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神仏の祭り今昔



               子どもの遊び・楽しみの今昔(9)

                 ☆神仏の祭り今昔

 戦後の一時期、アメリカからたくさんの宣教師が日本にやってきた。山形にも占領軍の進駐の後にやってきた。
 アメリカ人がキリスト教の宣伝に近所の家々を歩いてまわっている、こんな話を友だちから聞いていたが、何と農家である私の生家にまで布教しにきた。平服を着た2人連れの若いアメリカ人が訪ねてきたのである。たまたま祖母と小学5年の私が家にいた。彼らは日本語をしゃべったのだが、祖母は彼らの言うことがよくわからないというだけ、何とはなしに私が話し相手となってしまった。これが私の初めてのアメリカ人との会話だった。
 いろりのわきに腰をおろして2人は私にいろいろと話したが、二つのことしか覚えていない。まず、聖書を知っているかと聞かれたことだ。知っている、近所の人が持っていたので読んで見たけど難しくて途中でやめたと言ったら驚いていた。もう一つ、神様は何人いるかと聞かれた。何しろ八百万(やおよろず)の神様が日本にいるわけだから、たくさんいると答えた。そしたら、太陽はいくつあるかと聞く。一つだと言ったら、続けて天皇は何人いるかと聞かれ、1人だと答えた。その通り、それと同じことで神様も1人しかいないのだと言う。そういうものなのかなあと何かよくわからなかった。こんなことしか覚えていないが、最後に毎週日曜に集まりがあるので来るようにと言って帰って行った。30分くらいいたのではなかろうか。
 しかし私はその集まりに行かなかった。友だちの何人かは行ったらしい、行くと何かお菓子をもらえるから、アメリカ人に興味があるからのようだが。しかし、彼らがクリスチャンになったという話は聞いていない。その後も聞いていない。少なくとも、小中高の同級生には誰もいなかった。大学に入ったら先輩に2人いただけだった。

 西欧は、鉄砲と大砲の力を使って資本の利益の獲得範囲を世界中に拡大すると同時にキリスト教の布教と西欧文明の普及を進めてきた。
 その例にならえば、第二次大戦で負けた日本でもキリスト教が普及させられてしかるべきだった。つまり、欧米占領軍の武力を背景にキリスト教の宣教師がやってきてキリスト教が広められてしかるべきだった。
 実際に戦後、軍隊の後に宣教師はやってきた。そして布教を始めた。
 しかし、歴史は繰り返さなかった。繰り返せなかったといった方がいいのだろう。第二次大戦の欧米の勝利は、欧米の武力だけでなく世界の反ファシズム、民主主義の運動の積み重ねの結果でもたらされたものであり、欧米と違う宗教や文化を武力を用いて迫害し、キリスト教やその文化を押し付けるというわけにはいかなくなっていたのである(註1)。もちろん、そもそも日本人には自然崇拝、多神教的性格があるとか、それ以外にもさまざま原因はあげられようが、ともかくキリスト教信者は日本ではそれほど大きく増えなかった。

 ただし、日本人はキリスト教文明の一つは受け入れた。それはクリスマスである。日本人はキリストの生誕を祝う祭りをするようになった。
 だからといって、これまでの神様や仏様の祭りがすたれたわけではない。
 クリスマスの一週間後には、神社への初詣でに出かける。仙台の私の家の近くにある大崎八幡神社は、正月三が日、初詣での人たちで大賑わいとなる。しかし地域住民はいい迷惑だ。大交通渋滞、小学校のグランドを開放して駐車場にしてもいつも満杯状態、だから車は道路でのろのろ運転、どころかほとんど動かず、私ども住民は自家用車ではもちろんのことバスでも地域外に出るのは難しく、正月三が日は家に閉じこもっているより他ない。人もぞろぞろ歩く。家族連れで、あるいは友人といっしょに、いずれにせよ楽しそうだ。そして神社の参道に並ぶ。何十分か並んでようやく神前にたどりつき、お賽銭をあげて柏手(かしわで)を打ち、家内安全、受験合格、商売繁盛等々をお願いする。帰りには、これまた並んでお守りを買い、おみくじを引き、縁起物の甘酒を飲み、子どもたちは参道に立ち並ぶ露天商からお好み焼きや綿あめを買い、くじ引きでおもちゃが当たった当たらないで大騒ぎをする。
 1月14日は「どんと祭」だ。正月飾りなどを焼き、その火、つまり御神火にあたることで一年の無病息災・家内安全を祈願するのである。これまた何万人もの人出、神社は儲かっていいが、私たち地域住民にはいい迷惑だ。近くなので苦労しないでお参りに行けるという利点はあるので、我慢するより他ないが。
 その他前回述べた9月の例大祭があり、そのときには近隣の人がお参りをし、さらに11月の七五三、市内各地から集まってくる。
 そうしたとき以外にも、たとえば神社の前を通るとほとんどの人は拝礼する。どの神社に対してもそうだ。 しかし、家の神棚に対してはどうなのだろうか。前のように朝晩拝んでいるのだろうか。それよりも何よりも、家々には神棚がなくなっているのではなかろうか。とくに町場ではそうだ。農家に行くと今でも神棚があるが、かつてのように朝晩拝んでいるのだろうか。どうなっているのだろうか。

