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お歯黒、ちょん髷、髪型


              今は昔、思いつくまま(1)

              ☆お歯黒、ちょん髷、髪型

 家内はいう、幼いころ家内を育ててくれた本家の祖母(註1)は「お歯黒」をしていたと。そう言われて私も思い出した。私の祖母もしていた。ただし、もうはげかけていた。私が生まれたころはお歯黒の塗り替えなどはしなくなっていたのだろう。
 ごぞんじのように、女性が結婚すると歯を黒く染めるという風習が江戸時代にあり、明治末期にはほぼなくなったと言われているのだが、昭和初期まで一部に残っていたのである。
 それでは、と家内に聞いてみた、「ちょん髷」を結っている人を見たことがあるかと。見たことがないという。当然のことである。明治維新のとき断髪令が出されて禁止されたからである。
 つまり、江戸時代の風習の一つのお歯黒は禁令が出なかったので維新後も女性に一部残ったが、男性のちょん髷は禁令が出たので残らなかったのである。
 ところが、私はちょん髷を結っている人を見たことがある。
 小学校何年のころだったろうか、家の前の道路で遊んでいたら、腰の曲がった本当に小柄なお年寄りが一人、当時農家の男性が普通に着ていた短めの袖無しの着物を上に着、下は股引(ももひき)をはいて、杖を突きながらゆっくりと歩いてきた。ふとその人の頭を見たら、何と、その白髪頭はちょん髷ではないか。映画などでは見たことがある。しかし、本当に髷を結っている人を見たことはなかった。驚いた。江戸時代の姿を見たのである。
 家の前を通り過ぎるのを黙って見送った後、あわてて家に入り、たまたま家にいた祖父母にその話をした。そしたら笑いながら言う、近くの村の農家の人で、断髪令が出ても断固としてちょん髷を結っている変わり者として有名な人なのだと。そのとき聞いた村の名前は忘れてしまったが、山の麓の集落だったような気がする。
 後でわかったのだが、断髪令には罰則はなかったとのこと、それで髷を切り落とすのを拒む人もいたと言う。このお年寄りもそうだったのだろう、理由はわからないが。なお、お歯黒についてはとくに禁止令もなかった。それでかなり後まで残ったのだろう。
 それはそれとして、ともかく私はそのお年寄りを見たときには驚いた。ちょん髷などというのは映画や本のさし絵などでしか見られない江戸時代、明治維新以前の話、遠い遠い昔のことだった。それを今見る、驚くのは当たり前、本当に不思議だった。
 しかし、考えて見たらおかしくはない。明治維新は、そのちょん髷を私が見た1940年前後からすると、約75年前でしかなかった。そして80年前は江戸時代だった。
 今私は77歳、私の生まれた1930年代半ば、いわゆる昭和初期は、私には遠い時代の話ではない。しかし、考えて見ればもう80年近くも前の話なのだ。
 今の子どもたちからすると、1930年代、戦前や太平洋戦争の時代などと言うのは、私にとってのちょん髷時代、西南戦争くらいに遠い昔の話なのである。まさに「今は昔」、今ではもう昔のことでしかないのである。

