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サーカス、チンドン屋、アドバルーン



               子どもの遊び・楽しみの今昔(10)

              ☆サーカス、チンドン屋、アドバルーン

 「おやぐっさま(お薬師さま)」と私たちが呼んでいた国分寺薬師堂は旧山形市内の東北端にあり、その南端にある私の生家とはちょうど逆方向になる。だけど、その近くに祖母の妹が嫁いでいたので、5月8~10日の「おやぐっさま」のお祭りには祖父か祖母に連れられて小さいころ毎年行ったものだった。
 ここのお祭りの規模は、生家の近くの八幡さまどころではなかった。薬師さまの周辺の道路には、大小さまざまの植木を売る出店がずらっと並び、薬師公園と呼ばれる広い境内には祭りにつきものの露店が所狭しとばかり並び、さらにサーカスが毎年開かれ、いろんな出し物をするさまざまなテントもあった。そして近郷近在、たくさんの人が集まってきた。だから前に書いたように迷子になってしまったこともあった(註1)のだが、ここに来るのは本当に楽しみだった。とくにサーカスである。これはここでしか、この時期にしか見られなかったからである。
 大きなテントの正面入り口の上に高く渡された何枚かの板の上にトランペットと太鼓などの楽隊(ジンタと私たちは呼んでいた)がいて、物悲しげに『美しき天然』(註2)を吹きならす。入り口にいる呼び込みがそれに負けないように大きな声を張り上げる。ときどき入り口の幕をちょっと開け、中を見せてくれるが、いいところに来るとさっと閉めて、もっと見たいだろう、さあお金を出して入れと言わんばかりに呼び込みは声を激しくさせる。中に入ると真っ暗、空中ブランコと綱渡りしか覚えていないが、あの芸人たちは実は子どものころ人さらいにさらわれたあるいは人買いに売られた人たちで、鞭で叩かれながら芸を無理やり覚えこまされたのだなどと教えてくれた近くの子どもたちの言葉を思い出し、それと『美しき天然』の悲しいメロディとがいっしょになって、何か暗い感じがした。しかし、やはりスリルはあり、次の年はまた見たくなったものだった。
 当然のことながら、戦時中から戦後にかけては祭りはなし、もちろんサーカスも来なかった。そのうち私も大きくなってお祭りにもいかなくなったので、サーカスが戦後いつごろから再開され、またなくなってしまったのかは覚えていない。ともかく今は薬師さまのお祭りのときにはサーカスが開かれていないらしい。したがって、お薬師さまとサーカスのつながりは年寄り以外今の山形の人たちにはわからないだろう。
 なお、宮城県南の小さな町に育った家内は、家の隣にあった天神さまのお祭りに毎年サーカスが来ていたと言う。やはり『美しき天然』は同じ、人さらい・人買いなどの話も聞かされており、暗いイメージをもっていたとのことだ。
 こうした小さな町にまでほぼ毎年来ていたと言うことは、サーカス団の数が多かったこと、それが成り立つほど観客もいたこと、つまり地域に人がいたこと、そして神社仏閣、祭りとサーカス興業が結びついていたことを示すものなのだろう。

 いつ頃からだったろうか、外国のサーカスショーがテレビでよく紹介されるようになった。また、ボリショイサーカスなど外国のサーカスの日本公演が開かれるようになった。しかし、日本のサーカスについては何も聞いたことがなく、もう日本にはないのかと思っていた。そのうち、キグレとかキノシタとかなつかしいサーカスの名前を聞くようになり、仙台でも公演があるとのこと、日本にまだサーカスがあったのだと再認識したが、見ようとする気もなかった。
 小学校に入る前に見ただけだから約60年ぶりとなるが、今から10年ほど前、孫といっしょに仙台駅前の空き地で開かれたサーカスを見に行った。やはりテントだった。ジンタはなく、当然のことながら『美しき天然』は聞けなかった。本当にしばらくぶりで見たサーカス、暗いイメージはまったくなし、空中ブランコや綱渡りに加えて新しい出し物がさまざまある等、いろいろと前とは違っているような気がするが、ともかくなつかしかった。
 なお、この公演は祭りとは一切関係がなく、開催期間も長かった。神社・祭りとサーカスが結びついているところはまだどこかにあるのだろうか。もう縁は切れてしまったのだろうか。