 話は戻るが、神社の祭りのときと同じように迷惑なのが、春秋のお彼岸とお盆だ。私の地域にはお寺が多く、さらに市民墓地への通り道になるので、これまたすさまじい車の渋滞である。それでも我慢するより他ない。ご先祖様への供養を忘れていないことはいいことだからだ。近くの花屋さんやスーパーではお彼岸やお盆に仏壇や墓に飾る花が売られている。花き栽培農家の大きな収入源の一つ、これまた喜ぶべきことだろう。
 しかし、その時以外に仏様を拝むことはなさそうである。もちろん不幸があった場合は別だが、朝晩仏様を拝むなどということは町場では聞かなくなっている。農村部でもそうなっているのだろうか。
 私の子どものころは、どこの家からも朝もしくは晩に読経の声と木魚の音が聞こえてきたものだった。ただし、法華経の信者の家から聞こえてくるのは法華太鼓を鳴らす音だった。
 私の生家でももちろんそうだった。毎朝毎晩、食事の前に祖父はまず座敷の上にある神棚に向かって柏手を打って拝む。
 続いて隣りの座敷に行って仏壇の前に座る。
  「なんまんだぶ なんまんだぶ…………」(註2)
 そうつぶやきながら祖父はマッチでろうそくに火を点け、その炎で線香に火を点ける。そして手を合わせながら言う。
  「がしゃくしょぞうしょあくごう かいゆうむしとんじんち
   じゅうしんくいししょうしょう いっさいがこんがいさんげ」(註3)
 その後、木魚をたたきながら、『般若心経』を唱え始める。
 その読経が終わってから、家族全員そろっての食事である。ただし、その前に神棚と仏壇にはご飯が供えられていなければならない。それは主に女子どもの仕事になるが、いずれにせよ家族全員必ず神棚と仏壇に手を合わせる。
 この朝晩神仏を拝んで読経する、これは家長の役割だった。私の父も祖父が亡くなってからは朝晩の勤めとしていた。
 私たち子どもも朝晩必ず拝まさせられたが、当然読経などはしなかった。でも、幼いころは木魚がおもしろくて祖父のかわりに叩いてやったりもしていた。ところが、やがて私はまともに祖父とともに読経をするようになった。それは小学5年、母が死んだ(註4)のをきっかけとしてだった。母に対する思いを何か形にして表したい、またその2年前に死んだ妹(註5)の供養もしたい、そんなことからだったが、仏壇の前にすわって朝晩お勤めをする祖父の脇に座り、いっしょにお経を詠むようになった。お経の本にはカナがふってあるので私にも読める。暗記している祖父は経本の必要がないので、私は仏壇の蝋燭の光で経本を見ながら、祖父の声に合わせて読んだ。
 まず、さきにのべた『懺悔文(さんげもん)』(註3)を読み、続いて『般若心経』となる。夜のお勤めにはこれに『菩提和讃(ぼだいわさん)』が加わる。
 もちろん、さっぱり意味がわからない。でも朝晩読んでいるうち、完全に暗記してしまった。今でも般若心経などは空で言える。ただし『菩提和讃』は忘れてしまった。なお、このお経は和文(といっても古文だったが)だったので、意味は少しはわかった。悪いことをしてはだめだ、仏様を信仰しなさいというのが内容だった(註6)。『般若心経』は釈迦の世界観を示すもの、その内容はきわめて深いと知ったのはかなり後のことで、当時は何もわからずに読経していた。
 その年の夏休みに入った頃、祖父に連れられて山形の旧市内の霊場三十三箇所を一日がかりで巡り歩いてお参りをした。今考えて見れば私の母の百か日に合わせてのことだったのだろう。もちろん百か日の法要はきちんとやったのだが、祖父としては祖父なりの母に対する思いがあったろうし、母を思っていつもいっしょに読経する幼い私を「むずこい」(註7)と思ったこともあったのだろう。
 お彼岸に催される菩提寺の説教を聞きに行くようにもなった。よくわからないところがあったが。説教が終わった後こんなことを老和尚が言ったことがある、今は民主主義の時代だそうだ、何か質問があれば受け付けるというのである。それで聞いてみた。生き物を殺すのは悪いこと、それはよくわかるのだが、米や野菜も生き物、それを私たちは食べている、これは悪いことなのかと。和尚は苦笑しながら答えた、たしかに同じ生き物、しかし人間から遠くなればなるほど罪は軽くなる、だから食べていいのだ、しかしやはり命をもらっていることには変わりない、感謝して食べなさいと。なるほどと納得したものだった、何か釈然としないところはあったが。
 いつのころからだったろうか、読経をしなくなった。中学、高校と通学時間がかなりかかり、忙しくなったこと、母や妹の記憶が少しずつ薄れてきたこと等があったのだろう。私の宗教心は薄れてきた。宗教が支配階級と結びついたり、あるいは宗教者自らがその一員となって民衆を支配してきたという歴史などを知ってくるなかでますますそうなってきた。宗教心の薄れは私だけでなさそうだ。日本人全部がそうなったような気がする。
 でも日本人は何かのおりにはやはり仏様を拝み、神様をお参りする。「仏、ほっとけ」という言葉もある、何かのおりに仏のことを思い出してくれればいいとある和尚は言うが、それを実践しているようだ。
 しかし新しい宗教行事もやるようになっている。クリスマスなどがその典型だ。ただし、日本人のクリスマスには祈りがない。キリスト教信者が戦後大きく増えたわけでもなく、宗教的な意味での祭りとして受け入れたわけではないからだ。敗戦国の日本人の欧米に対する劣等感、日本人の洋物好きとお祭り好き、ここに目をつけた商魂のたくましさがクリスマスを季節の行事の一つとして付け加えさせたのだろう。
 クリスマス近くになると子どもたちはイブにクリスマスケーキを食べ、また靴下を準備してサンタクロースからプレゼントをもらうのを楽しみに待つ。デパートを始め商店街はクリスマスツリーを立て、クリスマスソングを流して賑やかに購買意欲をかきたて、お祭り気分を盛り上げ、若いカップルが町を楽しそうに歩く。戦前は考えもしなかった祭りがもう日本人の慣習、季節の風物詩として定着してしまった。
 バレンタインデーもそうだ、日本人のバタ臭さ・祭り好きに加えて女の子の気持ちをくすぐったチョコレートメーカーの販売戦略で、2月には義理チョコが店頭に賑やかに並ぶ。
 なぜクリスチャンでもないものが「メリークリスマス」なのか、バレンタイン処刑の日を祝うのかよくわからないが、ともかく楽しいことはいいことだ。おたがいに異宗教の行事を認め合う、さらには自分と違う教徒の行事までもその教徒といっしょにお祝いしあう、これもいいことだ。世界中がそうなればいいと思う。
 私たちが子どもの頃は、非日常のお正月そしてお年玉が楽しみだった。それは今でもあり、さらにそれにクリスマスプレゼントが加わる、クリスマスツリーそして正月の松飾りとお祭り気分が続く、子どもにはこんないいことはない。義理チョコ、好きな男の子への告白、これもいいだろう。残念なことに、女子学生のくれた義理チョコ、私はもうもらえなくなってしまったが(家内は買ってあげようかと言うが断っている、同情されるほど落ちぶれてはいないつもりだ)。
 こうした平和な世の中が、またどの家庭でも子どもたちにこうした楽しみを味わわせられるだけの経済的精神的ゆとりのある世の中が、世界中に早く来てほしいものだ。