 その昔のことを私はこれまで語ってきた。前にも言ったことなのだが(註2)、また疑問になってくる、こんな遠い昔の話をして何になるのだろうかと。私と同世代、近い世代ならなつかしく思うかもしれない。しかし若い人にすれば、私にとっての江戸時代の話を聞いているようなもの、もうこんなことは語ってもしかたのないことかもしれない。ましてや「昔は昔、今は今」である。昔と今はまるっきり違うのであるから、昔がこうだった、ああだったなどと語ってもしかたのないことなのかもしれない。ついついこんな疑問をもってしまう。
 しかし、と、また考え直したくなる。昔のことから学ぶべきこともあるのではなかろうか、いいことも悪いことも。
 たとえば昔の人の知恵と工夫、これは科学技術の基礎であり、学ぶべきことはいまだに多々ある。私たちの暮らしの面でもそうだ。今回の震災などはそれを考えさせるものでもあった。とすると、昔のことを語り継いでいくことも必要なのではないか。もちろん役に立つかどうかなどはわからないし、役に立たないものがほとんどだろう。しかし役に立たないことも、無駄も必要なのだ。
 悪いことはもちろん引き継がず、ただしていく、二度と起こさないようにしていく。悪いこと、間違ったこと、思い返すのもいやだが、こうしたことをきちんと見ない、反省しない、ここからさまざまな誤りも出てくるからだ。たとえば、わが国の引き起こした侵略戦争、アジア諸国民に与えた被害を、いかに苦しくとも、はっきり見て、きちんと反省していかなければならない。それをしないことが隣国との問題を複雑にし、解決をかえって困難にしている。これなどはその典型例だ。
 そんなことからこれまでいろいろと私的なことまで含めて書いてきたのだが、書き落としたことがまだ多々あり、また私も何とか元気でいる。そこで「今は昔」の話をもう少し書き続けさせていただこうと思う。東北農業と直接かかわりのないことも触れることになるが、これも東北の農業・農村を取り巻いていた情勢の一つだと思って見ていただきたい。

 さて、さきほど頭髪の話が出たので、もう少しその話をさせてもらおう。
 私の小さいころの昭和初期は、男はみんな坊主頭だった。髪を伸ばして七三に分けている人もいたが、それはお役人か高級サラリーマンだけだった。たとえ伸ばしても、満20歳の徴兵検査(註3)のときには切らなければならなかった。兵隊はすべて坊主頭だったからである。
 子どもももちろん坊主頭だったが、そうでないものつまりいわゆる坊ちゃん刈りをしているのは、医者の息子などお金持ちの子どもだけで、私の小学校には一人もいなかった。
 女の子はみんなおかっぱだった。
 いずれの髪型にせよ、みんな床屋さんに行って整えてもらった。私も、髪が伸びてくると近くの床屋さんに行き、バリカンで頭をくりくりにしてもらったものだった。一歳下の妹も当時女の子に流行りのおかっぱ頭にするために床屋に行っていた。
 ただし、女の子は学校を卒業するころになると髪を長く延ばし、若いころはそれを三つ編みにし、結婚したらそれを後ろでくるっとまるめるだけなので、結婚式など特別なことがないかぎり、床屋はもちろん髪結いにもいかなかったような気がする。私の母と祖母は、長い髪を後ろに丸めているだけなので伸びすぎると自分ではさみで切ってそろえていた。夏になると母がよく井戸のわきで髪を洗い、髪を切っていた。くしけずるために髪を前にたらすと母の顔が髪で見えなくなり、幽霊みたいになるのでいやだった。
 しかし、若い女性のなかに美容院(当時は「パーマ屋さん」と呼んでいたが)でパーマネントをかける人も出てきていた。
 ところが、日中戦争が泥沼に入ったころ「パーマネントはやめましょう」と言う言葉が流行った。パーマは欧米の悪い習慣、派手なおしゃれで戦時下にふさわしくないと軍部が言いはじめ、それに官民あげて呼応したのである。私たち子どもも何が何だかよくわからないが、みんなで「パーマネントはやめましょう」などと大きな声で叫びながら遊んだものだった。なお、私の小学三年の担任だった若い女の先生のあだ名が「パーマ」だった。禁止運動が盛んになる前にパーマをかけていたということかららしいが、そのあだ名は非国民を意味するので、かなりいやがっていた。
 ちょうどそのころから、男はすべて坊主頭になった。国民総動員、坊主頭の軍人の気持ちでみんな戦わなければならないときに頭髪を伸ばしているのは非国民だという雰囲気にさせられていたからである。