 『美しき天然』で思い出すのはチンドン屋である。クラリネット(だと思う)を吹く人がそのメロディを奏で、ちょん髷のかつらをつけた派手な着物姿の人が鉦と太鼓を組み合わせた木組みを身体の前に背負ってメロディにあわせチンチンドンドンと鳴らして歩く、子どもには面白かった。ただ、私の生家のところは町はずれ、めったに来なかったが、チンドンの音が聞こえると飛び出して行ったものだった。
 しかしそれも私が6歳のころまで、戦争が始まると当然のことながらなくなり、戦後もあまり見なかった。そのチンドン屋とまともに相対したのは、仙台で、戦災の後が残っていたがようやく落ち着き始めていた1955(昭和30)年、私が大学2年のときだった。
 ある秋の日、私の住む学生寮にアルバイトの募集がきた。一日200円、終わったらある映画館の入場料が無料ということである。バイト賃は普通並み、昼飯付き、映画はただ、こんないいバイトはないと、集まってきた何人かの寮生とじゃんけんをして何とか勝ち上がって権利を獲得し、友だちと2人、翌日勇んで出かけた。何と、映画館の宣伝をするチンドン屋のアルバイトだった。楽器を鳴らす人2人、チンドン太鼓を鳴らす人1人、宣伝をする人1人、それに宣伝ポスターを背中と前にぶら下げて後ろをついて歩く人たち何人か+私たち学生バイト2人、合計約10人だったような気がする、それで仙台の街の中を行列して流して歩いた。歌は『美しき天然』ではなかった。何か流行歌だったのだが、まったく思い出せない。しばらくぶりのなつかしいチンドン屋、その一員となって歩く自分、何とも奇妙な感じだった。午後、大学病院の近くの木町通り、戦災を受けない古い街並みが残っているところだったが、そこを歩いていたとき、チンドンをやめて一軒の家に入った。チンドン屋の親方の家だった。そしてそこで一休み、おかみさんが出てきてお茶とお菓子を出してくれた。昼飯のとき休んだだけ、けっこう疲れていたので、お茶が本当においしかった。みんな本当に優しかった。
 その家がどこにあったか、まったく街並みが変わってしまったのでわからない。チンドン屋などで宣伝しなくなった時代になったあの後、あの優しい人たちはどうなったのだろうか。
 ここまで書いてきたら思い出した、チンドン屋さんはちょうどその当時流行ったばかりの『お富さん』の唄(註3)を演奏していたのではなかったろうか。はっきりした記憶ではないが。
 もう何年チンドン屋を見ていないだろう。全国チンドンコンクールがどこかで開かれたなどというニュースや古い映画でたまに見るだけになってしまった。宣伝媒体としてのチンドン屋の役割はもう終わってしまった。

 もう一つ宣伝媒体として最近見ないのはアドバルーンである。
 このアドバルーンが出てくる流行歌があった。私の生まれた年につくられた映画の主題歌になったものだという。
  「空にゃ今日も アドバルーン
   さぞかし会社で 今頃は
   お忙しいと 思うたに
   ああ それなのに それなのに
   ねえ 怒るのは 怒るのは
   あたりまえでしょう」(註4)
 母方のK叔母が幼い頃「アア ソレニナニ ノニナノニ」と歌っていたと母が思い出してよく笑っていたが、この歌詞の後半がおもしろく、調子のいい歌だったので、私たち子どもも「アッタリマエデショウ」と大きな声を張り上げてよく歌ったものだった。
 町はずれの私の家からまた田畑からこのアドバルーンが遠くに高く見えたのだが、それを見つけた一瞬は子どもたちは大騒ぎをした。何の宣伝なのかなどはまったく関心がなく、ともかく高く上がっているのが珍しかった。
 さらに大騒ぎしたのは、前にも述べた飛行機による宣伝ビラまきだった(註5)。
 当然のことながらこんなものは戦時中なくなった。飛行機によるビラまきは戦争末期アメリカ軍によってなされたようだが、山形では見たことも聞いたこともない。
 アドバルーンは戦後とくに60年代を過ぎてから復活したが、飛行機によるチラシ撒きがなされたのは見たことがない。地方の都市、ちょっと大きな町の上空に上がっているアドバルーンを列車に乗るとよく見たものだった。しかし大都市ではあまり見なくなった。高い建物がたくさん建つようになって見えにくくなったからだろうか。やがて地方の市町村でも見なくなった。それだけさびれたのだろう。シャッター通りになるなどで宣伝をするような主体がなくなってきたからだろう。
 明治以降にできたチンドン屋を始めとする新たな宣伝媒体は新聞雑誌広告を除いてなくなってしまった、といっていいのではなかろうか。

