に合わせて答える人形もあるとのこと、あまりにもサービス過剰、それでいいのかちょっと疑問になる。また、メーカーはこれでもかこれでもかと数多くのミニチュアをつくって売り出し、子どもの購買欲をそそる。はたしてそれでいいのかも疑問となる。

 ここまで書いてきてふと思った、そもそも今の子どもたちはメンコやビー玉で遊んでいるのだろうか。こんな遊びで取った取られたと騒ぐより、一人でゲームを楽しんだ方がいいという時代になっているのではなかろうか。
 近くの生協ストアに行ったとき、屋上のエレベーターの前の長椅子に中学生と思われる3人が座っていた。3人ともそれぞれゲーム機を両手で持ち、夢中でそれに興じている。ときどき隣りの子に話しかけることがあるが、それも一言か二言、またすぐに顔をゲーム機に向け、ゲームの決めたルール通りに遊ぶ。これなら一人で部屋でやったらいいだろうにと思うが、やはり人間、友だちがいた方がいいのだろう。ともかく群れているということはいいこと、それにしてもこんな遊び方でいいのか、疑問になってしまう。
 自分たちで考える力、みんなと協力する力、遊びの中でも鍛えられると思うのだが、それがなくなってきつつあるのだろうか。

 ところで、最近リカちゃん人形の生産は中国が中心になりつつあるとか、小野町の工場は今どうなっているのだろうか。他のおもちゃも外国産が多くなっており、戦前戦後の輸出国日本は輸入国となっているようだ。発展途上国がおもちゃ製造を含む軽工業製品の輸出国になるのは法則的なもの、これもやむを得ないのかもしれないが、おもちゃ産業を支えてきた中小工場が、職人的技術が日本からなくなっていくのは、何ともさびしい。

(註)
1.11年2月4日掲載・本稿第一部「☆のらくろ・活動写真」(6~8段落目)参照
2.11年2月22日掲載・本稿第一部「☆復刊少年倶楽部と野球少年」(3段落目)参照
3.11年2月4日掲載・本稿第一部「☆のらくろ・活動写真」(1~4段落目)頁参照
4.そういうと秋田県人はいい顔をしない、自分のところが小町の出生地だと考えているからだ。なお、そのことについては下記の記事でもちょっと触れている。
  11年7月20日掲載・本稿第二部「☆きのこ栽培の普及」(3段落目)

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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