 わが家にも変化があった。太平洋戦争が始まったころ、私が小学校に入ったころではなかったかと思う、父がバリカンを買ってきて私たち兄弟と祖父の頭髪を刈ってくれるようになったのである。縁側に座り、エプロン代わりに大きな風呂敷を首にかけて胸の方におろし、父が私たちの後ろに行き前に行きしながら刈ってくれ、西洋カミソリで顔を剃ってくれた。祖父のもわれわれ兄弟のもすべて父がやってくれたが、父の頭については母がやっていた。髭剃りは父が自分でやっていたが。
 自分の家でやれるのに他人に頼んで金をとられることはない、こういう農家の自給自足の精神からだったのではないかと思うのだが、家族数が多く、床屋の料金もばかにならないこともあったのだろう。

 戦後、当然のことながら頭髪については自由になった。都会の若い男は髪を伸ばし、女性はパーマネントをかけるようになつた。それでも子どもたちはまだみんな坊主頭だった。新制高校生(旧制中学生)もそうだったが、50年代後半から髪の毛を伸ばすものも出てきた。でもまだ多くは坊主、私は高校を卒業するまで父のバリカンで頭を刈ってもらった。
 60年代になると、高齢者を除いてほとんど長髪となり、子どもはみんないわゆる坊ちゃん刈りになった。だからみんな床屋に行くようになり、父のバリカンは祖父と父自身のときしか出番はなくなった。
 やがて、農家の男性も都会と同じようにほとんど長髪となり、女性は美容院に行くようになった。頭髪のファッションは都市も農村も変わりなくなってきた。
 ところが私の父は、床屋には行くようになったが、一生坊主頭で通した。どうしてなのかわからない。私も聞き漏らしてしまった。父は坊主頭なのが当たり前と思って過ごしてきたからなのかもしれない。

 街の中、さまざまな髪型をした男女が歩いている。これも表現の自由、何もいうことはないのだが、男だか女だかわからない髪型でちょっとまごつくことがあるのが不便だ。
 さらに最近では、赤、茶、金、紫等々、さまざまな色の髪の毛をした男女を見かけるようになった。親からもらった髪の色をなぜ染めなければならないのか、しかもあんな色にしなければならないのかがよくわからない。年寄りになって白髪を振り乱すのは他人に不愉快な思いをさせるかもしれない、何か特別な事情がある、だから髪の毛を染める、それならそれでわかるのだが、それにしてもなぜあんな色なのか。
 「緑の黒髪」、「髪は烏の濡れ羽色」、これが日本女性の、若い女性の誇りだったはずなのだが。男も男だ、なぜ髪の毛を染めなければならないのか。
 こんなことを言うのは時代遅れ、「昔は昔、今は今」、表現の自由だ、そう思って何も言わないことにしてはいるが、男子学生が髪の毛を金色に染めてきたときなどはついつい皮肉を言ってしまう、「身体髪膚これを父母に受く あえて毀傷せざるは孝の始めなり」と。こんなことを言うのも年寄りの悪い癖、困ったものだ。

(註)
1.10年12月18日掲載・本稿第一部「☆跡継ぎを産む道具としての嫁」(5段落目)参照
2.10年12月4日掲載・本稿第一部「☆農業・農村の変化とその記録の意味」(5~7段落目)参照
3.明治から敗戦のときまで、満20歳に達した男子はすべて徴兵検査を受けることが義務付けられていた。一般には兵隊検査と言われたが、体格等を検査され、兵士に適するかどうかで甲乙丙丁に区分された。

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プロフィール

酒井惇一

Author:酒井惇一
元・東北大学農学部教授
元・東京農業大学生物産業学部教授
現・東北大学名誉教授

 本稿は、昭和初期から現在までの4分の3世紀にわたる東北の農業・農村の変化の過程を、私が農家の子どもとして体験し、考えたこと、また農業経営研究者となってからの調査研究で見、聞き、感じたことを中心に、記録したものである。

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