 宣伝媒体の中心はやがてラジオそしてテレビになり、さらに最近ではパソコン等々の新しい情報機器になってきた。また、宣伝チラシは新聞折り込みで大量に配られ、ティッシュペーパー配りによる宣伝など、戦前には考えもしなかった方法や媒体でなされるようになっている。
 宣伝広告はPRとかコマーシャルとかいうしゃれた名前で呼ばれるようになり、広告代理店などの巨大企業がその中心的な担い手になってきた。
 チンドン屋の時代からの何と大きな変化、予想もしなかったことだ。『美しき天然』、若い人たちはこの歌を知っているだろうか。考えてみたらこれは明治につくられた唄、わからなくなって当たり前なのだが、この歴史ある唄、ズンタッタズンタッタのワルツのリズム、忘れ去られてしまうのは何かさびしい。

 なお、山形の薬師さまの祭りの植木市は戦後ますます盛んになった。野菜や花の苗を売る店も多く立ち並ぶようになり、1950年代、温床でトマトやキュウリなどの苗を育てていた生家にそうした店の人がよく買いに来ていたものだった(註6)。
 もう60年にもなるのではなかろうか、「おやぐっさま」のお祭りに行かなくなってから。その植木市は熊本市・大阪市の植木市と並ぶ日本三大植木市の一つと呼ばれるようになったとのことだ。そのうち行ってみたいと思っている。

(註)
1.11年1月18日掲載・本稿第一部「☆線路と歩き」(2段落目)参照
2.作詞:武島羽衣 作曲:田中穂積 1902(明治35)年
3.歌:春日八郎 作詞:山崎正 作曲:渡久地政信 1954年
4.『あヽそれなのに』 唄:美ち奴 作詞:星野貞志、作曲:古賀政男 1936年
5.12年5月14日掲載・本稿第四部「☆普通になった飛行機での移動」(1段落目)参照
6.11年3月11日掲載・本稿第一部「☆「循環型」だった農業」(5~6段落目)参照
                                                    (第六部に続く)

          ◇  ◆  ◇  ◆  ◇  ◆

 そもそも本稿は第四部で完結する予定でいた。しかし、書き落としたことがかなりあったことから、「補遺」と副題をつけてこの第五部の草稿を書き始めた。
 ところが、その補遺なるものがかなりの分量となってしまった。しかもまだまだ書き落としていることがある。また、ボケも始まっていないようなのでもう少し書き続けられそうである。
 それで、いったんここで第五部を閉じ、第六部を新たに起こして、書き続けることにする。そして、第五部の副題はその内容の主な部分を示す「風土・作物・子どもの頃雑感」と訂正し、第六部の副題を「補遺」とする。
 農業と直接かかわりのないことや年寄りの繰り言が多くなってしまうかもしれないが、できればもう少しつきあっていただきたい。                           (2013年2月記)
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コメント

[C33] こんにちは

第五部おつかれさまでした!

こう何年も何年も毎週楽しみに読み続けていると、
生活の一部となっているこのブログが
いつか大団円をむかえる日がくるということが
今は信じられませんね(^^

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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