 欧米とくにアメリカの文明に浸食されつつも、神仏を祭る伝統は何とか生き延びている、これもうれしいことだ。これからもぜひそうしてもらいたいものだ。
 同時に、地域に古くから伝わるさまざまの伝統的な宗教行事の保存に力を入れてもらいたい。そのためにもそうした伝統を引き継ぐ主体となる若者が地域で生きていけるように、地域、その基礎となる農業と集落の維持、発展にさまざま支援をしてほしい。

(註)
1.「国家神道」は否定されたが、これは日本軍国主義の廃止、政教分離からして当然のこと、これまた当然のことながら神さま信心そのものは否定されなかった。
2.いうまでもなくこれは「南無阿弥陀仏」の俗語、略語。
3.「我昔所造諸悪業 皆由無始貪瞋癡 従身語意之所生 一切我今皆懺悔」
  『懺悔文(さんげもん)』という短いお経だが、まさに今の私にぴったりである。
4.10年12月23日掲載・本稿第一部「☆女性参政権を行使できなかった母」参照
5.10年12月14日掲載・本稿第一部「☆子守り―幼い妹の死―」参照

6.たとえばこんな一節があるが、どうも私への説教のようだ。
  「……五欲の悦楽(たのしみ)追い求め 刹那の夢に酔いしれて 殺生偸盗邪淫欲 悪口(あっく)両舌綺語妄語 破戒無慚の輩(ともがら)に いつか救いのありぬべき……」。
7.山形の言葉で、「かわいそう」、「痛ましい」という意味。子どもに対して使うのだが、もっとうまく翻訳できないのが残念である。なお、庄内地方では「めじょけない」という。
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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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